コンテンツにスキップ

南田島 (川越市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。119.240.186.82 (会話) による 2011年5月18日 (水) 17:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

日本 > 埼玉県 > 川越市 > 南田島 (川越市)

南田島(みなみたじま)は、埼玉県川越市東南部の地名。旧入間郡南田島村

郵便番号は350-0027。2009年9月1日現在の人口は2,519人[1]

地理

川越市の東南部に位置し、北東を大中居、東部を泉町並木西町、東南部を藤木町木野目、南部を牛子下新河岸新河岸川を跨いだ西南部を、西部を扇河岸、北西部を大仙波と接している。大部分は農地だが、住宅開発も進みつつある。地域西側を新河岸川が、東側を九十川が流れているが、かつてこの九十川は地域南辺にも流れていた[2]

戦後の工事で流路が変更され、旭橋上流から川崎橋の上流に合流点が移された。この合流点付近も南田島の飛地であり、西部を牛子、東部を木野目、新河岸川を跨いだ南部を寺尾及びふじみ野市川崎と接している。地域を南北に富士見川越道路が、東西にJR川越線が通り、両者は立体交差している。駅は存在しない。最寄り駅は川越線南古谷駅だが、南部では東武東上線新河岸駅が利用されることもある。

河川

歴史

古くは三芳野郷山田庄に属した[3]永禄2年(1559年)に編纂された[4]北條役帳』(小田原衆所領役帳)に「備中殿五十貫文入東田島」とあり、南が冠されたのはそれ以降と推定される[3]徳川家康の関東入国以降、正保年間は松平信綱酒井内記榊原八兵衛知行だったが、後に河越城付の村となった。[3]江戸期は水田のみで、畑作はなされなかった。この頃の小名に一丁島、かんとうしろ、ぼたい、ばすま、ふつはり、はちかいと、なけいた、かちばし、高とうす屋敷分が挙げられている[3]

川越市の無形民俗文化財に指定されている南田島の足踊りは明治中期に森田森之助によって考案された。これを元に森田元次郎萩原泰治が面が取り外し自由の衣装など工夫を重ね現在の形になった[5]

明治時代に入って1889年明治22年)4月1日町村制施行に伴い、入間郡並木村連合戸長役場区域にあった南田島村は牛子村今泉村久下戸村並木村木野目村及び古市場村連合戸長役場区域のは同区域にあった古市場村澁井村と合併し南古谷村大字のひとつとなった[5]1876年(明治9年)の人口は451人[6]1955年昭和30年)4月1日、南古谷村は高階村名細村霞ヶ関村山田村古谷村大東村福原村と共に川越市に編入され、南田島は川越市の大字のひとつとなった。国道254号バイパス1977年(昭和52年)に着工された富士見川越有料道路の無料部分として、1981年(昭和56年)に供用開始された。また字堤外の一部が2004年(平成16年)2月21日木野目・並木のそれぞれ一部と併せ藤木町となった[7]

史跡

施設

  • 南田島公民館農民センター
  • 九十川排水機場 -南側飛地、九十川と新河岸川の合流点に所在。

教育機関

交通

道路

鉄道

脚注

  1. ^ 川越市 町字別・男女別人口と世帯数(川越市役所HP) 2009-09-09閲覧。
  2. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月。
  3. ^ a b c d e f 『新編武蔵風土記稿巻之百六十七』、「大日本地誌体系(八)新編武蔵風土記稿 第八巻」雄山閣、1957年9月再版所収。
  4. ^ 『埼玉大百科事典』第1巻、埼玉新聞社、1974年3月、pp322-333。
  5. ^ a b c 『埼玉大百科事典』第5巻、埼玉新聞社、1975年5月、p51。
  6. ^ 新編埼玉県史 別編5 統計 付録『町村編成区域表他』埼玉県、1981年3月。
  7. ^ 旧新地番対照表(藤木町)-川越市役所HP(PDF)、2009-10-11閲覧。

関連項目

外部リンク