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佐田の海鴻嗣

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佐田の海 鴻嗣(さだのうみ こうじ、1956年7月19日- )は、1970年代末から1980年代前半にかけて活躍した大相撲力士である。大阪府堺市中区出身(出生地は熊本県阿蘇郡一の宮町(現・同県阿蘇市一の宮町))で、現役時代は出羽海部屋に所属した。最高位は東小結(1982年1月場所、同年3月場所、1983年11月場所)。本名は松村 宏司(まつむら こうじ)。現役当時の体格は183cm、128kg。

もろ差しからの速攻を得意とした、技能派力士であった。

来歴

中学校卒業後に出羽海部屋へ入門し、1972年3月場所で初土俵を踏んだ。

厳しい師匠(元横綱・佐田の山)や鷲羽山大錦などの個性溢れる兄弟子達に鍛えられて順調に番付を上げ、1978年3月場所で新十両昇進。そして、1980年11月場所で新入幕を果たした。

同場所では、初日からの9連勝の星を含め11勝4敗という好成績を収め[1]、初の三賞(敢闘賞)を受賞。師匠の出羽海親方(元佐田の山)からの「引くな」との教えを忠実に守り、持ち前の二本差しての速攻と前捌きの上手さが開花した。1982年1月場所では小結に初めて昇進し、8勝7敗と1点勝ち越した。この場所では、9日目に横綱千代の富士に勝った一番が評価され、殊勲賞を受賞している。

だが、幕内上位や小結での勝ち越しが何度かあった割には運が無く、一度も関脇には昇進できなかった。番付運の悪かった力士といえる。

その後肘を故障してからは低迷し、肘の手術に踏み切ったものの回復せず、幕内最終場所となった1988年3月場所では15戦全敗を記録している。その2場所後の同年7月場所中、現役に未練を残しつつも引退を表明。

以後は借株で年寄・二十山や同・中立などを襲名し、出羽海部屋付きや中立部屋(現・境川部屋)付きの親方として暫く日本相撲協会に残っていたが、1999年8月に退職した。

現在は、大阪府東大阪市内でちゃんこ料理店「佐田の海」を経営している。

家族

長男の松村要(佐田の海要)も中学校卒業後、父と同じ力士の道を選んだ。境川部屋に所属し、現在は、幕下上位にあって活躍中である。

2007年11月場所では三段目優勝、2010年1月場所では幕下優勝を遂げた。同年には、十両昇進も果たしている。

主な戦績

  • 通算成績:544勝580敗7休(98場所) 勝率.484
  • 幕内在位:45場所(うち、小結4場所)
  • 幕内成績:304勝371敗 勝率.450
  • 連続出場:1124回(序ノ口以来、1972年5月場所-1988年7月場所(6日目))
  • 三賞:殊勲賞1回(1982年1月場所)、敢闘賞2回(1980年11月場所、1985年3月場所)、技能賞1回(1981年11月場所)
  • 各段優勝:幕下1回(1979年7月場所)、序ノ口1回(1972年5月場所)

エピソード

  • 仕切る姿が、兄弟子の鷲羽山に似ていた。
  • 新入幕時、鷲羽山から「記者が沢山来るから、待っていろ」といわれた所、同じ新入幕の北天佑に記者が集中。そのため、佐田の海は待ちぼうけを喰った。このことが新入幕場所での奮起に繋がったと、後に語っている。以降、後に大関となる北天佑とは互角に戦った(成績は8勝8敗と全くの五分で、1984年9月場所までは8勝4敗まで差が開いていた)。
  • 序ノ口から引退の直前まで休場は無く、通算連続出場1124回の記録を残している。

四股名の変遷

  • 松村 宏司(まつむら こうじ)1972年5月場所-1978年3月場所
  • 佐田の海 鴻嗣(さだのうみ こうじ)1978年5月場所-1988年7月場所

年寄変遷

  • 二十山 宏司(はたちやま こうじ)1988年7月-1990年1月
  • 中立 宏司(なかだち -)1990年1月-1990年9月
  • 田子ノ浦 宏司(たごのうら -)1990年9月-1993年3月
  • 田子ノ浦 鴻嗣(- こうじ)1993年3月-1999年8月

脚注

  1. ^ “魁聖 31年ぶり快挙!新入幕で初日から9連勝 ”. スポーツニッポン. (2011年5月17日). http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/05/17/kiji/K20110517000835400.html 2011年7月3日閲覧。 (本記事に佐田の海以来の新入幕9連勝との記載がある)

関連項目