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愛新覚羅慧生

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愛新覚羅慧生
プロフィール
出生: 1938年(昭和13年)2月26日
死去: 1957年(昭和32年)12月4日
出身地: 満州国新京市
各種表記
繁体字 愛新覚羅慧生
簡体字 爱新觉罗慧生
拼音 Àixīnjuéluó Huìshēng
和名表記: あいしんかくら えいせい
発音転記: アイシンジュエルオ フイシェン
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愛新覚羅慧生(あいしんかくら えいせい、1938年2月26日 - 1957年12月4日頃)は、および満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟溥傑の長女。天城山心中で死亡した女性として知られる。

※以下の記述は、脚注を除き、愛新覚羅浩1992年舩木1989年による。

経歴

昭和13年(1938年)、溥傑と嵯峨浩(日本の侯爵家出身)夫婦の第一子として、満州国の首都新京で生まれる。翌年、父が満州国駐日大使館に勤務となり、東京に行く。その次の年の昭和15年(1940年)に妹の嫮生(こせい)が生まれた後、新京に戻る。新京にいる間は皇帝である伯父の溥儀に大変可愛がられた。

昭和18年(1943年)春、学習院幼稚園に通うために再び日本に行き、日吉神奈川県横浜市港北区)にある母の実家の嵯峨家に預けられる。これ以後19歳で死ぬまで、日本で過ごすことになる。同年秋、父が陸軍大学校に入学する関係で父母や妹が東京に来たため、一家で麻布狸穴で生活する。翌年12月、父は陸軍大学校を卒業し、父母や妹は新京に帰ったが、慧生は学校のことがあるため日本に残り、日吉の嵯峨家に再び預けられる。新京に帰る父らを羽田空港で見送ったが、これが父との永遠の別れとなる。

昭和20年(1945年)に日本の降伏により、満州国は解体する。父は赤軍に捕らえられ、以後昭和35年(1960年)(慧生の死後)に釈放されるまでソ連と中国で獄中生活を送ることになる。一方、母と妹は中国大陸を流転した末に昭和22年(1947年)日本に帰ってくる。日本に帰ってきた母と妹は慧生のいる日吉の嵯峨家で一緒に生活することになる。

慧生は学習院初等科学習院女子中等科学習院女子高等科と学んだ。中等科に進む頃から中国語の勉強を始め、高等科に在学中の昭和28年(1953年)、中国の周恩来首相に対して「父に会いたい」という中国語で書いた手紙を出し、これに感動した周により、連絡が取れなかった父との文通が認められる。

高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対に遭い[1]、昭和31年(1956年学習院大学文学部国文科に入学する。同じ学科の男子学生大久保武道と交際をするが、母を始めとする家族には交際を打ち明けられる環境ではなかった[2]。昭和32年(1957年12月4日の夜に入る頃、天城山で大久保の所持していたピストルで大久保と心中死したと推察されている。2人の遺体は12月10日に発見された(天城山心中)。

なお、嵯峨家側は大久保による無理心中(ストーカー殺人)だったと主張している。

慧生と中国

慧生は学習院幼稚園に入園以後ずっと日本で生活をしたが、中国への関心を持っていたとされる[3]

慧生は読書家であったが、その関心の一部は中国文学や漢詩、自身の先祖にあたる王朝に関する書物などに向けられていた。

昭和30年(1955年)、父の従弟の溥儒zh)が来日してしばらく逗留した際には、その通訳をしている[4]。慧生は溥儒によって佩英(ペイイン。水晶の飾り玉のこと)という号をつけてもらっている。溥儒が来てから、慧生の中国人としての自覚は一段と高まり、私服で外出するときは好んで高い詰襟の中国服を着るようになった。

その一方で、慧生自身が大学時代に親友に中国へ帰国する意志のないことを打ち明けている[5]

趣味

  • 音楽に関心があり、ピアノヴァイオリンを習っていた。4歳(数え年)になる頃、皇帝からピアノを買い与えられたが、李香蘭と同じ先生に教わっており、彼女と一緒に演奏したこともあった[6]。少ししてからヴァイオリンも習うようになり、満州では皇帝のピアノ伴奏に合わせて弾いていた。学習院入学後は当時世田谷に住んでいた鈴木鎮一の指導を受けていたが、同じ仲間に豊田耕児がいた。昭和17年(1942年)、満州国建国10周年に高松宮が来満した時は、その記念として慧生が「高松宮殿下奉迎歌」を日本語と中国語の2カ国語で歌い、レコードを作った。
  • 上記の「慧生と中国」でも触れたが、読書家である。母の浩は、慧生の読書癖は父親似であると推察している。

評価

  • 慧生について、妹の嫮生は「ユーモラスで頭の良い人なのですが、威厳というか気品があり、姉妹といえども近付き難いところがありました」と述べている[7]
  • 中国の首相・周恩来は、昭和36年(1961年)に、中国に帰国したばかりの母の浩や、父の溥傑らを食事に招いた際に、慧生について、「彼女の手紙を読んだことがあり、あのような勇敢な子が好きです、若い人には勇気が必要だ」と言われた[8]

脚注

  1. ^ 哲学は赤(社会主義)に染まりやすいことと、その年に哲学科を受験する予定の女子は一人のみで、男の学生と混じって哲学を論じているうちに女らしさが薄れ、生涯を独身で過ごす可能性があるため[愛新覚羅浩1992年、211・212頁][愛新覚羅溥傑1995年、201頁]。
  2. ^ 渡辺1996年、188頁。大久保が嵯峨家を訪れた際には、母は「あのひと一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と嘲笑したとされる[穂積ほか1961年]。
  3. ^ 慧生の国籍は在日華僑[舩木1989年、185頁]。
  4. ^ 年は[渡辺1996年、144頁]による。
  5. ^ 「お母様は私が中国へ帰るものと思い込んで、中国語を習わせたりして期待してくださっているので、とても悪くて、帰る意思がないなんてことは言えないの。私が中国に帰りたくないというのは、武道さんとの結婚とは別の問題なのよ。それ、わかるでしょう。」[穂積ほか1961年]
  6. ^ 渡辺1996年、75頁
  7. ^ 「娘・福永嫮生から見た父・愛新覚羅溥傑」[渡辺1996年 所収 ※初出本には同節の記載なし]
  8. ^ 愛新覚羅溥傑1995年、244頁

参考文献

  • 愛新覚羅浩1992年『流転の王妃の昭和史』新潮文庫ISBN 4101263116(初出1984年)
  • 愛新覚羅溥傑1995年『溥傑自伝―「満州国」皇弟を生きて』(丸山昇=監訳・金若静=訳)河出書房新社ISBN 4309222684
  • 舩木繁1989年『皇弟溥傑の昭和史』新潮社ISBN 4103723017
  • 穂積五一・木下明子編1961年『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』鏡浦書房
  • 渡辺みどり1996年『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人―』文春文庫ISBN 4167171031 (初出1992年)