ジョン・ハワード
ジョン・ウィンストン・ハワード John Winston Howard | |
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生年月日 | 1939年7月26日(84歳) |
出生地 |
![]() ニューサウスウェールズ州シドニー |
出身校 | シドニー大学 |
所属政党 | オーストラリア自由党 |
配偶者 | ジャネット・ハワード |
サイン |
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在任期間 | 1996年3月11日 - 2007年12月3日 |
在任期間 | 1997年11月19日 - 1983年3月11日 |
選挙区 | ベネロング選挙区 |
在任期間 | 1974年5月18日 - 2007年11月24日 |
ジョン・ウィンストン・ハワード(John Winston Howard AC, 1939年7月26日 - )はオーストラリアの政治家(引退表明済み)。第25代オーストラリア首相(1996年3月11日 - 2007年12月3日)。ロバート・メンジーズに続いて二番目に長い任期を務める首相であった。
1995年1月にオーストラリア自由党の党首に就任し、2007年11月まで務めた。2004年10月9日に行われた総選挙は彼に四度目の任期を与え、最近のオーストラリアにおける最も成功した政治家となった。趣味は クリケットで、健康のために散歩を日課としている。尊敬する政治家は英国のマーガレット・サッチャー元首相である。
生い立ち
シドニー郊外のアールウッドで生まれ育ち、アールウッド公立学校へ通った。彼はイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルにちなんでウィンストン, Winstonのミドルネームを付けられた。父ライエル・ハワードと父方の祖父Walter Howardは両人とも第一次世界大戦でFirst AIF, First Australian Imperial Force(オーストラリア帝国軍)の退役軍人だった。
ジョン・ハワードは青年期聴覚障害によるわずかな言語障害を持ち、この点でウィンストン・チャーチルと同じである。
一家はガソリンスタンドと機械工場をアールウッドの郊外, Dulwich Hillで経営した。父ライエルはジョンがティーンエイジャーの時に死去し、妻と三人の息子が残された。ジョンはカンタベリー・ボーイズ・ハイスクールに通い、シドニー大学に進学し法律学を学んだ。 1957年に自由党に参加する。
ジョンは1971年に自由党の同僚ジャネット・パーカーと結婚し、三人の子供をもうけた。ジャネットはハワードが首相在職中控えめであったが、それは彼の健康問題から取られたスタンスで、実際には彼女はハワードの有力なアドバイザーと評価される。
1974年の連邦議会総選挙で、シドニー北西郊外のベネロング区から立候補し当選する。1985年に自由党の党首となるが、1989年に退任、後1995年に再び自由党の党首に就任する。1996年の連邦議会総選挙で、与党の労働党を破り、自由党が政権の座に着き首相に就任。
首相として
一期目においては、歳出の削減やポートアーサー事件に関連して銃規制などを行った。1998年の選挙においては、自由党と国民党の連合を率いて臨んだ。この選挙の関心は、新間接税の導入と白豪主義政党・ワンネーション党 (One Nation Party) の動向であった。自由党と国民党の連合はこの選挙に勝利し、二期目の任期に入った。
二期目においてはGSTと呼ばれる新税の導入を行い、東ティモール問題に積極的に関与した。2001年8月に発生したアフガニスタン難民問題では、背景の複雑な事情もあり、受入れに反対している。その後、移民政策を厳格にしている。2001年に政権の座についた、米国のジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領とはもっとも近しい間柄で、京都議定書脱退に踏み切った際には、いち早くそれを支持した。自ら「米国の副保安官」と称するほどである。また、同じ年に就任し、親米・新自由主義政策を共有する日本の小泉純一郎前首相とも関係を深め、日本の国連・常任理事国入りに賛意を示し、靖国神社参拝にも一定の理解を示している。小泉の後を継いだ安倍晋三政権とも関係を深め、2007年3月の日豪首脳会談では安全保障協力に関する日豪共同宣言に署名している。同年6月には日豪外務・防衛トップによる2プラス2が東京で開かれている。その際、訪日したブレンダン・ネルソン国防相は日米が共同開発を進めるミサイル防衛への参画意思を示している。また、捕鯨問題においても、日本との友好関係重視の観点から政治問題化を回避させる政策をとっていた。
2001年11月に行われた選挙で、自由党陣営は勝利し、ハワードは三期目の首相の任についた。2003年のイラク戦争においては、アメリカ軍・イギリス軍に協力するために、イラクに部隊を派遣している。豪軍は主に、イラク南部で活動しており、日本の陸上自衛隊が活動していたサマワでオランダ軍が撤退した際には、即座に豪軍派遣を決定している。本来ハワードは、3期限りでその職を去ることが本意だったとされる。だが、後継候補であるピーター・コステロ財務相がカリスマ性に乏しく選挙は戦えないことや、豪州で長年論争の的になっている「共和制移行」を持論としていることから、ハワードが陣頭指揮を執ることとなった。ハワードは英王室の熱烈な支持者で、1996年に首相に就任した際には英国のユニオンジャックをあしらった国旗・国歌の義務化に踏み切っている。
2004年10月9日の連邦議会総選挙では、イラクに派遣している部隊の撤退が争点となったが、自由党は労働党に圧勝し、オーストラリア建国史上初となる四期目の首相の座に着いた。 tvパーソナリティ兼環境保護運動家のスティーブ・アーウィンの追悼式にも参加した。
2007年9月12日に行われたインタビューでは、苦戦が予想される次期総選挙後に再任されたとしても、任期満了までは職にとどまらず、前述のコステロ財務相への禅譲に言及していた。しかし、同年11月24日に行われた総選挙では、自身が党首をつとめる自由党と国民党の保守連合が敗北。ハワード自身も落選する大敗で、オーストラリア歴代2位の長期政権であったが、政権が交代することとなった。
現職首相の落選は、1929年のスタンリー・ブルース以来78年ぶり、オーストラリア政治史上2人目である。
オーストラリアサッカー革命
オーストラリアでは長らく、「3種類のラグビー、水泳、クリケット」が人気で、特に3種類のラグビー(オージーフットボール、ラグビー、ラグビーリーグ )とクリケットが4大スポーツと言われていた。オーストラリアは人口を増やす為に、移民を積極的に受け入れてきた。サッカーは特に欧州系移民の間で盛んで競技人口も多かったが、一般の国民にとってのサッカーは移民のスポーツであり、「観るスポーツ」としてはマイナースポーツであった。 ところが、オーストラリア政府主導の国家プロジェクトとも言うべき一連の改革『オーストラリアサッカー革命』により、オーストラリアサッカーは劇的な変貌を遂げた(ある有力紙記者は「天地が変わった」、「まさにおとぎ話」などと話している )。
はじまりは、2002 FIFAワールドカップ日韓大会の開催であった。初めて時差なしで観戦出来た2002 FIFAワールドカップ日韓大会で、オーストラリア国民のサッカーへの関心が高まった。そこに商業的価値を見出したオーストラリアの当時の首相ジョン・ハワードは「サッカー」をきっかけとしたオーストラリアのアジアへの進出というプランを描き、オーストラリアサッカー界改革を決意。オーストラリア国内最大手のデパートの経営者であり、国内有数の資産家のFrank Lowy(フランク・レービ)[1]にオーストラリアサッカー立て直しを依頼した[2]。政府の意向を受け、オーストラリアサッカー連盟は、2003年にフランク・レービを会長に選出し、2005年同国初のプロリーグAリーグ発足や「32年ぶりの独W杯出場」そして「アジアサッカー連盟(AFC)への転籍」などの改革を成し遂げた。
他、詳細はオーストラリアサッカー連盟のオーストラリアサッカー革命の項を参照のこと。
栄典
脚注
外部リンク
- John Howard - Australia's Prime Ministers / National Archives of Australia
- Prime Minister of Australia | John Howard - official website
- John Howard Lies - Website listing alleged lies told by John Howard
議会 | ||
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![]() ベネロング選挙区 1974 – 2007 |
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公職 | ||
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![]() 第25代:1996 - 2007 |
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![]() 第29代:1977 - 1983 |
次代 ポール・キーティング |
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![]() 第47代:1975 - 1977 |
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党職 | ||
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オーストラリア自由党党首 第12代:1995 – 2007 第8代:1985 - 1989 |
次代 ブレンダン・ネルソン (en) アンドリュー・ピーコック (en) |