憲兵 (日本軍)
憲兵(けんぺい)とは、大日本帝国陸軍において陸軍大臣の管轄に属し、主として軍事警察を掌り、兼て行政警察、司法警察も掌る兵科区分の一種。
沿革
日本陸軍においては、1881年(明治14年)、フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範として、憲兵条例[1]により設置された。なお、この憲兵条例等の勅令により置かれる憲兵を勅令憲兵(ちょくれいけんぺい)といい、このほかに軍令により編成され軍司令官の命令に服する憲兵を軍令憲兵(ぐんれいけんぺい)という。本項では特記のない限り勅令憲兵について詳述する。
なお、明治時代に置かれていた屯田兵について、平時は「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制」(屯田兵例則)するものとされ、警察が十分に整備されていない開拓時代の北海道において治安維持に当るものとされた。そして、「屯田兵諸勤務ハ凡ソ憲兵ノ規則ニ據ルヘシト雖モ目下北海道ニ於テハ人民寡少事務閑暇ナルヲ以テ其細目ノ如キ之ヲ行フトキハ却テ径庭ヲ生スヘキカ故ニ各長官ノ適宜ニ処分スルヲ以テ可トスヘシ」(屯田兵例則)とされ、憲兵勤務は事実上、長官の裁量に委ねられた。その結果、屯田兵が実態として憲兵任務を担うことはなかった。
任務
一般憲兵の任務
日本の憲兵制度は、フランスの国家憲兵隊制度を参考にしたため、陸軍大臣の管轄に属するとされながらも、海軍の軍事警察や行政警察、司法警察も職務として、それらについては陸軍大臣以外の主務大臣の指揮を承るものとされた。
具体的に憲兵は、陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察(軍事警察に係るものは陸軍大臣及び海軍大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり)を掌り兼て行政警察(行政警察に係るものは内務大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり)、司法警察(司法警察に係るものは司法大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり)を掌るものとされた。海軍には独自の憲兵は置かれず、海軍大臣は軍事警察に係るものについては憲兵を直接指揮できるものとされた。そのため、海軍の要人警護等には陸軍の憲兵が当たった。
憲兵は武装していたが、警察比例の原則から、暴行を受けたときやその占守する土地若しくは委託された場所又は人を防衛するに兵力を用いるほかに、他に手段がないとき又は兵力を以てしなくては抗抵に勝つことができないときにのみ、武器を使用することができるものとされていた。
韓国駐箚憲兵の任務
第三次日韓協約(1907年(明治40年)7月24日締結)の非公式取極めにより、韓国における警察権が日本に委任されることとなり、「韓国ニ駐箚スル憲兵ニ関スル件」(明治40年勅令第323号)[2]が制定された。これによると、内地の憲兵が軍事警察を主とするのに対して、韓国に駐箚する憲兵は治安維持に関する警察を主として兼ねて軍事警察を掌るものとされ、主従が一般と逆転していた。これは、日本国外である韓国内において普通警察では機動的な治安維持の任務を果たせないことに鑑みて、憲兵に普通警察の任を果たさせようとしたものである。
1910年(明治43年)7月1日には、人員の不足を補うために朝鮮人の憲兵補助員制度が創設された[3]。憲兵補助員は陸軍一等卒・陸軍二等卒の取扱いに準じるものとされた。
1910年(明治43年)9月10日、「韓国ニ駐箚スル憲兵ニ関スル件」は廃止され、新たに「朝鮮駐箚憲兵条例」(明治43年勅令第343号)が制定された。こうして、韓国においては憲兵が警察官を兼任し、朝鮮駐箚憲兵隊司令官が朝鮮総督府警務部長を兼ねる状態が続いていたが、1919年(大正8年)にこの制度が廃止された。
配置編制
概要
全国の憲兵の頂点に憲兵司令官が置かれた。憲兵の部隊は、一般の部隊のように連隊・大隊・中隊・小隊の編制を採らず、各地に配置される憲兵隊が基本単位となっていた。憲兵隊の下に、警察署に相当する憲兵分隊(分隊と呼称されるが数十名の人員が居る)があり、憲兵分隊の下に憲兵分遣隊がある。
明治22年当時
憲兵司令部([「東京]]に一箇
- 憲兵司令官 憲兵大佐一名
- 副官 憲兵大中尉二名
- 軍吏 一、二等軍吏一名
- 書記 憲兵下士五名
- 軍吏部下士 一、二、三等書記二名
本部
- 隊長 憲兵中少佐一名
- 副官 憲兵大中尉一名
- 軍吏 二、三等軍吏一名
- 下副官 憲兵曹長一名
- 書記 憲兵下士三名
- 軍吏部下士 一、二、三等書記二名
分隊
- 分隊長 憲兵大中尉一名
- 書記 憲兵下士一名
- 伍長 憲兵下士若干名
- 憲兵上等兵 若干名
隊の編成
- 憲兵上等兵五名を1伍とし、数伍を以て一分隊とする。
- 憲兵隊は地名を冠し謀憲兵大と称す。
明治28年当時
1895年の明治28年勅令第95号によって全面改正された「憲兵条例」によると、当時の憲兵の編成は次の通りであった。なお、ここにいう「伍長」とは階級ではなく職名である。
- 憲兵司令部(東京)
- 憲兵隊(各師管毎に置く但し一府県にして両市間に跨がるものは其の府県庁所在地を管轄する憲兵隊の管轄に属す)
- 憲兵分隊(各師管の衛戍地、要害地、鎮守府、北海道廳、各府県庁所在地及び其の他の要地に漸次憲兵分隊を置き其の管轄区域を憲兵管区とす)
- 分隊長:憲兵大尉・中尉
- 書記:憲兵下士
- 上等伍長(准士官):憲兵曹長
- 伍長:憲兵曹長(但し上等伍長を置かざることを得)
- 憲兵上等兵(憲兵上等兵5名乃至12名を以て1伍として、数伍を以て1分隊とし数分隊を以て1隊と為す時宜に依り1伍中の若干名を乗馬兵と為。)
明治29年当時
1896年(明治29年)は憲兵司令官が陸軍少将からも任じられるようになった。憲兵管区が第1から第7まで定められるようになった。憲兵分隊が府県単位に置かれるようになった[4]。
明治29年5月25日勅令232号台湾憲兵隊條例で憲兵隊が台湾に置かれるようになったが、明治30年9月22日勅令第332号憲兵隊條例で台湾憲兵隊条例廃止となり、憲兵隊條例に統一されることとなった。また、この条例改正で憲兵隊管区を第1乃至第10と区分された。
第1管区 東京府、神奈川県、群馬県、千葉県、山梨県、茨城県、栃木県、長野県、埼玉県
第2管区 宮城県、新潟県、青森県、秋田県、福島県、岩手県、山形県
第3管区 愛知県、石川県、三重県、富山県、静岡県、岐阜県、福井県
第4管区 大阪府、京都府、兵庫県、和歌山県、滋賀県、岡山県、奈良県、鳥取県
第5管区 広島県、愛媛県、山口件、高知県、島根県、香川県、徳島県
第6管区 熊本県、長崎県、福岡県、鹿児島県、宮崎県、佐賀県、大分県、沖縄県
第7管区 北海道
第8管区 台湾守備混成第一旅団守備管区
第9管区 台湾守備混成第二旅団守備管区
第10管区 台湾守備混成第三旅団守備管区
職員の配置 憲兵司令部
- 憲兵司令官 少将若しくは憲兵大佐
- 副官 憲兵少佐、憲兵大尉、中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士若しくは属
憲兵対第1乃至第7 本部
- 隊長 憲兵中、少佐
- 副官 憲兵大、中尉
- 軍吏
- 下副官(准士官) 憲兵曹長
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
分隊
- 分隊長 憲兵大、中尉
- 分隊副官 憲兵中尉
- 書記 憲兵下士
- 上等伍長(准士官)憲兵曹長
- 伍長
- 憲兵上等兵
憲兵対第8乃至第10 本部
- 隊長 憲兵大、中佐
- 副官 憲兵大、中尉
- 軍医
- 獣医
- 軍吏
- 下士官(准士官) 憲兵曹長
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
- 蹄鉄工長若しくは蹄鉄下長
- 看護長
分隊
- 分隊長 憲兵大尉
- 分隊副長 憲兵中尉
- 軍医
- 上等伍長(准士官)憲兵曹長
- 伍長
- 書記
- 憲兵上等兵
- 看護長
明治31年当時
明治31年11月29日勅令337号憲兵条令改正によって憲兵管区が15となる。
- 第1憲兵隊管区 近衛師管、第1師管
- 第2憲兵隊管区 第2師管
- 第3憲兵隊管区 第3師管
- 第4憲兵隊管区 第4師管
- 第5憲兵隊管区 第5師管
- 第6憲兵隊管区 第6師管
- 第7憲兵隊管区 第7師管
- 第8憲兵隊管区 第8師管
- 第9憲兵隊管区 第9師管
- 第10憲兵隊管区 第10師管
- 第11憲兵隊管区 第11師管
- 第12憲兵隊管区 第12師管
- 第13憲兵隊管区 台湾守備混成第一旅団守備管区
- 第14憲兵隊管区 台湾守備混成第二旅団守備管区
- 第15憲兵隊管区 台湾守備混成第三旅団守備管区
職員の配置 憲兵司令部
- 憲兵司令官 少将若しくは憲兵大佐
- 憲兵副官 憲兵少佐、憲兵大尉、中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士若しくは判任文官
憲兵対第1乃至第12 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐、大尉
- 憲兵副官 憲兵中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
分隊 本部
- 憲兵分隊長 憲兵大、中尉
- 憲兵分隊副官 憲兵中、少尉
- 書記 憲兵下士
伍
- 憲兵伍長 憲兵曹長、一等軍曹
- 憲兵上等兵
憲兵対第13乃至第15 本部
- 憲兵隊長 憲兵大、中佐
- 憲兵副官 憲兵大、中尉
- 軍医
- 獣医
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
- 看護長
- 蹄鉄工長(下)長
分隊
- 憲兵分隊長 憲兵大尉
- 憲兵分隊副長 憲兵中尉
- 軍医
- 書記 憲兵下士
- 看護長
伍
- 憲兵伍長 憲兵下士
- 憲兵上等兵
明治32年
明治32年9月11日勅令381号憲兵条令改正によって憲兵管区が15となる。
- 第1憲兵隊管区 第1師管
- 第2憲兵隊管区 第2師管
- 第3憲兵隊管区 第3師管
- 第4憲兵隊管区 第4師管
- 第5憲兵隊管区 第5師管(徳島県 板野郡鳴門村、瀬戸村、撫養村、里浦村、大津村、北灘村を追加)
- 第6憲兵隊管区 第6師管
- 第7憲兵隊管区 第7師管
- 第8憲兵隊管区 第8師管
- 第9憲兵隊管区 第9師管
- 第10憲兵隊管区 第10師管
- 第11憲兵隊管区 第11師管(愛媛県 越智郡西伯方村、盛口村、瀬戸崎村、大山村、宮窪村、津倉村、亀山村、鏡村、宮浦村、岡山村、関前村、波方村、波止濱村、近見村、今治村、日吉村、立花村、冨田村、櫻井村、下朝倉村、清水村、鴨部村、九和村、日高村、乃万村、大井村、小西村を追加)(徳島県 板野郡鳴門村、瀬戸村、撫養町、里浦村、大津村、北灘村 愛媛県 越智郡西伯方村、盛口村、瀬戸崎村、大山村、宮窪村、津倉村、亀山村、鏡村、宮浦村、岡山村、関前村、波方村、波止濱村、近見村、今治町、日吉村、立花村、冨田村、櫻井村、下朝倉村、清水村、鴨部村、九和村、日高村、乃万村、大井村、小西村を除く)
- 第12憲兵隊管区 第12師管
- 第13憲兵隊管区 台湾守備混成第一旅団守備管区
- 第14憲兵隊管区 台湾守備混成第二旅団守備管区
- 第15憲兵隊管区 台湾守備混成第三旅団守備管区
職員の配置 憲兵司令部
- 憲兵司令官 少将若しくは憲兵大佐
- 憲兵副官 憲兵少佐、憲兵大尉、中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士若しくは判任文官
憲兵対第1乃至第12 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐、大尉
- 憲兵副官 憲兵中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
分隊 本部
- 憲兵分隊長 憲兵大、中尉
- 憲兵分隊副官 憲兵中、少尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵曹長、一等軍曹
- 憲兵上等兵
憲兵対第13乃至第15 本部
- 憲兵隊長 憲兵大、中佐
- 憲兵副官 憲兵大、中尉
- 軍医
- 獣医
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、軍吏部下士
- 看護長
- 蹄鉄工長(下)長
分隊
- 憲兵分隊長 憲兵大尉
- 憲兵分隊副長 憲兵中尉
- 軍医
- 書記 憲兵下士
- 看護長
班
- 憲兵班長 憲兵下士
- 憲兵上等兵
憲兵隊長は第1第5第12乃至第15憲兵隊を通して二名限り憲兵大佐を以て之に充つることを得。
明治33年当時
明治33年5月30日勅令第250号憲兵条令改正
- 第1憲兵隊管区 第1師管
- 第2憲兵隊管区 第2師管
- 第3憲兵隊管区 第3師管
- 第4憲兵隊管区 第4師管
- 第5憲兵隊管区 第5師管(徳島県 板野郡鳴門村、瀬戸村、撫養村、里浦村、大津村、北灘村を追加)
- 第6憲兵隊管区 第6師管(佐賀県 西松浦郡曲川村、大山村、二里村、東山代村、有田村を追加)
- 第7憲兵隊管区 第7師管
- 第8憲兵隊管区 第8師管
- 第9憲兵隊管区 第9師管
- 第10憲兵隊管区 第10師管
- 第11憲兵隊管区 第11師管(愛媛県 越智郡西伯方村、盛口村、瀬戸崎村、大山村、宮窪村、津倉村、亀山村、鏡村、宮浦村、岡山村、関前村、波方村、波止濱村、近見村、今治村、日吉村、立花村、冨田村、櫻井村、下朝倉村、清水村、鴨部村、九和村、日高村、乃万村、大井村、小西村を追加)(徳島県 板野郡鳴門村、瀬戸村、撫養町、里浦村、大津村、北灘村 愛媛県 越智郡西伯方村、盛口村、瀬戸崎村、大山村、宮窪村、津倉村、亀山村、鏡村、宮浦村、岡山村、関前村、波方村、波止濱村、近見村、今治町、日吉村、立花村、冨田村、櫻井村、下朝倉村、清水村、鴨部村、九和村、日高村、乃万村、大井村、小西村を除く)
- 第12憲兵隊管区 第12師管(佐賀県 西松浦郡曲川村、大山村、二里村、東山代村、有田村を除く)
- 第13憲兵隊管区 台湾守備混成第一旅団守備管区
- 第14憲兵隊管区 台湾守備混成第二旅団守備管区
- 第15憲兵隊管区 台湾守備混成第三旅団守備管区
職員の配置 憲兵司令部
- 憲兵司令官 少将若しくは憲兵大佐
- 憲兵副官 憲兵少佐、憲兵大尉、中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、計手若しくは判任文官
憲兵対第1乃至第12 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐、大尉
- 憲兵副官 憲兵中尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、計手
分隊 本部
- 憲兵分隊長 憲兵大、中尉
- 憲兵分隊副官 憲兵中、少尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵曹長、軍曹
- 憲兵上等兵
憲兵対第13乃至第15 本部
- 憲兵隊長 憲兵大、中佐
- 憲兵副官 憲兵大、中尉
- 軍医
- 獣医
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、計手
- 看護長
- 蹄鉄工長
分隊
- 憲兵分隊長 憲兵大尉
- 憲兵分隊副長 憲兵中尉
- 軍医
- 書記 憲兵下士
- 看護長
班
- 憲兵班長 憲兵下士
- 憲兵上等兵
憲兵隊長は第1第5第12乃至第15憲兵隊を通して二名限り憲兵大佐を以て之に充つることを得。
明治34年当時
明治34年4月8日勅令第29号憲兵条令改正
憲兵対第1乃至第12 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐、大尉
- 憲兵隊副官 憲兵中尉
- 憲兵隊附 憲兵中、少尉
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、計手
分隊 本部
- 憲兵分隊長 憲兵大、中尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵曹長、軍曹
- 憲兵下士、上等兵
憲兵対第13乃至第15 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐
- 憲兵隊副官 憲兵大、中尉
- 憲兵隊附 憲兵隊、中尉
- 軍医
- 獣医
- 軍吏
- 書記 憲兵下士、計手
- 看護長
- 蹄鉄工長
分隊
- 憲兵分隊長 憲兵、中大尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵曹長、軍曹
- 憲兵下士、上等兵
明治35年当時
明治35年10月13日勅令第223号憲兵条令改正
職員の配置 憲兵司令部
- 憲兵司令官 少将若しくは憲兵大佐
- 憲兵副官 憲兵少佐、憲兵大尉、中尉
- 副監督
- 書記 憲兵下士、計手若しくは判任文官
憲兵対第1乃至第12
本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐、大尉
- 憲兵隊副官 憲兵中尉
- 憲兵隊附 憲兵中、少尉
- 副監督
- 書記 憲兵下士、計手
分隊 本部
- 憲兵分隊長 憲兵大、中尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵特務曹長、曹長、軍曹
- 憲兵下士、上等兵
憲兵対第13乃至第15 本部
- 憲兵隊長 憲兵中、少佐
- 憲兵隊副官 憲兵大、中尉
- 憲兵隊附 憲兵隊、中尉
- 軍医
- 獣医
- 上等計手
- 書記 憲兵下士、計手
- 看護長
- 蹄鉄工長
分隊
- 憲兵分隊長 憲兵、中大尉
- 書記 憲兵下士
班
- 憲兵班長 憲兵曹長、軍曹
- 憲兵下士、上等兵
明治43年以降
「朝鮮駐箚憲兵条例」(明治43年勅令第343号)が制定され、朝鮮駐箚憲兵に関する配置等が定まった。朝鮮駐箚の憲兵隊司令部は京城に置かれ、その職員としては次のものが置かれた。
- 憲兵隊司令官
- 憲兵隊司令部副官
- 憲兵隊司令部附佐尉官
- 憲兵下士
- 経理部将校相当官・准士官・下士(任意的)
- 軍医部将校相当官・准士官・下士(任意的)
- 獣医部将校相当官・准士官・下士(任意的)
- 蹄鉄工長(任意的)
- 高等文官・判任文官(任意的)
また、各憲兵隊管区に1憲兵隊が配置された。憲兵補助員制度は引き続き残置された。
昭和12年以降
勅令第三七八号陸軍憲兵学校令(昭和12年7月31日付)により、憲兵練習所は廃止となった。
昭和20年以降
勅令第一六二号(昭和20年3月30日付)憲兵例改正により以下のような職員配置となった。
憲兵司令部
憲兵司令官
副官
部員
憲兵分隊長
附
准士官、下士官、憲兵兵長及び判任官
地区憲兵隊
地区憲兵隊長
憲兵分隊長
附
准士官、下士官、憲兵兵長及び判任官
関東州に於ける憲兵分隊
憲兵分隊長
附
准士官、下士官、憲兵兵長及び判任官
1945年(昭和20年)4月1日、憲兵の編成配置が大きく変更された[5]。これは軍備の急激な膨張に伴う軍要員の急激な増大に鑑み、憲兵機構の整備を図るため、各軍管区毎に憲兵隊司令部を置き、また西部軍管区の区域にあっては、別に広島師管区及び善通寺師管区の区域については、特に各別に憲兵隊司令部を置き、各憲兵隊司令部の管区内には憲兵隊地区を設け、各憲兵隊地区毎に地区憲兵隊を設けることとする等の必要があることによって所要の改正がなされたものである。
これによると、憲兵隊司令部が置かれる都府県はその憲兵隊直轄区域となるので、地区憲兵隊は、憲兵隊司令部が置かれない府県毎に置かれるが、北部憲兵隊にあっては旭川、釧路、函館、樺太憲兵隊が置かれた。また、海軍の主要根拠地たる鎮守府には、そこを担当する地区憲兵隊が置かれた。即ち、東部憲兵隊では横須賀軍港境域のみを担当する横須賀地区憲兵隊が、中部憲兵隊では舞鶴軍港境域のみを担当する舞鶴地区憲兵隊が、中国憲兵隊では呉軍港境域のみを担当する呉地区憲兵隊が、西部憲兵隊では佐世保軍港境域のみを担当する佐世保地区憲兵隊が置かれた。
終戦時の憲兵隊配置
憲兵隊司令部 | 位置 | 地区憲兵隊 | 軍管区 |
北部憲兵隊司令部 | 札幌 | 旭川、函館、釧路、樺太 | 北部軍管区の区域 |
東北憲兵隊司令部 | 仙台 | 青森、盛岡、秋田、山形、福島 | 東北軍管区の区域 |
東部憲兵隊司令部 | 東京 | 横浜、横須賀、千葉、甲府、宇都宮、浦和、水戸、前橋、新潟、長野 | 東部軍管区の区域 |
東海憲兵隊司令部 | 名古屋 | 富山、岐阜、静岡、津、金沢 | 東海軍管区の区域 |
中部憲兵隊司令部 | 大阪 | 大津、福井、奈良、和歌山、神戸、京都、舞鶴 | 中部軍管区の区域(広島及び善通寺師管区の区域を除く) |
中国憲兵隊司令部 | 広島 | 岡山、鳥取、呉、松江、山口 | 広島師管区の区域 |
四国憲兵隊司令部 | 善通寺 | 徳島、松山、高知 | 善通寺師管区の区域 |
西部憲兵隊司令部 | 福岡 | 小倉、佐賀、長崎、佐世保、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄 | 西部軍管区の区域 |
朝鮮憲兵隊司令部 | 京城 | 羅南、咸興、新義州、平壌、海州、春川、清州、大田、大邱、釜山、全州、光州 | 朝鮮軍管区の区域 |
台湾憲兵隊司令部 | 台北 | 台南、花蓮港 | 台湾軍管区 |
※昭和20年3月30日の改正による。
満洲方面には関東憲兵分隊が置かれ、新京・奉天・大連・哈爾賓・佳木斯・チチハル(斉々哈爾)・孫呉・牡丹江(密山憲兵分隊・虎林憲兵分隊)・延吉・四平・錦州・間島・興安・承徳・ハイラル(海拉爾)の各分遣隊があった。
戦地の軍令憲兵
中国大陸には北支那派遣憲兵隊司令部・中支那派遣憲兵隊司令部と南支那派遣憲兵隊、開封・漢口・九江・杭州・済南・徐州・上海・青島・石門・蘇州・蘇北・太原・張家口・鄭州・天津・南京・北京の各憲兵隊があった。この内、漢口憲兵隊は1945年7月26日に第16方面軍憲兵隊への改編が決まっていたが、編成完結前に終戦となった。
北支那派遣憲兵隊司令官は、隷下憲兵隊とは別個に設置された北支那特別警備隊の司令官を兼ねた。北支那派遣特別警備隊は1943年(昭和18年)8月24日の軍令陸甲第81号によって設置され、唐山に司令部を置き10個大隊と1個教育隊で構成され特殊秘密作戦に従事した。秘密作戦という性格からか戦死率が高く、終戦までに800名を越す戦死者を出し大隊長1名と中隊長3名を失っている。
この他、フィリピン・スマトラ等南方方面憲兵隊の任地域と上級部隊は下表の通り。
担任地域 | 憲兵隊名称 | 上級部隊 |
フィリピン | 第14方面軍憲兵隊 | 第14方面軍 |
スマトラ | 第25軍憲兵隊 | 第25軍 |
マレー | 第29軍憲兵隊 | 第29軍 |
蘭印 | 第16軍憲兵隊 | 第16軍 |
ビルマ | 緬甸方面軍憲兵隊 | 緬甸方面軍 |
セラム島 | 第5野戦憲兵隊 | 第19軍 |
ラバウル | 第6野戦憲兵隊 | 第8方面軍 |
ハルマヘラ | 第8野戦憲兵隊 | 第2方面軍 |
ソロン | 第10野戦憲兵隊 | 第2軍 |
仏印 | 南方軍第1憲兵隊 | 南方軍 |
タイ | 南方軍第2憲兵隊 | 南方軍 |
ボルネオ | 第37軍憲兵隊 | 第37軍 |
終戦時の憲兵兵力は国内外の合計でおよそ36,000人であった。
人事
歴代憲兵司令官
初代憲兵司令官には、越後長岡藩出身の三間正弘憲兵大佐が就任した。但し、その後の憲兵司令官には主に陸軍中将(憲兵科を含む兵科の少将以上には兵科区分がない)が充てられたため、人事運用上、憲兵科出身ではない者も多く憲兵司令官に任じられた。
- 三間正弘 大佐:1889年3月20日 - 1893年4月5日
- (心得)春田景義 中佐:1893年4月6日 -
- 春田景義 大佐:1893年11月1日 -
- 原田良太郎 少将:1897年9月28日 -
- 山内長人 少将:1899年2月10日 -
- 林忠夫 大佐:1902年9月16日 -
- 谷田文衛 中将:1909年8月1日 -
- 須永武義 少将:1910年11月30日 -
- 南部辰丙 中将:1912年2月27日 -
- 橋本勝太郎 中将:1915年2月15日 -
- 小池安之 少将:1916年3月24日 -
- 石光真臣 少将:1918年6月10日 -
- 長坂研介 少将:1920年8月10日 -
- 山田良之助 少将:1922年2月8日 -
- 小泉六一 少将:1923年8月6日 -
- 柴山重一 少将:1923年9月20日 -
- 荒木貞夫 少将:1924年1月9日 -
- 松井兵三郎 中将:1925年5月1日 -
- 峯幸松 少将:1927年3月5日 -
- 外山豊造 中将:1931年8月1日 -
- 秦真次 中将:1932年2月29日 -
- 田代皖一郎 中将:1934年8月1日 -
- 岩佐禄郎 中将:1935年9月21日 -
- 中島今朝吾 中将:1936年3月23日 -
- 藤江恵輔 少将:1937年8月2日 -
- 田中静壱 中将:1938年8月2日 -
- 平林盛人 少将:1939年8月2日 -
- 豊島房太郎 中将:1940年8月1日 -
- 田中静壱 中将:1940年9月28日 -
- 中村明人 中将:1941年10月15日 -
- 加藤泊治郎 少将:1943年1月4日 -
- 大木繁 中将:1943年8月26日 -
- 大城戸三治 中将:1944年10月14日 -
- 飯村穣 中将:1945年8月20日 - 1945年11月1日
階級
兵科の少将以上は兵科区分がないため、憲兵特有の階級としては陸軍憲兵大佐以下の官(階級)が設けられた。また、司法権の行使に密接に関与する特別な部門であることから、1940年(昭和15年)に歩兵科・砲兵科・騎兵科・工兵科・輜重兵科・航空兵科の兵科区分が廃止された際も、各部(衛生部・獣医部・経理部・軍楽部など)と同様に憲兵のみ存続した。
1879年(明治12年)10月10日当時、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵では大尉及び中尉がそれぞれ1等及び2等に分けられ、また参謀[6]は大尉のみ1等及び2等に分けられていたが、憲兵のみは大尉及び中尉とも1等・2等の分類はなされていなかった[7]。
長らく最下級の憲兵は憲兵上等兵とされていたが、1940年9月15日に旧「陸軍憲兵上等兵」は「陸軍憲兵兵長」(兵1級)と改称されたが[8]、1942年(昭和17年)11月17日に憲兵兵長の下に再度、新「陸軍憲兵上等兵」(兵2級)が設置された[9]。
憲兵を設置した地方においては、憲兵将校及び憲兵下士は司法警察官として、憲兵卒は巡査と同じく司法警察の事務を行うものとされた[10]。
補充
憲兵は、将校准士官下士官兵を問わず、他の兵科・各部とは異なり入隊時に憲兵科に指定される者はおらず、必ず他兵科からの転科志願者から充てられた。このように、熱意を持った志願者のみで、在隊中の勤務態度が吟味され身辺調査を経て、更に憲兵隊での学科試験や面接をもって充足されることから、憲兵は規律正しく品行方正で意欲旺盛な者が中心となっていた。
憲兵科軍人又は憲兵科へ転科する軍人に対する教育は、1899年(明治32年)以降は憲兵練習所[11]で、1942年以降は陸軍憲兵学校[12]で行われた。
昇進
他の兵科(兵種)と異なり、戦時の消耗が少なく、また目立つ任務ではないことから功績を挙げにくく、軍楽部と共に昇進が難しい兵科各部とされた。平時では多くが伍長で予備役編入、軍曹や曹長、准士官にまで昇進できるのはごく一部の者だけであった。そのため、「監軍護法」をスローガンに縁の下の力持ちに徹して、法令遵守を最目標とし、軍による反乱に際しては身を挺して職務遂行に当たった。
処遇
兵(卒)の場合も実施学校で専門教育を受けるため、最下級でも憲兵上等兵以上となった(1940年-1942年除く)。下士官兵であっても憲兵は、適正な司法警察権の行使を完全ならしめるために営内居住ではなく、他兵科各部の将校准士官や(古参)下士官と変わらず大半が営外で居住し、そのために多額の営外加棒も支払われていた。また、私服での隠密捜査も多いため丸刈りはあまり行われていなかったという。
憲兵科であっても、兵卒は国民の義務として兵役に服しているのであって、本来は官吏としての待遇を受けるものではないが、警察の巡査が判任官待遇を受けていることとの均衡から、1895年7月15日に憲兵上等兵も判任官待遇を受けることとなった[13]。
1942年1月から憲兵上等兵候補者を全国から募集した。募集にあたって学歴を一切問わなかったというが、兵卒の大部分が小学校卒であった時代において、実際の合格者に占める小卒の割合は一割程度だった[14]。合格後の待遇は破格のもので、一般兵卒の月収が当時8円80銭、小学校教員の月収が46円(1929年)ほどだったのに対し、憲兵上等兵は基本給7円に加え、憲兵加棒7円50銭、営外加棒36円の支給を受け月額50円50銭の月収があった(1927年の陸軍給与令による支給規定)[15]。
装備・軍装
騎兵や輜重兵等と同じ帯刀/乗馬本分者とされ、下士官兵であっても官給品として乗馬長靴や革脚絆、拳銃、軍刀を佩用することになっていた[16]。将校准士官は陸軍服制に則り一般の将校准士官と同じく将校軍刀・指揮刀を佩用するが、拳銃は常時携帯しない。
憲兵の武器使用には制限があったため、平時の武装はこれら拳銃と軍刀のみであり、有事の際にはこれに加え下士官以下は騎兵銃など小銃を携行した。またこのほか、勤務手帳(憲兵手帳)[17]、呼笛、捕縄、包帯などを携帯することが定められていた。なお、上海事変時の上海憲兵隊や朝鮮憲兵隊の一部では、警備のため軽機関銃や手榴弾の支給を受けることがあった。
また、憲兵下士官兵には他兵科/兵種・各部の下士官兵とは異なる特有の軍装として、マントの支給を受けていた(主に防寒・防雨用。外套は全陸軍下士官兵共通)。このマントは将校准士官マント(着丈は外套とほぼ同寸。憲兵を含む全陸軍将校准士官共通、旧名称は雨覆)とは異なり短寸(着丈は上衣とほぼ同寸法)でケープに近いものであり、その体裁の良さから好んで使用されていた。マントは着脱可能な頭巾を備える。
襟章・胸章の定色(兵科色)は黒色で、1940年の兵科定色廃止(各部は存続)以降は旭日章(六光旭日)の金属徽章を襟部に佩用した。このほか、主に下士官兵は白地に赤色で「憲兵」と書かれた憲兵腕章を左腕に着用する。この腕章は1923年(大正12年)制定で、同年に発生の関東大震災の被災地に出動した補助憲兵が臨時に巻いていたものが制式となったものである。なお、将校准士官は基本的に憲兵腕章は着用しない。また、外地では現地人が分かりやすいように腕章に記す「憲兵」の漢字の下部分に、主に英語圏ではMP,MP.,M.P.(Military Police)、フランス語圏ではGENDARME,Gendarmeと、各国語で憲兵を意味する文字を併記した。
補助憲兵
1905年(明治38年)9月6日に「乗馬兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(明治38年勅令第208号)が制定され、衛戍総督又は衛戍司令官は、乗馬兵科(騎兵科など)の者を憲兵分隊長等の指揮に属させ、憲兵の勤務を補助させることを認めた。この憲兵の勤務を補助する者には、憲兵条例が準用された。これによって指定された者は、所属兵科の服装を着用し、その上で左腕に赤布の腕章を着用した。
1923年10月11日に「各兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)が制定され、必要により憲兵科以外の各兵科の者を補助憲兵とすることが認められた。補助憲兵は憲兵分隊長等の指揮に属し憲兵の勤務を補助するに過ぎないが、憲兵条例が準用された。これによって指定された補助憲兵は、所属兵科の服装を着用し憲兵腕章を着用した。
なお、これら補助憲兵は正規の憲兵とは異なり逮捕権や捜査権は持てず、あくまで補助として用地警備や災害発生時などに臨時で任命され使われる立場であった。そのため、正規の憲兵が教育面や意識面において選ばれたエリートであるのに対し、補助憲兵とでは質の面では差があった。
著名な憲兵
著名な憲兵としては次の者などがいる。
- 甘粕正彦(歩兵科から転科。大尉時代の甘粕事件で免官)
- 大谷敬二郎(東京憲兵隊特高課長、東京憲兵隊長、東部憲兵隊司令官を歴任)
- 加藤泊治郎(砲兵科から転科。中将まで昇る)
- 四方諒二(歩兵科から転科。戦時中は東京憲兵隊長。終戦後に少将で復員)
- 代田銀太郎
- 三浦三郎(歩兵科から転科。終戦後に中将で復員)
- 三宅篤夫(東京憲兵隊長、小倉憲兵隊長などを歴任。少将で予備役編入)
憲兵に対する評価
陸軍軍人軍属違警罪処分例[18]により、陸軍の軍人・軍属の犯した違警罪は憲兵部(憲兵部が置かれていない地では警察署)で処分できたこともあり、一般兵にとっては、監軍護法のため何かとやかましい事を言う「目の上の瘤」的存在であり、またその職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため、憲兵に対するイメージはいいものではなかった。
また、1923年9月の関東大震災直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長の甘粕正彦憲兵大尉が大杉栄、伊藤野枝及び橘宗一を殺害するという事件を起こした(甘粕事件)。発覚後、憲兵隊の捜査により起訴された甘粕大尉及び森慶次郎憲兵曹長は軍法会議で有罪判決を受けて服役する。また、監督責任を問われて憲兵司令官小泉六一少将らは停職となった。以上の一部憲兵による行為は法令に違背し憲兵の職務に悖るものである。
他方、憲兵は、司法警察権も掌ることから、治安警察法及び治安維持法等を、一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であり、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまで及ぶこととなった。帝国議会の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認していた。事前に政府や軍部に批判的な政党・議員の発言内容や攻撃材料を入手する事も憲兵の任務だったと言う。東條英機の首相在任中には憲兵をして反対派(中野正剛などが知られている)を圧倒し、東條もこれを積極的に活用した事からこれらを「東條憲兵」と呼んだ。戦後、東條は周囲に「憲兵を使いすぎた」ともらしたという。戦後のBC級戦犯裁判で有罪となり処刑された者は1,000名にのぼるが、その3割が憲兵だった。
戦後、「鬼より怖い憲兵」というイメージが誇張され、憲兵に対する批判が左翼的な思想を持つ人々を中心にされたりもしたが、1969年(昭和44年)4月に靖国神社境内に「憲兵の碑」が建立された。
もっとも、憲兵がその身命を賭して職務に忠実な事例も多い。例として、相沢事件では永田鉄山陸軍省軍務局長を守ろうとした東京憲兵隊長の新見英夫憲兵大佐が重傷を負った。また、二・二六事件では、渡辺錠太郎大将を反乱部隊から守ろうとした憲兵が殉職している。
脚注
- ^ 憲兵条例は明治31年勅令第337号によって全面改正された。更に、昭和4年勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。
- ^ 明治43年勅令第301号により改正され、朝鮮駐箚憲兵条例(明治43年勅令第343号)により廃止された。
- ^ 明治43年勅令第301号。
- ^ 明治29年5月25日勅令第231号。
- ^ 昭和20年勅令第162号(同年4月1日施行)による憲兵令の改正。
- ^ 当時は、参謀は独立した一つの兵科区分であった。
- ^ 明治12年10月10日改正の陸軍武官官等表。
- ^ 昭和15年勅令第581号。
- ^ 昭和17年勅令第798号。
- ^ 「憲兵将校下士ハ司法警察官トシ卒ハ巡査ト同ジク司法警察ノ事務ヲ行ハシム」(明治15年5月布告第23号)
- ^ 明治32年勅令第368号により設置された。
- ^ 昭和12年勅令第378号により設置された。
- ^ 明治28年勅令第111号。
- ^ 1935年の旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・旧制実業学校)への進学率は18.5%に過ぎなかった。昭和初期においても8割以上が小卒だったということになる。
- ^ 全国憲友会連合会編纂委員会『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、1976年 P.1411
- ^ このため、「乗馬兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(明治38年勅令第208号)では、憲兵を補助するために指定される者は乗馬兵科に限られていた。「各兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)により、乗馬兵科に限られなくなった。
- ^ 警察官の警察手帳に相当する身分証明書。
- ^ 明治19年勅令第44号。
関連項目
- 海軍特別警察隊 - 占領地において編成された、日本海軍における憲兵隊に相当する機関。
- 警務科・警務官 - 自衛隊における、憲兵隊・憲兵に相当するもの。
- ゴーストップ事件
- ケンペーくん - 漫画家ならやたかしの漫画作品。
- 小林源文 - 父が元憲兵。
外部リンク
- 日本陸海軍史(憲兵司令官、東京憲兵隊長、朝鮮憲兵隊司令官及び関東憲兵隊司令官の各一覧がある)