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バブル景気

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1989年、三菱地所が約2000億円で購入したロックフェラー・センター(ニューヨーク)。当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴となった

バブル景気(バブルけいき)は、1980年代終盤から1990年代初期までの数年間に日本で起こった、資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象である(昭和・平成バブル)。情勢自体はバブル経済と同一。

実体経済から乖離して資産価格が一時的に大幅に高騰し、その後急速に資産価格の下落が起こる様子が、中身のないがふくれてはじける様子に似て見えることからこのように称する。また、その景気後退期を「バブル崩壊」などと呼称する。

概要

日本では1980年代後半~1990年代初頭までの不動産を中心にした過度な経済拡大期間を指すことが主である。1980年代後半には東京都山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど、日本の土地価格は高騰し、土地不動産、株式などの資産価格のバブル化が起こっていた。この事を呼称し「バブル経済」と呼ばれる。そしてこの頃から「持つ者」と「持たざる者」の貧富の差が拡大していると叫ばれるようになった。また、米国の2003年以後の住宅と金融を中心にした資産価格の高騰、景気拡大期は米国バブルと呼称されることが多い。

バブル経済とは総じて結果論として語られることが多く、その過剰な拡大期間の中では単に「好景気」といわれ、その後に多くの資産価格の下落をもたらし経済問題が多数噴出することで、結果として過去のその経済状況を否定的意味合いでバブルなどと呼称する。

現在イメージされる、ワンレングスヘアにボディコンワンピースの若い女性たちがジュリアナ東京扇子を振って踊り、日本中に札束が乱舞し金満社会になっていたという、極端にステレオタイプ化されたバブル景気のイメージは、1988年春頃以降に形成されたものである。1985年プラザ合意の直後は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け東京や大阪などの町工場には倒産が続出した。製造業の海外移転もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは、1988年春頃から1991年2月までの僅か数年である。

日本の景気動向指数で見る景気循環における第11循環の拡大期にあたる。指標の取りかたにもよるが、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間を指すのが通説である。これは、2002年2月から2008年2月まで73ヶ月続いた長景気(仮称:いざなみ景気、かげろう景気など)や1965年11月 - 1970年7月の4年9か月の57ヶ月続いたいざなぎ景気に次いで戦後3番目に長い好況期間となる。

過度な投機熱による資産価格の高騰(バブル経済)によって支えられ、その崩壊とともに急激に後退。同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、その後10年に亘る長期不況(失われた10年)の引き金となった。

名称の由来

「バブル景気」という語は1987年に命名されたとされ、元になった「バブル経済」という語自体は、1990年流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(誰が最初に使い、流行らせたのか判らないため)で受賞している。しかし、この語が広く一般に、実感を伴って認知されたのは、投機経済が崩壊した後である。例えば、1990年末に出版された朝日現代用語・知恵蔵1991には「バブル」という語は使用されていない。

元来、「バブル」は「泡」を意味する語なので、泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。1990年代初期には、平成景気(へいせいけいき)とも呼ばれた。

経済学者の野口悠紀雄は、1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」という論文を、『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、「私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」という言葉で規定したのは、これが最初だ」と述べている[1]

一方で景気の後退の様は「バブル崩壊」と言われ、「失われた20年」、更には格差社会の発生へとつながる。[要出典]

要因

バブル景気の引き金になったのは1985年プラザ合意とされている。当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国G5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。元大蔵省財務官榊原英資は、日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされたと著書の中で述べている。これにより、

  1. 中曽根内閣貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し、これまでの緊縮財政から一転、公共事業の拡大政策をとったこと。
  2. 急激な円高による不況を防ぐためや国内需要を拡大するため、公定歩合を一時は2.5%まで引き下げ、その後も低金利が続いたが、金融緩和(低金利)政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であったこと[2]
  3. また中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引下げられ、物品税も撤廃されて、国家税収の1/3が喪われたが、富裕層の所得はその分増大して、その多くは土地や株式に向かったため、株式相場や土地価格が膨張したこと。

それまでの素地として以下の要因があるとされている。

  1. 1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。
  2. 金利低下により利鞘が縮小し、銀行は融資の量的拡大で収益を確保する必要性に迫られたこと。
  3. 企業の資金調達手法が多様化し、間接金融から直接金融へ向かったこと。
  4. 企業の資金調達が容易になったことで財務体質が改善され、設備投資が容易に行えるようになったこと。
  5. 金融市場の国際化の流れから国内市場の門戸を開放せざるを得ず、海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化したこと。
  6. 「財テク」(=財務テクノロジー)に代表される企業の余剰資金運用を日本経済新聞等のマスコミが喧伝し、「特金ファンド」で法人の株式投資を活発化させ、個人投資家の株式投資を誘発したこと。主要全国紙はこの頃、株式欄を拡大させ、金融雑誌や金融商品評論家、不動産取引評論家等が出現して個人の金融取引を煽ったこと。
  7. NTTJRJT等の国営企業が民営化され、社会全体の企業活力が増したこと。
  8. 中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一 (東京都知事)による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引の活発化。
  9. リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化したこと。
  10. 円高の進行で輸入に頼る一次産品(エネルギー、原材料、食料価格等)のコストが低下したことによる企業収益の拡大。
  11. 米国の不況や貿易摩擦の解消の為に輸出規制がかかり、企業は国内市場の開拓に目を向けざるを得なかったこと。
  12. 1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていたこと。
  13. 企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだこと。

展開

これらの要因が重なって日本では投機熱が加速、特に土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aがかなり進められた。

1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌をにぎわしていた。

一方、識者の一部からは、すでに地価や株価は収益還元法などで合理的に説明できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していると危惧する声もあった。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007年から2008年には人口が減少に転じると予想されたことから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする政府の見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。

もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。損失を出してもいざとなれば含み益を用いて解消できるとして経営の多角化を進めたりハイリスクな事業を展開する、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。この動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。

地価高騰

大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。インカム・ゲイン(土地の有効活用による収益)ではなくキャピタル・ゲイン(将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益)を目的とすることが多かった。

土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。

道路用地の取得価格も高騰し、新東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。

地上げ

潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。

住宅高騰

地価上昇は、都市近郊に適当な戸建住宅を取得する事を困難にした。日本のような戸建主義的な都市構造において、いずれは戸建住宅を取得することが人生の夢・目標の一つであるとされ、それを動機として貯金に励む事も行われていた。しかし過度の地価上昇を見て、これ以上値上がりする前に一刻も早く住宅を取得するべきだと考える人も増え、その行動は、また、地価上昇に拍車をかけた。あまりにも住宅が高騰して、平均的な収入では最早購入するのが不可能な域に達する[3]と、二世代ローンも登場した。本人の資力で支払きれないところを、その子の資力をもって補うものである。

地価・住宅高騰と共に相続税も無視できない額に増えた。特に、長年のローンを組んで余裕が無い状況で相続が発生すると、支払うべき相続税を用意することができずに困窮する事もある。これに対応する為に、親類縁者の若者を養子にして一人当たりの相続額を下げて相続税を節約する手法がとられたり、変額保険を利用する節税手法が利用された。しかし、バブル崩壊後は資産運用の計画が狂い、窮地に追い込まれる契約者もあった。詳細は後述の#変額保険を参照。

住宅すごろく

地価上昇を前提とした住宅取得のモデルも提示された。若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」とも言われた。単に貯蓄をしていては住宅高騰に決して追いつけないが、マンションを資産として購入しておけば価格上昇が見込めて有利である、と説かれた。しかし、バブル崩壊後は物件を見極める目も厳しくなり、単にマンションである事では資産価値を認められなくなった。事実上資産価値の無くなったマンションに対する多額の支払いが残り、負債を抱えて身動きが取れないケースもある。

他方、あまりにも高騰した住宅の取得を早々にあきらめ、収入を貯蓄する事なく、高級車などの耐久消費財などの購入に充てる刹那(せつな)的な動きもあった。これは、さらなる消費の過熱と貯蓄率の低下につながった。

地価高騰を見て賃貸住宅の家賃も高騰し、結局都心から離れた土地へ移転を迫られ、通勤時間が長くなるという状況も生まれた。これら地価高騰と住宅問題は当時の日本政府の懸念事項であり、後の地価抑制政策につながり、信用構造を圧迫することになった。

国鉄清算事業団

国鉄清算事業団は、旧国鉄から引き継いだ未利用地を販売して負債削減を図った。その中でも汐留駅跡地は都心にあるまとまった優良地として、注目を集めた。しかしバブル景気で地価が高騰していた時代においては、かかる土地の売却が地価高騰を一層あおりかねないとの懸念が政府内部の他、経済界やメディア、国民諸階層にも了解があり、汐留駅跡地の売却を地価高騰時にしなかったことについて、その当時には全く問題のないこととされていた。

その結果、地価が暴落した後に売却にかかり、その他の土地も国鉄清算事業団の解散を控えて全て処分する必要があることから、バブル崩壊後の地価下落とも相俟って投げ売り同然で処分せざるをえなかった。結局、事業団全体では負債を増やした状態で解散したが、上記の通りバブル期には売却を抑制することが国民的な合意としてあったのであり、売却時を結果的に見誤ったことについて国鉄清算事業団を責めることはできない。

リゾート地開発

ほぼ同時期にリゾート法が制定(1987年)され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となった。特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大した。これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車をかけた。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められた。なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどであった。

財テクと消費の過熱

1987年、安田火災(当時)が約57億円で購入した絵画「ひまわり

バブル経済下では金融・資産運用で大幅な利益を上げる例が強調され、企業においても本業で細々と着実に利益(インカムゲイン)をあげるのでなく、所有する土地や金融資産を運用して大きな収益(キャピタルゲイン)を上げる「財テク(○○転がし)」(財テクブーム)に腐心する例もあった。

潤沢な資金による買いあさりの対象は、NTT株の公開に伴う一般投資家による投資や、フェラーリロールス・ロイスベントレーなどの高級輸入車サザビーズなどが開催したオークションによるゴッホルノワールなどの絵画や骨董品、にまで及ぶなど、企業や富裕層のみならず、一般人まで巻き込んだ一大消費ブームが起きた。

これらの背景には、中小企業主に対する融資が緩くなったことや、企業に勤めて新居購入のために貯金をしていた世帯が、土地価格の急激な上昇のため新居取得を諦め、新車購入や旅行、消費に走ったことが原因として挙げられる。

海外投資

潤沢な資金を得た企業が、海外の不動産や企業を買収した。著名なところでは三菱地所によるロックフェラー・センター買収(2000億円)、ソニーによるコロムビア映画買収をはじめとする事例で、海外不動産、海外リゾートへの投資、海外企業の買収が行われた。また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、海外の不動産に投資を行う者が出てきた。

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難が浴びせられた。また、海外不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられた。

流行語

バブル景気直前の1984年には、金持ちと貧乏人の生活や価値観を対比させた渡辺和博の著書「金魂巻」で使用された「○金○ビ(まるきん・まるび)」が流行語大賞となり、バブル景気時にもそのまま使用される。また、空前の好景気で国内外・昼夜を分かたず猛烈に働くことが時代の趨勢となり、「24時間戦えますか」のCMコピー(栄養ドリンクのCM曲勇気のしるし参照)が流行した。

新たな価値観・感性を持った若者は「新人類」と称された。ファッションでは「DCブランド」が持て囃され、その販売員は「マヌカン(ハウスマヌカン)」と呼ばれた。「ワンレンボディコン」の女性の一部が求める結婚相手は「三高」であり、若手エリート・「ヤンエグ」(ヤング・エグゼクティブ。30代で役付)の服装はジョルジオ・アルマーニに代表されるソフト・スーツであった。そして男性は女性の気を引くべく装身具を贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えれられ、このような一部男性は「キープくん(アッシーくん、メッシーくん、ミツグくん)」などと蔑んで呼ばれ、彼らに対する正式な“氏”は「本命くん」と呼ばれた。このように男性の人権を蔑ろにする流行語が溢れたのもバブル時代だが、アッシーや3高などはメディアや評論家が言っていたに過ぎず、実際にどれだけの男性がアッシーをしていたのか、どれだけの女性がアッシー扱いしていたのかは検証されていない。また一部の羞恥心を欠いた中年女性をオバタリアン、品のない若い女性をおやじギャルと呼んだりもした。港区芝浦のウォーターフロント地区が「トレンディ」とされ、松井雅美や山本コテツなどの「空間プロデューサー」がデザインした飲食店はカフェバーと呼ばれた。

娯楽

格安航空券の流通拡大に合わせて、海外旅行者が増加したのもこの時期からである。1986年には550万人程度だった海外旅行者が、わずか4年後の1990年には1000万人を突破した。

家庭用ゲーム機業界においてもファミコンの次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、中でもNECホームエレクトロニクスが開発したPCエンジンの周辺機器は、当時最新鋭だったCD-ROM2システムをゲーム機に組み込ませた製品が4 - 5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透しつつあった。

また、クリスマス・イヴにカップルで赤坂プリンスホテルシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に予約が一杯になる状況が続いた。

また前述の通りスキー場の開発が相次いでなされた事と、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットした事もあってスキーブームが起こり、中には都心至近距離の船橋市に屋内スキー場「ザウス」ができたりもした。「ザウス」はバブル崩壊後の1993年のオープンであるが、スキー人口のピークの年でもあった。楽器メーカでも、ヤマハがこのスキーブームに呼応して「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」をコンセプトに設計された音源内蔵シーケンサーQY10を開発している。

一方、鉄道に関しても従来では考えられなかった超豪華列車(「北斗星」「トワイライトエクスプレス」等、またオリエント急行の来日もこの時期)やリゾートに特化した車両(「スーパービュー踊り子」等)が登場し、これらの列車はバブル崩壊後も根強い人気を保っている。

マスメディア

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が入るようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入された。この時期は若い女性を中心にトレンディドラマがブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていた。また、コマーシャルも従来の商品宣伝型のCMは下火になり、それに変わってイメージCM(例えばJR東海シンデレラエクスプレス等)が多く製作された。また、この頃は女性が経済力を持ちそれに伴って結婚率の低下やそれに伴う出生率低下が話題になり、結婚難に悩む男性を揶揄する報道や(例:朝日新聞1992年7月19日付朝刊)、また先の「アッシーくん」等の流行語に見られるように男性を貶める論調も目立ち始めた(「現代用語の基礎知識」1991年版)。アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣い・またスタイルを真似た、英語アナウンスを多用する“お洒落な音楽だけを流すFM放送局”が登場したのもこの当時(J-WAVEなどJAPAN FM LEAGUE参加局や、平成新局の各社)。

モータースポーツブーム

複数の日本企業のスポンサーを受けていたベネトン・フォーミュラのF1マシン

こうした熱狂の中、1987年中嶋悟F1への参戦を機にモータースポーツブームが巻き起こり、フットワークアロウズを買収)やレイトンハウスマーチを買収)、エスポラルースを買収)など多くの日本企業がF1チームの買収を行った。また、三洋電機東芝セイコーエプソン三越などの多くの日本企業がチームのスポンサーに名乗りを上げた。

また、当時国内のモータースポーツのトップカテゴリーだった全日本F3000選手権全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (JSPC)・全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 等には、サントリー日本たばこワコールなどの大手企業から、CHERENAや三和都市開発など、不動産取引で大金を手にした不動産業者をはじめとする中小企業、さらに武富士プロミスアコムなどの消費者金融業者まで多くの企業がスポンサーに名乗りを上げ、豊富な資金を得たことを背景に、1990年の全日本F3000選手権には40台近くがエントリーするなど空前の参戦台数を記録した。

さらに不動産投機を目的としたリゾート開発の過熱とあわせて、国内におけるサーキットの建設計画が多数立ち上がり、実際に計画され完成に至っただけでもオートポリスTIサーキット英田十勝インターナショナルスピードウェイなどがあるが、上記の3つともにバブル崩壊後に運営法人が破産した。

高級車ブーム

「シーマ現象」

日産・シーマ
BMW3シリーズ

日産・シーマトヨタ・ソアラトヨタ・クラウンなどの「ハイソカー」と呼ばれた3ナンバーの国産高級車への人気集中(「シーマ現象」と称された)が起きた。とくに1989年に税制改正され、3ナンバー車に以前のような重い課税がされなくなってからは、これらの3ナンバー車の販売台数が飛躍的に増加した。

また、1989年にアメリカで先行販売されたトヨタ・セルシオ日産・インフィニティQ45などを、日本での販売開始前にアメリカから「逆輸入」し、高値で販売する業者や、1990年に発売され納車まで1年以上待つこととなったホンダ・NSXを「即納可能」として高値で転売する業者も現れた。

外国車

また、これまでは一部の富裕層のステータスシンボルとされていた外国車も、その販売台数の急増から、メルセデス・ベンツ 190Eが「コ(子)ベンツ」「赤坂サニー」、BMW3シリーズが「六本木カローラ」などと揶揄されるほどに普及した。

特に高級外車は、東京都心や大阪市内などの大都市の道路でメルセデス・ベンツ560SEL(ケーニッヒやキャラットコンプリートなどのチューン版も多かった)やポルシェ・911ジャガー・XJなどが走っているのが全く日常の光景の一部となり、フェラーリランボルギーニマセラティデイムラーなどの、これまで輸入台数の極端に少なかった高級車が走っていることでさえ、大都市近郊においては特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃以降のことである。

またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパンBMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツアメリカドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納車可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミアム価格で販売しているケースもあった。

フェラーリ

フェラーリF40

この頃フェラーリは、1988年に創設者のエンツォ・フェラーリが死去したこともあり、新車のみならず中古車価格も世界的に高騰していた上に、人気車種の「テスタロッサ」を正規輸入販売代理店のコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドで新車を注文してから納車されるまで2-3年待ちという状況であった。

そのせいもあり、限定で生産された「F40」は、コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドでの新車価格が4,650万円のところを並行輸入された新車(即時納車可能)が輸入車専門店で2億5,000万円で、「テスタロッサ」が新車価格が2,300万円のところを5,000万円近くで、「348」が同じく新車価格が1,650万円のところを4,500万円近くで販売されていたという記録が残っている。[要出典]

ロールス・ロイス

1990年にはロールス・ロイスの全生産台数の約3分の1強が日本で販売された。その後バブル景気が崩壊し、これらのロールス・ロイスが持ち主の手から離れたために、日本におけるロールス・ロイスやベントレーの中古車市場が大暴落し、その結果、これらの多くが1990年代中盤に海外に買い取られていった。

バブル景気時代の風俗

消費の過熱は当然六本木銀座渋谷などの盛り場にも影響し、これらの盛り場では大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から学生までが大金をつぎ込んだ。

この様な動きを受け、大手企業から中小の不動産会社までがディスコなどのナイトレジャー開発にも投資したこともあり、1980年代後半から1990年代初期にかけて、NOVA21グループが「マハラジャ」や「キング&クイーン」を全国展開。六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他「エリア」や「シパンゴ」、「Jトリップバー」などのディスコが乱立しその多くが盛況になるなど、一大ディスコ・ブームが起こった。

また、裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルがこれらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、数千人を動員するパーティーを行うということも数多く行われた。

なお、バブル景気の象徴として取り上げられる事の多い「ジュリアナ東京」であるが、実際はバブル崩壊間際の1991年5月に開店している。

就職売り手市場

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり経営多角化を行うために募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなった。多く企業が学生の目をひきつけることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行った。

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにする為、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡が出来ないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った[4]他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになった。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため夜中2時過ぎまでの残業などがざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保する事が急務だった。体育会系の学生は我慢強く体力があり、先輩後輩関係で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気があった。特に証券等は、現場が人手不足だったので、OBを通じて学生に食事を振舞うなどしてまで入社させた。

ただし注意を要するのは、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要がある。すなわち主に恩恵を得たのは東京圏の国立・上位私立大学、及び京阪神圏の国立大学である。したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向である。その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在のほうが、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえる。 もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2-4番手の大企業に就職できたことから、当時のほうが総じて就職活動は容易であった。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、最高値の1991年卒の大卒求人倍率が2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減った。また、以後の採用が細った事から「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かった。

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほどには受けなかった。このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「(キャリア組以外の)公務員はバカがなるもの」と見下されがちだった。とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行った。

文系就職

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動いた。また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通サントリーカネボウフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミなどの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到した。

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになった。理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職する事を指して文系就職とも言われた。これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出たが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示される事もあり、不公平であるとの批判も起こった。

当時の世界情勢

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。

一方でアメリカ合衆国は、このころ1980年代半ばのユーフォリアを経て迷走気味になりつつあった。住宅金融に破綻の兆しが出て、信用問題に発展しつつあった。経常収支が均衡に向かう中で国内経済は低迷し、失業増大や記録的財政赤字につながりつつあった。

こうした世界情勢の中で、政治的に安定している上に空前の好景気で、投資先として非常に大きな魅力を持つことになった日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル著の同タイトルの書籍より「世界の頂点にいるも同然の日本」の意)の呼び声とともに、アメリカにおいても「日本社会に学べ」「日本に負けるな」という声が出るほど好景気を謳歌していた。三菱地所がニューヨークの象徴的な建物であるロックフェラーセンターを買収して日本脅威論が噴出したのもこの頃である。また東南アジア諸国からも「日本の成功を見習うべし」との声があがった[5]

バブル景気の時期は、ソビエト連邦の「ペレストロイカ」とほぼ同じ時期である。バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終結した。

問題

資産を用いた経済活動によって生み出される収益ではなく、資産そのものの値上がりにより利益を得ようとする手法は、資産価格が高騰するほど困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、その時点で資産を保有していた者はもはや値上がり益を得られない。

そして、高値均衡を維持出来ず、価格が下落に転じると、それまでの歴代の所有者がそれぞれ利益を得たのに対して、最終的な資産保有者はその分の損をまとめて被ることになる。このように、資産価格の上昇を維持することが困難になるにつれ、資産取引は次第に「ババ抜き」の様相を見せ、ますます資産価格の維持が困難となる。

景気後退

絶頂期の1989年ごろには投資が活発となり、「平成景気」「ヒミコ景気」「高原景気」と呼ばれるこれまで類を見ない空前の超好景気となったが、実体経済の成長では到底説明できないほどの資産価格上昇を伴うバブル経済であったため、やがて縮小することとなる。

株や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタル・ゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。当時の日本は資産価格上昇により、土地や株式などの収益率(値上がり益を除く)が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続可能性を喪失した。

なお1973年12月より17年3ヶ月間続いてきた安定成長期はこのバブル崩壊で終焉を迎えた。

バブル崩壊

バブル崩壊という現象は単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして、政策の錯誤が絡んでいる。

1990年3月大蔵省銀行局長土田正顕から通達された「土地関連融資の抑制について」(総量規制)に加えて、日銀による金融引き締めは完全に後手に回ったため急激なものとなり、信用収縮が一気に進んだ。信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、経済状況を極度に悪化させた。前年に導入された消費税も経済実態に鑑みると導入が遅すぎたと言え、結果的に景気に悪影響を及ぼした遠因と考えられている。

日経平均株価については、1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸戦争と原油高や公定歩合の急激な引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。

景気については、景気動向指数 (CI) をみると、1990年10月をピークに低下傾向となり、1993年12月まで低下した。地価は、1991年秋頃(東京、大阪の大都市圏では1990年秋頃から)に、路線価も1992年初頭をピークに下落していった。また、1998年以降は社会全体の雇用者賃金の減少や、それ以前よりもさらに非正規雇用社員が増加していった。それまでの好景気は株や土地への異常な投機熱によるもので、実体を伴わないもの、すなわちバブルであったことが明らかになり、ふり返って「バブル景気」と呼ばれるようになった。

「バブルの崩壊」は、あるとき一瞬にして起きた現象ではない。各種指標ではある瞬間に最大値を取り、理論上、そこでバブル崩壊が始まったわけだが、それは単なる序章に過ぎなかった。バブル崩壊は、開始から数年間をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差がある。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまだバブルが続いていた、とも言える。また北海道、東北、四国、九州など1992年頃まで地価が高騰していた地方都市もあり、俗に「バブルが弾けた」というが、あたかも風船やシャボン玉がある瞬間に破裂したかのような瞬間的な現象ではない。

数値的に確認できる「バブルの崩壊」と、体感的な「バブルの崩壊」にも最大で数年程度のずれがある。データ上、バブルの崩壊は1990年11月頃始まったが、必ずしも誰もが直ちにそれを体感したわけではない。バブルの崩壊を経済学的現象ではなく深刻な社会問題ととらえるとき目安となる時期は、全国的に地価の下落が明確となり、有効求人倍率や新卒の求人倍率が大きく低下し、企業の業績悪化により学生の内定取り消しも相次いだ(就職氷河期も参照)1993年頃から、不良債権問題や株価低迷によって大手金融機関が次々と破綻に追い込まれた1997年頃にかけての間であり、それまでは(事実としてバブル崩壊が始まっていたにもかかわらず)それを認識できずに楽観的でいたり、そうでなくても、まだ持ち直すかもしれないと期待していた人々がほとんどだったと見られる(後述のように、バブル崩壊後に金融機関が抱えた不良債権を、株価・地価の再上昇を当てこんで処理を後回しにした結果、雪だるま式に額が膨れ上がって破綻に追い込まれた企業も少なくなかった)。また、経済政策の失敗によって1997年以降の景気が急速に悪化し、企業の倒産や人員削減による失業、新規採用の抑制による苛酷な就職難が発生し、本格的に実害をこうむった1990年代後半から2000年代前半を特にバブル崩壊による景気悪化と振り返って捉えている人も多い。

以上のことを踏まえると、一般的にバブル絶頂期とは、景気が良いと一般大衆に認識され始めた1988年頃から、景気が悪くなってきたと認識され始める前の1992年頃までを指すこともできる。[要出典]

バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落によって担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また、各事業会社の収益は未曾有の不景気で大きく低下した。こうして銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行の経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。

さらに、バブル崩壊後の政治状況は、1992年の東京佐川急便事件に端を発した金丸信の議員辞職、経世会分裂、小沢一郎新生党旗揚げなどの政界再編細川政権誕生による55年体制の崩壊、政治改革、細川首相の電撃辞任、羽田孜の短期政権、さらに、自社さによる村山富市への政権交代など、大混乱の状態であり、政治はバブル崩壊後の経済状況に十分な対応ができなかった。

地価下落・住宅価格下落

それまで土地神話のもと、決して下落する事が無い、と言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで、公示価格は下がり続けた。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。

また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっている。

ベンジャミン・フルフォードは、和佐隆弘(元日経新聞論説委員)の言葉を借りて、1963年当時の自治省が地価の大幅な値上がりに対して、固定資産税の課税上昇率を抑えた為に、土地が「もっとも有利な投資対象」となってしまったことを日本の土地神話ないしバブルの遠因として挙げている[6]

不良債権拡大

景気が後退し、地価・株価が下落すると共に、従前金融機関が多額の融資をしていた企業の業績も悪化し、返済が順調に行えない企業も出てきた。返済に支障が予想される場合にはリスケジューリングを行ったり、実際に返済が滞った場合には不良債権に区分しなおし、引当金を積み増す必要があるが、これは金融機関の会計を圧迫して経営上の自由を奪うと同時に対外的にも信用を損ねるものとして嫌われ、査定に手心を加えて正常債権とみなしたり、追い貸しをして形の上だけでも本来の債務の返済を正常に行わせるなどして、引当金の積み増しを免れると共に自身の経営を健全に見せる弥縫策がしばしばとられた。すぐに景気は回復して損失も回復できると期待し、直ちに債権を処分して損失を処理・確定することを躊躇わせたが、この間も混迷の度合いは深まり、不良債権はその数と額を増して重篤化した。

一方で、外部、殊に海外からは金融機関が不良債権を隠していると映り、日本の金融システムに対する不信感が抱かれた。殊に、日本の会計基準が簿価会計であることが、高値掴みした資産の劣化を隠す手段となり、不良債権隠蔽の温床になっていると指摘し、直ちに時価会計に移行して不良債権を詳らかにし、金融機関の経営状況を公開する様に迫った。

大手金融機関の破綻

政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていたが、1995年頃より「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかった。この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。

とりわけ、1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)日本長期信用銀行(長銀)日本債券信用銀行山一證券三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。

拓銀は地価上昇を見越して土地評価額に対して過大な融資を行い、また、バブル期の融資に出遅れて、劣後順位での担保設定を行わざるをえなかったことから回収が思うに任せず、不良債権が膨らみ、1997年11月、営業継続を断念した。

長銀はバブル期に不動産・リース等、新興企業に積極的な融資を行ったが、バブル崩壊後はイ・アイ・イ・インターナショナルへの多額の融資の焦げ付きを中心とする不良債権をかかえ経営不振に陥り、1998年10月に制定された金融再生法の下で破綻認定され、国有化された。

日債銀はバブル崩壊で膨らんだ不良債権を飛ばしで処理していたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化された。

山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのに伴い一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択した(実際には破産宣告をうけて解散)。証券会社にバブル採用された社員たちは、入社数年で会社が倒産し再就職もままならない状態に陥ったものが多かった。

メインバンク喪失

上記のように銀行が破綻した場合、当該銀行をメインバンクとしていた企業も倒産の危機に瀕する。貸出枠が縮小して行く中で、他の銀行から改めて融資を受けるのは困難であり、景気全般も悪く好業績も望めない中ではなおさら新たな融資を引き出すことは難しい。結局融資を得られず倒産に至る企業も多かった。

日本長期信用銀行を再生する過程で、同銀行を買収した投資組合は、取引のあった企業を破綻に追い込んで積極的に瑕疵担保条項を活用して利益を確保する行為に出た。その結果、ライフそごう第一ホテル等が破綻し、暴挙との批判を浴びた。

住専破綻

個人向け融資機能の弱かった金融機関が住宅資金需要に応えて設立した住宅金融専門会社(住専)であるが、バブル期前後には、金融機関自身が住宅ローン市場に参入し、住専は本来のターゲットである住宅ローン以外の不動産事業に傾斜した。優良な債権を銀行等が占有したため、住専はリスクの大きい物件に傾斜せざるを得なかったとの指摘もある。

バブル崩壊後は融資先が破綻するケースに加え、担保としていた土地も値下がりして融資の回収が見込めない不良債権が増加し、住専7社のうち6社は破綻した。破綻に際しては、住専に多額の資金を融資していた農林系金融機関や銀行を保護するために公的資金が注入された(詳細は住宅金融専門会社を参照)。

一方、案件として小粒であり従来は銀行から重視されていなかった個人相手の住宅ローンが、バブル崩壊後の不況期の中ではリスクが低いことから注目を浴び、それに注力する銀行も出てきた。

ゼネコン問題

バブル崩壊に伴う事業の縮小、経営不振に加えて、プロジェクトにかかる代金支払いの保証をしていたことから、一気に負債額が増加し、経営悪化が表面化したゼネコンが多数あった。ゼネコンの破綻は雇用不安につながり社会の不利益となるので公的資金を投入して救済すべきとする意見が出る一方で、従前の経営の難点を指摘して市場から退場すべき企業は退場させるべしとする論調も声高になされた。また、下請けの会社が大手ゼネコンから仕事を受注するに際して、従前は手形払い等、信用を前提にした決済を行っていたものを、現金払いで決済するよう要求することもあった。

BIS規制

1988年に公表されたBIS規制は日本では移行措置のあと、1992年度末から本格適用されることになっていた。この規制の適用に際して、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られた。

さらに、株価の低迷が追い打ちをかけた。安定株主の形成にも役だつことから、日本の銀行が取引のある会社の株を持つ事が普通に行われていた。ところがBIS規制では、所有する株も自己資本として算入されることから、バブル崩壊後の株価低迷で所有する資産が目減りし、それだけ貸出枠も縮小した。

なお、国際業務を行う金融機関の自己資本比率の基準として8%が示されたが、BISそのものでは、国内業務に限った場合などの個別の規定を設けておらず、日本では国内の業務に限る金融機関は4%で良いとした。経営状況を勘案して、海外から撤退して業務を国内に限る邦銀もあった。

貸し剥がし・貸し渋り

金融機関が、経営に問題がない企業に対しても貸し出しに慎重になり、新たな融資を断ることを「貸し渋り」。既存の融資を引きあげたりすることを「貸し剥がし」という。

総量規制に加えて、BIS規制、株価の下落が、金融機関の貸出枠に枷をはめて、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られた。これに応じて、過剰に貸し付けていた融資を、半ば強引とも見える手法で引き上げる貸し剥がしも頻発し、景気の悪化に輪をかけた。

突然に全額一括返済を求めるほかに、それまで定常的に融資を繰り返してきたものを一方的に停止するのをはじめとして、「今後も融資を継続するために」「内部処理の都合で」「新規・追加融資を纏めて一つの枠にするために」などの説明をもって融資を一旦引き上げたところで前言を翻して融資に応じない、などである。貸し剥がしにより運転資金を絶たれて倒産に追い込まれる企業も続出した。

融資の約束を反故にされたとして訴訟に持ち込んでも、多くの場合は次の融資は口約束でなされるため、決定的証拠に欠け、また、銀行の融資の判断が優先される事が大半で、結局泣き寝入りするケースが多い。その他に、故なく、あるいは些細な理由をもって預金と融資を相殺して引き揚げる、など借り手側から見て強引な手法がとられることもあった。また、新規の融資にも消極的な姿勢を示し、貸し渋りとの批判もあった。

ただし、銀行に融資を申し込んで断られるとすぐに貸し渋りだという企業経営者が多いが、財務内容が悪かったり、過去に会社が倒産し保証協会が求償権をもっていたりするような場合に融資ができないことをもって貸し渋りだというのは早計である。

貸し渋りというのはあくまで、健全で財務内容に問題のない企業が、一方的な金融機関の都合で融資を受けられない状態のことをいう。

引当金

金融機関では融資先の中に不良債権と区分されるものが増えるに従い、引当金(貸倒引当金)を積み増す必要に迫られた。収益の中から、引当金として確保するべき部分が増えるに伴い、金融機関の経営を圧迫した。

金融庁の発足と、金融検査マニュアルによる金融機関検査の厳格化により、いっそう貸倒引当金を積みます必要性が増大した。

尚、景気の回復に伴い不良債権であったものが正常債権に区分される様になると、これらの引当金は利益に組み入れられ、2005年以降の銀行の利益拡大の一因となっている。

格付け引き下げ

バブル崩壊後、金融不安が拡大すると同時に、邦銀、日本の企業、そして、日本国債に対する、いわゆる格付けも順次引き下げられた。その都度、国内からこれらの評価が不適切であるとの抗議の声が出された。

ジャパン・プレミアム

上記の格付け引き下げも相俟って、日本の金融システムに対する信用が落ち、邦銀が海外で資金を調達する際に、通常に較べて高い利率を要求された。相手が邦銀であることを理由に積み増す利率は、ジャパン・プレミアムと呼ばれ、1997年秋や1998年秋に上昇し最大で約1%に達したが、1999年には低下していき、2000年になると、この積み増しはほぼゼロとなった。

海外からの撤退

かつて海外の不動産や資産、企業を購入して進出していた企業が、本業の業績悪化に伴い、撤退を余儀なくされた。前述の三菱地所は、ロックフェラー・センターの主要部分を、買収時価額を大幅に下回る価額で手放さざるを得ず、大きな損失を出して撤退した。

雇用の抑制

リクルートワークス調査によれば、企業の新規採用はバブル景気崩壊の1991年(約84万人)をピークに1997年(約39万人)まで減少した。その後は増加し1999年(約68万人)にピークとなった後再び低下し、2001年(約41万人)を底にその後は増加している。

終身雇用が重視されていた当時の風潮の下では在籍している社員を解雇するのが困難だったために、過剰人員を削減する手段を新規採用の抑制に求めたことがその大きな理由である。この時期は人口が多い第二次ベビーブーム世代が就職する時期に重なったために、競争が激化して就職が極めて困難になった。俗に言う就職氷河期の到来である。就職できなかった多くの若者はフリーターニートとなり、就職氷河期世代と呼ばれ、彼らの生活・雇用の不安定さ、社会保障の負担が充分できずにセーフティーネットから外れ困窮する状態に陥るなど、大きな社会問題となっている。

このため、2000年代の初頭には記録的な就職氷河期となり、大手企業の「若干名採用」「採用ゼロ」も珍しくなかった。失業率は、1998年頃からは経営の悪化からリストラを名目とした大規模な解雇も頻発するようになり、戦後最悪を記録し全国平均で5パーセントを超えるに至った。中途採用については、抑制がピークに達した1999年には有効求人倍率が0.5倍を割り込んだ。

特に、バブル直前期に民営化された電電公社(現NTT)や日本国有鉄道(現JR)などは、法律によって新規採用ができず、再開された後も余剰人員の削減のためにまとまった退職者が出るまで採用の抑制が行われた。その結果、採用を抑えられた時期に入社した世代とその上の世代では社員の数に極端な差が生じることになり、各社の社員の年齢構成はいびつな状況となった[7]

また学歴神話の崩壊により、バブル崩壊以前は、一定の水準の評価を受けている大学を卒業していれば、その大学に見合った就職先が事実上保障されていたといっても過言ではなかったが、極端な採用抑制のために難関大学の卒業生でさえ非常に困難な就職活動を強いられた(学歴難民)。また、本来であれば採用した新卒に対し、企業内で一定の期間教育を施して戦力として育て上げ、それから現場で業務に就かせることが普通であるが、業績の悪化を受けて教育の余裕もなくなり、新卒に対して「即戦力」たる能力を求める風潮が2011年現在でも大半の企業で続いている。1990年代から2000年代に段階的に進んだグローバル化と、それに伴う国際競争の激化も、こうした風潮に拍車をかけている。

公務員人気

この時期は一転して公務員の人気が非常に高くなった。民間企業の倒産やリストラが相次ぎ新規採用が絞られるなか、「景気の動向に左右されにくい」という公務員の特徴がバブル期とは全く逆の捉えられ方をされ、その堅実性から公務員を希望する学生が増加した。他方で長引く不況下でも失業の心配がほとんど無く、収入減少の憂き目にも遭わず、年金社会保険など福利厚生も充実した公務員が民間と比べて優遇されていると批判する世論も高まっていった。

堅実な公務員職を希望する学生が増加する一方で、不況に伴う税収減少をうけた財政難や、公務員改革に伴う人員削減の影響で地方公共団体は新規採用を縮小したため、公務員は非常に狭き門と化した。あまりの就職難のために、大卒者(特に中堅校以下の大卒者)がその学歴を隠し、高卒の採用枠で公務員に採用された例もあり、2000年代半ば以降神戸市大阪市、さらには横浜市などで次々と同様の行為が発覚して問題となっている。

一時的な雇用情勢回復

2003年頃からようやく景気が回復基調に転じた頃、企業を長らく支えてきた団塊の世代一斉退職が目前に迫っていた。本来であれば中堅社員や若手社員が団塊の世代の持つ経験や技術を受け継ぐ立場にあったが、長期に渡る採用抑制のために多くの企業で20~30代半ばの社員が極端に少なく、人員の年代構成が歪んでいるため継承が円滑に行われていない。このため企業は急いで人員の確保に走り、2005年度(2006年春入社予定者)には新卒の求人総数はバブル景気期と同程度にまで回復し、2006年度~2008年度(2007年春~2009年春入社予定者)の新卒大学生の求人状況は、「バブル景気時以上」といわれるほどの水準に達した。企業全般では深刻な人手不足になっているが、中核となる人材を育てる投資の視点から新卒・第二新卒の獲得に走る一方で、上記の「就職氷河期世代」のフリーターを改めて正社員として雇い入れるには投資の面から非効率的であるとして消極的である。2006年に発足した安倍晋三政権は世代間の格差拡大の是正の一環として、再チャレンジ制度を打ち出した。しかし制度が定着する前に安倍内閣は退陣し、再チャレンジ制度は立ち消えになってしまった。

新卒採用の求人が増えた一方で、新卒の大半はその殆どが不景気の日本しか知らずに育っており、それがゆえに大企業志望で、終身雇用を求める保守的かつ安定志向の傾向にあった。そのため、就職ランキングの上位に位置するような大企業の競争率は非常に高い反面、中小企業はいくら求人を出そうとも新卒がなかなか応募してこないという二極化した現象が発生した。また求人数や就職率が改善したのも事実だが、企業は公表した求人数そのままの人数は採用しない(採用人数より質を重視する厳選採用)傾向にあったため、優秀な学生は内定を次々にもらうが、そうでない学生は内定を一つもらうのに苦労する「内定格差」が生じることになった。

こうした「売り手市場」は数年続いたが、世界金融危機が顕在化した2008年秋以降は、バブル崩壊時よりも急激な勢いで求人数が落ち込み、就職氷河期へと逆戻りすることとなった。

労働者派遣・アウトソーシング

規制緩和の一環として不況下の経費削減、殊に固定費削減のため企業の業務を担う人員や、業務そのものを企業本体から切り離し外部から調達する方法も取られる様になった。

人員
人材派遣業会社から人員を調達して企業の業務に当たらせることで雇用を流動化させた。企業にとって派遣は保険や年金等の社会保障を省略できる事、また、定年までの雇用の義務が無い事から、年金に対する負担が無い事、景気に応じて雇用の調整弁として有用なこと、そして、能力に応じた賃金を支払えば良く、年功序列に応じた高賃金の支払いを免れる利点がある。
業務
材料・部材、あるいは製品そのものの製造を外部に委託し、設備投資や固定費用の削減を図る。更に、サーバー管理業務、DM発送業務を委託する事例も増えた。

一方で、これらの供給を行う人材派遣会社、業務請負会社等も成立し、業績を伸ばしてきた。

失われた20年就職氷河期に曲がりなりにも雇用が確保されたのは、これら非正規雇用による賃金切り下げの効果なのは疑いがない。しかし、2007年現在、その総数は全就業者の1/3を占めるまで増加し、バブル期以上といわれるまでに企業が利益を出しても彼等の待遇は変わらない[8]

何歳になっても、また何年勤めてもいつ解雇されるか判らないため、子供を作るどころか結婚さえするわけにいかない非正規雇用の若者(特に男性)が増加したと言われている。

株持ち合いの解消

日本では企業間で株を持ち合ったり、銀行が取引のある会社の株を持って安定株主を確保する傾向が強かった。株価上昇時には、この株も含み益をもたらしたが、株価下落に伴い、逆に含み損となって企業の会計を圧迫する負担要因となった。とりわけ銀行が株を所有していたことについては、安全と堅実を旨とすべき金融機関が不安定な資産、いわば博打に資金を投じた、といった批判が寄せられた。

また、各々の銀行について、どこまで日経平均が下がれば所有する株が含み益から含み損に転じるかを調査し、それによって銀行の経営の優劣や健全性を論じることも行われた。また銀行の大半が含み損に転じる日経平均指数を算出し、「そこまで下がることはない」「そこまで下がらなければアク抜けせず株価は反転しない」「そこまで下がったら日本経済は崩壊する」など、各種の意見が出された。

同時に、株を売却し、相互に持ち合う関係を解消する動きも出てきた。これは安定株主の喪失を招き、後に株の買い占めによる乗っ取りなどの事例が増えることにつながった。株主が次第に存在感を増すようになり、利害関係者の対立を背景に「会社は誰のものか」という議論がなされるようになった。

会社資産売却

会社の所有する不動産等が、本当に経営に見合うものかを精査する傾向が出てきた。保養地等を売却する動きが出たほか、オフィスをより賃料の安い場所に移して固定費を削減したり、本社ビルを売却して獲得した資金で経営の立て直しを図る会社も現れた。ビルの売却に際して、オフィスは入居したままで、新たな所有者に賃料を支払う形式にする例もある。

土地の評価方法の変化

それまでは土地神話もあり、土地は単に所有するだけでも資産価値があり、その価値は毀損しないものと思われた。土地の価格の算定にあたっては、取引事例比較法により、今までの取引実績や周辺での土地取引の事例に基づいて値段を決める方法が主だった。バブル崩壊後は、その土地が賃料等で上げる収益を勘案する収益還元法による評価方法も考慮される様になった。

変額保険

バブル景気のもとで地価が高騰するに伴い相続税額も膨らみ、いざ不動産を含む相続が発生すると手持ち資金が無く、相続税を払うことが出来ずに困窮する事態もあった。これに備える策の一つとして、借金をして変額保険に加入する手法が、盛んに喧伝された。

保険を投資信託に似た投資勘定で運用することから、株価が上がる状況下では運用益を借入金返済の一助とできるし、保険金額(即ち資産)が増やせ、また、借金と相続資産を相殺して相続税額が抑えられ、さらに払い渡される保険金には別個の控除枠があり相続税の節税にもなるなど、良いことだらけの方法として、銀行から多額の借金をしてでも加入することが勧められた。最盛期には、払い込む保険掛け金を融資する銀行の担当者と、保険契約を結ぶ保険会社の担当者が、連れだって販売にまわることさえあった[9]

バブル崩壊後は不動産の価格が大きく下落すると同時に投資信託が大きな損失を出して受け取れる保険金額が目減りし続ける一方、借金はそっくり残り、場合によっては保険金を含めた全資産がマイナスに転じるなど、契約者を苦況に陥れた。満期時の返戻金額が元本を大きく下回り、手数料もかかることから解約にも踏み切れず、株価が下がるにつれて見る見る保険金額が減っていくのを目の当たりにして「私が早く死んだ方が良いということか」と問う被保険者に、担当者が「その通りです」と答えた事例も伝えられる。満期時の保険返戻金が、最低額が保証されている死亡保険金を大きく下回った場合には、死亡保険金を獲得する為に被保険者が自殺を選択した例もあった。

後に、顧客側からリスクの説明を怠ったとして多くの訴訟が起され、だいたいのケースでは顧客と販売者双方の過失を認めるとともに、販売者側に損害賠償を命じている。

保険会社破綻

バブル崩壊後の不況を受けて契約の解約が相次いで保険掛け金収入が減少し、また株価低迷を受けて保険金運用実績も思わしくなく、保険会社の経営を圧迫した。バブル期には貯蓄性の高い年金商品を中心に高い予定利率を約束した商品が販売されていたが、資金運用の実績が予定利率を下回る逆ざや状態に陥った。一部の保険会社は最終的に破綻に至り、その顧客の契約が他会社に引き継がれる際には保険金額の削減や予定利率の低減が行われた。また、逆ざや状態をアピールして、保険会社の都合で一方的に予定利率を削減できるスキームを設けることも検討された。

2005年頃からは保険会社による保険金不払い事件保険料過徴収問題なども表面化することになった。

バブルと経済政策

バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府日銀経済政策の失敗が指摘されている。

まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年プラザ合意による急速な円高で景気が悪化することを恐れて、財政・金融政策による景気刺激が行われたことが原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある[10]

第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。実は1987年9月には日銀の理事たちは利上げに踏み切る方針を確認していたが、10月19日のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、利上げが見送られた[10]。金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。

しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。財政面でも、国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった。地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある。 また、地価の上昇局面でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招いたという側面がある。そして、地価の上昇によって住宅取得が困難となり国民からは政府に対する非難が高まったことが、不動産融資の総量規制に繋がり急速な地価の下落を招いたという批判がある。こうした地価に関する政策的な失敗は、マスコミや国民の感情的な批判に政府が冷静に対応できなかったという問題とみることができるだろう。

バブル崩壊後の対応では、初期の金融政策や財政政策による景気刺激が小規模であったことが指摘できよう。公共事業による景気刺激がその後の財政赤字の拡大を招いたという批判は多いが、当初の経済対策は財政資金の投入は少なく、対策を小出しにしたことが次第に大規模な財政刺激が必要となった一因と考えられる。また日銀は1991年7月に公定歩合を0.5%引き下げたが、その後の金融緩和の速度が遅かったと考えられている。これらの政策は外国から "Too little, too late"(政策規模が小さすぎ、実行が遅すぎ、そのため効果的な政策ではない)と批判された。

銀行など金融機関の不良債権問題が深刻となって以降は、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関の救済を行うべきであったと考えられている。しかしこの問題でも、住専処理に6850億円の資金を投入するという政府の1996年度予算案に対して、マスコミなどは金融機関に失敗の責任を取らせずに救済のために税金を投入すべきではないなど強く反発することとなり、国会も混乱した。後から数十兆円の資金が投入されることになったことを考えれば、早期に公的資金の注入ができれば問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかという見方も多い。

バブル崩壊後の低迷からの脱却局面では、景気の回復傾向が見られた際に、財政、金融による景気刺激的政策から景気抑制的政策への転換を早く行いすぎるという失敗を繰り返した。最初の失敗は財政政策の失敗である。1993年10月を底に景気は回復するが、政府は財政赤字の縮小を急ぎ、1997年4月から消費税率を2%引上げ、2兆円の特別減税を廃止するなど、約9兆円の負担増を実施した。ところが、同年にはアジア通貨危機が発生したことや、年末には金融機関の経営破綻が続いたことなどから、景気は極端に悪化することになった。二度目は金融政策の失敗である。アジア通貨危機の混乱が収まると、1999年1月を底に景気は回復しはじめ、日銀は政府の反対を押し切って2000年8月にゼロ金利政策を解除した。しかし、米国でITバブルが崩壊すると輸出の鈍化から2000年11月をピークに景気は急速に悪化し、2001年3月には再び実質的にゼロ金利政策に戻らざるを得なくなった。同時により金融緩和的な量的金融緩和政策の導入を余儀なくされた。

バブルを象徴する企業、事件など

企業・組織

  • フジテレビジョン - 当時テレビ年間視聴率において三冠王を誇っており、就職活動の場においてもトップクラスの人気を誇っていた。

事件

人物

その他

バブルを描いた作品など

当時制作され、時代の空気を反映しているもの

後の時代に製作されたもの

バブルを描いた書籍

関連項目

注釈

  1. ^ 野口悠紀雄『戦後日本経済史』新潮社
  2. ^ 香西秦ほか「バブルと金融政策」
  3. ^ サラリーマンが購入できる住宅の価格は年収の5倍と言われ、首都圏では、その様な地域は山梨にまで遠ざかった
  4. ^ 携帯電話は当時殆ど普及しておらず、まともな収入がない学生が手にすることは不可能であった。
  5. ^ 勘違いされる事が多いが、マハティールマレーシア首相の唱えた「ルックイースト政策」は、バブル景気の10年前である。
  6. ^ 『まんが 八百長経済大国の最期』 (ベンジャミン・フルフォード, 光文社ペーパーバックス, 2004年)
  7. ^ JR福知山線脱線事故で事故を起こした運転手は採用再開後の大量採用期に入社した若手社員であり、事故原因として人員構成の歪みによって十分な教育や適材適所の人員配置ができなくなっていたことが指摘されている。
  8. ^ 利益を上げても「(国際)競争力の確保」を名目・大義名分として、人材・設備への投資を極力行わず、株主への配当もせず、結果として内部留保がひたすらに積み上げられていく企業さえ見られる
  9. ^ 当時の法律では銀行・保険・証券の間で業務の範囲が厳密に峻別され、銀行が顧客の保険契約にかかわることは戒められた。
  10. ^ a b 朝日新聞、2010年3月23日、東京版夕刊、9面。
  11. ^ BS-TBS スポーツ偉人列伝~今語られる伝説の瞬間~ 第四伝 仰木彬~命を懸けてパリーグを救った男



円高不況
日本の景気の俗称
バブル景気

失われた20年