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加賀尾秀忍

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加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶・教誨師。『モンテンルパの父』ともいわれる

概要

1901年1月5日岡山県真庭郡落合町に生まれる。1929年真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。

1949年11月4日フィリピンマニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。3月半ばののある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。こうして実現した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの夜は更けて』である。この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。自ら生涯かけて歌っていくことを決めた。そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐに自らのピアノで試し弾き手直しし、当初、5番から成っていたものを2番削除して3番編成とした。曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものが20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。弟や妻子を日本軍に殺害されたキリノ大統領も、加賀尾よりオルゴールの曲の作詞作曲が日本人戦犯であることを知る。会見より1ヶ月後の6月27日、フィリピンに生存している日本人戦犯の釈放が決定される。こうして1953年7月7日、フィリピン独立記念日の日に、日本人戦犯の特赦が実現し、7月15日、処刑された戦犯兵士の遺骨17柱と、戦犯としてニュー・ビリビッド刑務所に収容されていた108名の元日本人兵士とともに、帰還船「白山丸」(日本郵船所属の客船)でマニラを出港し、7月22日朝、横浜港大桟橋着で日本に帰国する。

その後、日本国内で僧侶として活躍しながら、『13階段と平和』と題して講演活動を行う。1973年には、日比親善に功労があったとして、勲三等旭日中綬章を授与された。

1977年5月5日朝、岡山県井原市の自坊で3度目の脳出血を発症して倒れる。倉敷市の倉敷中央病院に入院するも、5月11日重篤に陥り、3日後の5月14日午前12時22分、死去する、享年76歳。

演じた人物

テレビドラマ

薬師丸ひろ子が演じる渡辺はま子が主人公となっているものの、処刑立会いのシーンや歌作りの提案の場面

など、加賀尾秀忍が登場する重要な場面も少なからずある。

著作

  • モンテンルパに祈る 1953年 富士書苑

外部リンク