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八鹿高校事件

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八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)は、1974年11月22日、兵庫県立八鹿高等学校で、集団下校中の教職員約60名を部落解放同盟の同盟員が学校に連れ戻して13時間にわたり監禁、暴行し[1]、教師48名が負傷、うち29名が重傷、1名が危篤となった事件。刑事裁判では部落解放同盟の被告人13名が拉致・監禁(致傷)・強要・傷害の罪で起訴され、全員の有罪が確定した。民事裁判は3000万円の損害賠償判決で決着したが解放同盟側は最高裁判決の損害賠償金の支払いを現時点でも拒否し続けている。糾弾に荷担した兵庫県と県教育委員会は被害者全員に謝罪し慰謝料を支払った。

但馬地方ではこの事件以前から同様の部落解放同盟勢力と日本共産党勢力による衝突事件が起きており、一連の関係事件8件、被害者200名として多数の解放同盟員が起訴された。それらを総称して、「八鹿・朝来事件」と呼ぶこともある。

経過概略

但馬地方では、部落解放同盟支部が1973年に結成され、差別糾弾闘争と行政闘争が活発化した。一方、それを批判する動きも現れた。

そのような状況下の1974年1月、八鹿高校の部落出身女生徒と交際をしていた男性の父親(兵庫県幹部職員)が部落出身を理由として交際に強く反対し、部落に対する差別的な内容の手紙を息子に何通も送っていた結婚差別事件が明るみに出た。それと前後して但馬地方の別の高校でも、女生徒が同じ理由で失恋し家出後に奈良で凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生した。11月22日教師は、日本共産党所属参議院議員や兵庫県高等学校教職員組合委員長(日本共産党員)らとともに城崎温泉で戦術会議を開き、その結果「動員状況から危険」と判断。登校しても授業をせず下校することを決定。授業をしないまま一斉休暇を取ると宣言した。それに対し、解放同盟や兵庫県教組本部などによって結成されていた八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ライン(ピケ)を張って制止した。共闘会議側は、教師らを校内に連れ戻し、体育館などで「糾弾会」として自己批判書を書かせる事態に発展した。このとき、教師側に負傷者が出たのであった。体育館や解放研部室などでは自己批判書を書くまで以下のような状況が繰りひろげられた。

「解放研部室内で、右構成員らは、教諭らをそれぞれ数名で取り囲み、殴打、足げにし、首を絞めつけ、バケツの汚水を浴びせ、牛乳や飲み残しの茶を首筋に注ぎ、南京錠で頭部を殴打し、足を踏みつけ、煙草の火を顔面に押しつけるなどし、「殺してやる」、「二階の窓から落としてやる」などと脅迫して自己批判書等の作成を強要した。」(『八鹿・朝来暴力事件 検察官論告要旨』より)

下校していた解放研以外の生徒たちは部落解放同盟と解放研生徒らによる糾弾暴行事件発生を伝え救出を求める「町内デモ」を決行、暴行を受ける教師たちの救出を訴えた。事件後、日本共産党支持・不支持を超えて生徒を先頭に部落解放同盟に対する18,000人参加という大規模な町民抗議集会が行われ、大半の町民も集会に参加して教職員側を支持。

部落解放同盟員らが多数逮捕、但馬地方での一連の衝突事件と一括した形で起訴された。刑事裁判では一審、二審とも、一連の事件の背後には部落解放同盟と日本共産党の対立があり、解放研を認めなかった対応について教職員らの対応はいかにも性急で差別的と見られる余地があり、不適切な対応であると指摘されたものの、「被害の程度は許容範囲を超えており、可罰的違法性は肯定できる」と判断し、被告全員に執行猶予付き有罪判決を下した。1990年11月、最高裁の上告棄却により部落解放同盟のメンバー13名の有罪が確定し、それに続く1996年2月、暴行傷害犯人らに対する民事訴訟でも、3000万円の損害賠償請求が最高裁で確定した。また兵庫県と県教委も八鹿高校事件での「原告全員に慰謝料を支払うという和解に応じて裁判は終結した。

解放同盟支持派の見解

一方、事件後、解放同盟側から発表された「見解」や、解放同盟側に立った元社会党機関紙「社会新報」記者高杉晋吾の『部落差別と八鹿高校』、兵庫解放教育研究会『凍った炎』など[要検証]の文書によれば、

高教組組合員でもある教師たちは城崎温泉に宿泊しながら、兵庫高教組委員長(共産党員)や共産党参議院議員の指導を受けていた。教師たちが暴行されたとする「糾弾会」の最中、八鹿高校の教師から、「共産党は八鹿闘争を全党を挙げて取り組む。全国の天王山として背水の陣を敷いて臨む」「わなをかけて誘い込め。決戦する土俵が出来た」と記されたメモが発見され、また、衝突の直前、教室で教師が生徒に対して、「これから校庭で起きることをよく見ておけ」と発言していることもそこで指摘されている。『赤旗』記者をかなり以前から常駐させていたこと、11月22日の衝突前に、共産党系病院に教師を入院させる手はずを整えていることも明らかになっており、共産党側が、八鹿高校の解放研公認問題を解放同盟との一大決戦の場と位置づけ、周到な準備をしていた[要出典]

と、八鹿高校の混乱の根本原因は日本共産党にあると主張している。

解放同盟側に立つ人たち[誰?]の間では、解放同盟の「暴力」を告訴した日本共産党員教師が、後にそれが日本共産党員医師も加担した全くの捏ち上げであったことを告白し裁判で証言した[要出典]吹田市立岸部小学校事件の例を挙げ、日本共産党側のいう「負傷」についてその通りには受け取れないとする考えが根強い[独自研究?]。ただし、部分的に[要検証]暴力行為に及んだ同盟員がいたことは、解放同盟側の支持者[誰?]も認めている。 当時、兵庫高教組の加盟団体でもあった日教組は事件後、本部見解で自らの所属組合員が暴力行為による傷害を受けた事実を「遺憾」とした[要出典]ものの「生徒たちの要望に真摯に向き合おうとしなかったことについては教師として反省が必要」[要出典]との見解を発表した。

事件の余波

事件後、1970年代に「部落地名総鑑」が出まわって問題となったが、この「部落地名総鑑」の売り込みの文句は

「(略)同和行政については、各政党は重大な社会問題であるとして、激論をかわしているものの抜本的な解決策が何らなされていないのが現状である。(略)

(略)八鹿高校問題の様に暴力事件、リンチ事件が発生して社会的な問題となっている。

 これは一高校の問題であるとして見過ごすことはできない。この様な事は、企業においても起こりえないとは断言できない。これらの人々の採用が果たして妥当であるかということは、封建時代のイデオロギーとして残されたものであり問題ではないとすますことが出来るでしょうか。

 観念的、心情的に同情することも考えられるでしょう。八鹿事件に見る如く行動の多くに疑問が山積しているのではないでしょうか、問題は今、大きくクローズアップされている。企業において人事担当の各位にはこの点について如何様にお考えでしょうか。

 現在、我が国におきまして、昭和37年の総理府統計によると、4,160部落、111万人をこえる人口千人に対して11.8人という比率が出ている。実情は5,366部落を超えて現存している。私達は、この際、この様な事実関係を正確に認識して企業百年の将来のためにも誤りなきを期してゆかなければなりません。

 今般、企業の担当の各位に、その実態と実情を詳述した「部落地名総鑑」を提供して人事調査と人事考課に一助の資料としてお手許に届けたいと考えております」

と、本事件による一般人の恐怖心を意識した内容となっていた。また、1989年奈良県天理市で起きた天理西中学校事件では部落解放同盟奈良県連の同盟員らが「八鹿のように闘うぞ」とのシュプレヒコールとともに暴行傷害・器物損壊行為に及んでおり、「第二の八鹿高校事件」と呼ばれた。

新聞報道

三大紙では「朝日新聞」の報道が最も遅く、11月29日になってから初めて本事件を報じている。それも11月28日の参院法務委員会で日本共産党の内藤功議員の質問により、警察庁側が負傷者44人の存在を認めたためであった[2]。このことについて、朝日新聞記者の上丸洋一は次のように書いている。

「発生当時新聞は、この事件を兵庫県内の読者に向けて地方版に小さく報道しただけであった。なぜ社会面に書かなかったのか。事件から20年あまり経った95年、取材にあたった元新聞記者たちを訪ね歩き、話を聞いた。ある元部長は電話口でこう言った。『はっきりゆうたら逃げたんですよ。あまり関わりたくないという意識がありましたな』。ところが、その後じかに会ったとき、彼は『部落差別は深刻だ。被差別者の立場に立って…』と何かを警戒しているかのように、固い口調で繰り返した。その変わり様は不可解だった。別の元記者はこの事件の報道を再検討すること自体、けしからんことだ、といった口調だった。『部落解放のための糾弾を普通の暴力事件のように書けば、解放同盟が暴力集団のように見られてしまう懸念があった。だからできるだけ抑えた』と語る元支局部長もいた。 (中略)天声人語の筆者深代惇郎は、八鹿町を管轄する豊岡支局に電話をかけ、『なぜ、もっと書かないんだ』と若い支局員をしかったという。新聞は自らの主体的な判断で、事実は事実としてしかるべき紙面にきちんと書くべきだった。それが新聞の役割であり、書かないのは暴力の黙認に等しかった。いや、当時の記者にもその意識はあったに違いない。実際、多くの関係者が『いま思えば、もっと書くべきであった』と振り返った[3]

出典

  • 「赤旗」1974年11月23日「朝田一派 教師に血の集団リンチ」「5人重体、38人重傷」
  • 「毎日新聞」1974年11月24日朝刊「教諭ら43人けが」「兵庫県八鹿高 同和教育めぐり紛糾」
  • 「読売新聞」1974年11月25日朝刊「警察署長を告発」「兵庫県高教組 同和教育めぐる紛糾」
  • 「読売新聞」1974年11月26日朝刊「事実上の休校に 八鹿高」
  • 「読売新聞」1974年11月27日朝刊「八鹿高正常化へ」
  • 「神戸新聞」1974年11月23日朝刊「解放研と教師対立 数人ケガ授業できず 同和教育めぐり 八鹿高」
  • 「神戸新聞」1974年11月26日朝刊「違法行為見過ごさぬ」「県警警備部長説明 教師の負傷者45人」
  • 「神戸新聞」1974年11月26日夕刊「生徒会が正常化へ三要求」
  • 「神戸新聞」1974年11月27日朝刊「八鹿問題で共産党代表が兵庫県に申し入れ」
  • 「神戸新聞」1974年11月27日夕刊「45人ケガ 入院28人」
  • 「神戸新聞」1974年11月29日朝刊「授業再開ならず」「八鹿高校遠い正常化の道」
  • 「朝日新聞」1974年11月29日

外部リンク

脚注

  1. ^ 『八鹿・朝来暴力事件 検察官論告要旨』
  2. ^ 参院法務委員会 昭和四十九年十一月二十八日(木曜日) 兵庫県立八鹿高等学校における暴力事件に関する件
  3. ^ 朝治武灘本昌久畑中敏之編『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)

関連項目