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榎本喜八

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榎本 喜八
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都中野区
生年月日 1936年12月5日
没年月日 (2012-03-14) 2012年3月14日(75歳没)
身長
体重
172 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1955年
初出場 1955年3月26日
最終出場 1972年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 2012年3月14日)は、東京都中野区上鷺宮出身の元プロ野球選手一塁手)。現役時代はオリオンズの中心選手として長きに渡って活躍し、「ミスターオリオンズ」と呼ばれた。

経歴

プロ入り前

1936年、百姓の家庭に生まれる。祖父は新八、父は八雄、弟は省八、先祖は八十八、八佐衛門など、榎本家には男の子には全て「八」の字を付ける習慣があり、喜八という名前が付けられた[1]

1941年、5歳の時に太平洋戦争が勃発。集団疎開に出発する日、33歳の母親が病死する。戦争に出征した父親は、終戦後もシベリアに抑留されたまま、しばらく帰ってこなかった。そのため、祖母と幼い弟と3人暮らしをしていた幼少時代の榎本は、極貧に苦しむこととなった。雨漏りを放っておくと屋根に穴が開き、寝室には雨が降ってきたという。畳には茸が生え、家の中で傘を差して立ったまま朝を迎えた日もあった。電車に乗ることもできず、当時は近所を走る西武電車に乗ることに憧れていたという。

戦時下の1943年3月、近所の友人の姉に連れられて職業野球を後楽園球場へ観戦に行った事が、野球を始めたきっかけであった。球場の美しさと、巨人呉昌征青田昇大和軍苅田久徳に強い印象を受けたという。空腹と極寒の日々の中で、職業野球は榎本の唯一の希望となった。その後、「ばあちゃんを楽にしてやりたい。絶対に野球選手になる」という強い意志から、プロ野球選手を目指すようになる。

1952年早稲田実業高等学校に入学。強打者として頭角を現し、2年生の春には4番打者を務める。榎本の打撃スタイルはバットを長く握ってのフルスイングで、流し打ちすることを好まなかった。早実高校のスタイルはバットを短く握ってコツコツ当てるというものであったため、OBのひとりが榎本の打撃を矯正しようとしたが、榎本は従わなかった。そのため、同OBが監督に進言し、補欠に回されることもあったという。

3年生時の1954年春の全国大会準々決勝では3番打者を務めるが、主軸打者の責任によるプレッシャーやチャンスに弱い面が目立ち、4打数ノーヒットに終わった。2年生時に4番を打った土佐戦でも4打数ノーヒットに終わっている。3番や4番を打つと敬遠されることも多かった。そのため、当時の榎本はスラッガータイプであったにも関わらず、以降は1番打者が定位置となった。早実高校は、強打の榎本が出塁して後続が返すという得点スタイルを確立。同年夏の大会では、自身3度目の甲子園出場を果たした。準々決勝で敗れたが、早実高校は戦後初の夏ベスト8に入った。最後の甲子園出場になった8月21日の試合後のインタビューでは、他の選手たちが「固くなった」というコメントを残している中、榎本は「決してあがってはいなかった。安打も1本打っている」と語っている。

地方大会では強打者として鳴らし、1954年夏の全国大会前の朝日新聞記者による座談会(8月12日付)では、出場選手の中で榎本は「十指に入る打者」という評価を得ていた。しかし、全国大会になると途端に打てなくなり、2年生時からの全国大会通算成績は打率.143(21打数3安打4四球)に終わっている。また、同年の全国大会敗退後の北海道国体では打棒が復活し、準々決勝の北海戦では本塁打と三塁打を放ってチームの4強入りに貢献している。

後年、榎本は高校時代の自身を「390フィート(約119メートル)と書かれた外野の塀にゴツンとぶつかるライナーの3塁打を1本打っただけの、単純な大振りバッターでした」と振り返っており、当時後輩だった王貞治は高校時代の榎本について、「打球が良く飛ぶすごいスラッガーだった」と語っている。高校1年生の時にはライト場外の畑までボールを飛ばし、打球の最長不倒を示す印として、そこに1本の木ぐいが打ち込まれたという(後に王が更新)。また、合宿中の夜に他の部員が教科書を開く振りをしている中、榎本は牛骨でバットを磨き続けていた。当時チームメイトであった同級生は、榎本について「野球のことしか頭にない男」と評している[2]

当時はドラフト施行前であり、選手獲得は各チーム次第であった。榎本は「荒い打者」という評価から、どこからも声をかけられることがなかった。プロ入りを熱望していた榎本は、高校1年生時、早実高校の先輩で毎日オリオンズでもプレーすることが決まっていた荒川博に、オリオンズへの入団を頼んだ。荒川は「毎日500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、数年間素振りを敢行。卒業の直前に改めて「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず[3]、入団テストの運びとなった。

1955年、荒川の積極的な売り込みにより、毎日オリオンズの入団テストが無理矢理組み込まれる。入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が仰天したという。完成されたバッティングフォームと優れた選球眼が認められ、テストに合格する。特にフォームに関しては、別当に「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」と言わしめた程だった[4][5]

テストに合格したことにより、毎日オリオンズに入団を果たす。契約金は25万円で、時代を考慮しても非常に低い金額であった。

プロ入り後

オリオンズ時代

オープン戦で大活躍し、開幕戦から5番打者を打つ[6]など、高卒1年目からレギュラーとして活躍。6月7日以降には3番打者に定着した。オールスターゲームにも選出され、スタメン出場を果たす[7]。シーズンを通して打率・本塁打・打点部門のすべてでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率山内一弘中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も1986年清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった[8]。同年は新人王を獲得する[9]

1956年もリーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続で打率・本塁打・打点の部門のすべてでリーグ10位以内に入り、一塁手のベストナインに選出された。しかしその後はチャンスになると肩に力が入り凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面で深みに嵌り、伸び悩んだ。荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本は幼少時代に貧乏に苦しんだという経験から、「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料が上がらない。ばあちゃんを楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎて打てなくなり、その繰り返しでスランプに陥っていた[10]

チーム事情もあり、1958年クリーンナップを外れて1番打者を務めた期間もあった。1959年は主に2番打者を務める。同年オフ、チームメイトであった荒川博に合気道を紹介され、藤平光一に師事。そこで合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得する。翌1960年には3番打者に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せ、リーグ5位の66打点も残し、チームの優勝に貢献。山内一弘田宮謙次郎葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。同年のオフに結婚

1961年は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9ヵ月で通算1000本安打を達成し、史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から、「安打製造機」と呼ばれた(このように呼ばれた最初の選手である[9])。

1962年からは3番打者に戻り、5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打を記録した。翌1963年もリーグ2位の打率.318を記録するなど、チームの主力打者として活躍。1960年から1964年にかけ、毎年打率でリーグ5位以内に入った。1963年から1965年にかけては3番打者のほかに4番打者を任されることも多くなり、特に主力選手が抜けた1964年以降はチームの顔として期待されるようになる。

1965年は低迷するが、1966年にはシーズンを通してほぼ3番に座り、リーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打・リーグ3位の74打点という自己最高の成績を残して自身2度目の首位打者を獲得。自身4度目の最多安打も記録した。翌1967年はリーグ7位の打率・リーグ2位の出塁率を残す。

1968年5月14日から6月18日までは2番打者を務め、それ以降は5番打者に定着し、リーグ4位の打率.306を記録した。同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアム)の第1打席にて、鈴木啓示投手の初球を打って右翼線への二塁打とし、史上3人目となる通算2000本安打を達成。31歳7ヶ月での達成は史上最年少記録である。

1970年6月13日の西鉄戦で代打サヨナラ本塁打を放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献した。

奇行

1950年代の終わりから1960年代前半にかけ、榎本と顔なじみだった選手が次々とチームを去っていった。1959年オフ、親しい仲だった沼澤康一郎佐々木信也が現役を引退し、監督の別当薫もオリオンズを去った。1960年オフ以降は球団の経営主体が変わってオーナー・永田雅一が球団経営を掌握したことや、フロントの意向もあり、毎日色の強い選手(毎日オリオンズの生え抜き選手)たちが次々と放出されていった[4]。1961年オフは榎本の最大の理解者であった荒川博や、打撃について榎本と語り合う仲であった小森光生がチームから放出された。
1963年オフには球団が「ミサイル打線を解体して守りのチームを作る」という目標を掲げたため、主力選手の葛城隆雄トレードで出され、榎本の難解な打撃理論に理解を示していた4番打者・山内一弘もトレードによってチームを去った。特に山内のトレードは「世紀のトレード」と呼ばれ、永田は同トレードの放出候補に榎本の名前も挙げていた[11]。また、ベテランで主力選手でもあった田宮謙次郎は同年シーズン後半に本堂保次監督から冷遇を受け、オフに現役引退を表明[4]。これらの一連の流れによって「大毎ミサイル打線」は瞬く間に崩壊し、主力選手の中で榎本ひとりだけが残る形となった。

1964年オフの契約更改にて、球団は榎本に年俸をダウンさせる旨を告げ、「3割に2厘欠けたから(同年の榎本の打率はリーグ5位の.298)」という理由で、10年目のボーナス額も規定ギリギリしか出そうとしなかった。前年オフに主力選手が一挙に抜けていたため、同年の榎本はチームリーダーを務めなければならない立場に置かれ(沢木耕太郎は「彼(榎本)にはその役回りが(性格的に)向いていなかった」と述べている[4])、その重圧の中でプレーしながら結果を残したが、それが球団に全く評価されなかった。また、この前年の契約時に、オーナーの永田雅一が「君はチームに大きく貢献している。打率など心配しないでやってくれ」と発言していたこともあり、榎本は球団に対して強い不信感を顕わにした。
大毎時代の球団代表であった和田準一によると、榎本はそれまで契約更改の場では、どのような金額を提示されても「はい」以外言わない選手であったという[4]。18年間の現役生活の中で、榎本が契約更改で感情を表に出してごねたのは、後にも先にもこの時だけである。沢木耕太郎は「その榎本が、この年だけは頑強に拒絶したのは、孤立無援にさせられた者の怒りも含まれていたのかもしれない」と分析している[4]

榎本は翌1965年の中盤頃から奇怪な行動を見せ始めるようになり、同年シーズンの成績も低迷。1966年頃には大金を費やして庭に自家用の打撃場を作り、試合が終わった後もそこで延々と練習するなど、それまで以上に打撃の錬磨にのめり込むようになる。同年以降は自分でもコントロールできないほど感情が爆発するという精神的発作に見舞われるようにもなり、自分の打撃に満足できないと帰宅後にバットで物を壊すようになった。更に契約更改で訪れた球団事務所にて、椅子に座って瞑想に耽り、7時間動かないなどの奇行も見られた[10]

奇行が本格的に始まった1966年は自己最高の成績を残しているが、このシーズンに関しては後年に榎本自身全く説明がつかないと述べており、「とにかくこの頃はひたすら苦しんでいた」という。「(この頃は)気がついたらバットを持って涙を流していた」とも語っている。またこの時期から、自分の打撃に没頭する榎本の姿はチームメイトから奇異なものを見るような眼で眺められるようになり、その奇行がチーム内の陰で笑い話にされるようになった[4]

チーム名がロッテとなった1969年以降は、チャンスで代打を送られると自宅へ帰ればコーラの瓶などをバットで叩き割る、ベンチ要員にされると球場のドアの窓ガラスなどをバットで叩き割る、といった常軌を逸した行動を取るようになっていた[12]。1971年8月7日の対西鉄戦では、大沢啓二監督の起用法に不満をぶつけ、大沢がいた医務室のドアをバットで叩き割る事件を起こした[13]。これが元で二軍落ちし、その後に自宅で猟銃を持って立てこもるという騒ぎを起こしている。

奇行の悪化は、1959年シーズンオフ以降に自身の理解者が相次いでチームを去ってしまった事と、番記者の若返りで自分の野球理論を理解する者がいなくなったために孤立した事が遠因だったという向きがある。奇行については、「榎本は精神的に『錯乱』しているのではないか」と指摘する者もいたという[4]。また、沢木耕太郎は自著『敗れざる者たち』(1979年)の中で、2000本安打を達成する前後から「既に榎本の精神は『錯乱』し始めていた」という旨を記している[14]

西鉄時代

1972年西鉄トレードで移籍し、同年に現役引退。西鉄にトレードされた理由は上記の奇行のためとされる[15]。榎本自身も「人間は集中が高まると、時として奇行としか思えないような行動を起こすこともある」と認めている。

引退後

引退後から10年間、憧れであった打撃コーチの役職に就任するための体作りとして、自宅とかつての本拠地である東京スタジアムの間、往復約42キロを1日おきにランニングしていた[16]。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ったことや(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、現役時代の奇行の件もあり、結局コーチ就任の声は掛からなかった[17]

上記のような経緯もあり、西鉄退団後は野球関係の仕事は一切していない。日本プロ野球名球会が創設された当初は会員として名前が挙がっていたが、1度も参加していないため、脱会扱いとされている。

2012年3月14日、大腸癌のために東京都内の病院にて死去した[18]。晩年は地元の中野区でアパートを経営していたが[19]、前述のランニングは古希を越えても時々やっていたという。

プレースタイル

打撃

才能・感性に裏打ちされた打撃理論を持ち、いかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したといわれ、特に選球眼が抜群であった。高卒新人から2年連続でリーグ最多四球という非常に珍しい記録を持っており、デビュー戦の4打席目(それまでの3打席は無安打)には早くも敬遠を受けた。1年目の18歳時に記録した97四死球は、新人選手の記録としては歴代2位の田部輝男の65四死球(1950年)を大きく引き離して断トツの歴代1位である。四死球が多いにも関わらず、三振は少なかった。1964年は641打席に立ち、96四死球に対して三振はわずか19という数字を残している。また、パ・リーグ一筋で築いた通算409二塁打福本豊の449二塁打に次いでパ・リーグ歴代2位の記録であり、通算1062四球はパ・リーグ歴代5位の記録である。

打者としては、グリップエンド一杯を持ってフルスイングを多用するプルヒッターであった。軽打を嫌っていたため、アウトコースの球もすべて巻き込んで豪快に引っ張り、当時同じリーグで「スプレー打法」の異名を取った打撃スタイルの張本勲とは対照的に、広角に打ち分けて打率を稼ぐタイプではなかった[20][21]。インパクトの際に強く踏み込み、身体を沈めて下半身の力で振る打者で、ライナー性の強烈な打球が非常に多いラインドライブヒッターでもあったという。

型が崩れず、軸が全くぶれない美しい打撃フォームが特徴だった[22]。チームメイトであった山内一弘は、榎本のフォームについて、「“これぞバッティング”という完璧なフォーム」と語っている[4]

野村克也が恐れていた唯一の打者である。野村は対戦相手の打者を「ささやき戦術」で料理する事で知られているが、榎本に対しては独特の雰囲気に呑まれてささやく余裕をなくしてしまったという。後年、野村は榎本について、「王(貞治)は榎本と似てましたね。同じコーチに習ったせいでしょうけどね。まあ、こっちはいつも榎本と対戦しているんで、王を攻めるのは易しかったですよ。例えば、王の選球眼は凄いって言われるが、榎本のほうがもっと凄いですよ」、「王は際どい球にピクっとバットが動きそうになるんで、こちらとしても攻めやすいが、榎本は全然動かんのですよ……。ホント、あんな恐ろしいバッターには、後にも先にもお目にかかったことはないね」と語っている。

また、野村は「榎本ほど選球眼のよい選手を私は見たことがない。 ボール球に手を出さないのは勿論のこと、苦手なコースというものも殆どないのだから、捕手としてはお手上げである。 唯一苦手なのが内角高めなのだが、そこも余程速い球でないと手を出してくれない。私の囁きもまったく通用しなかった」[23]、「ボールを見送るとき、頭がピクリとも動かない。表情も変わらない。王のほうが、よほど扱いやすかった。あれほどに恐ろしい打者には、後にも先にもお目にかかったことがない」、「捕手野村として、一番対戦したくなかった打者」とも述べている[10]稲尾和久森安敏明も同様の証言をしており、ストライクゾーンぎりぎりのコースに投げても、榎本はそれがボール球なら首を少し動かすだけで見送り、身体やバットは微動だにしなかったという。稲尾は「とにかくボール球は絶対と言っていいほど手を出さなかった。外角ギリギリに投げ込んだスライダーを、ピクリともせず見送られたのにはまいった」と語っている。

稲尾和久がフォークボールを投じた唯一の打者である。稲尾は榎本を打ち取るためだけにフォークボールをマスターしており、「自分が対戦した中で榎本さんは最高にして最強のバッター」、「私が対戦したバッターの中で、もっとも雰囲気のあるバッターだったのが榎本さんでした」、「私はヒジへの負担が大きかったのでフォークボールを投げなかったんですが、榎本さんだけには投げざるを得なかった。1試合に5球以内と限定して、ただ1人だけに投げてました」と語っている。一方、榎本も「ほんとうに良いライバルでした。どんなに打たれても、あの人だけは一回もひげそりボール(ブラッシュボール)を投げてこなかったです。すばらしい人間でした」と稲尾を讃えている[10]

西本幸雄は榎本について、「今までに見たバッターの中で一番正確なバッターは誰かと聞かれれば、躊躇なく榎本と言うな。パ・リーグでは野村克也や張本勲が、榎本よりいい成績を残しているけれど」と評しており、杉浦忠は「昭和30年代を代表するバッターを挙げろと言われれば、榎本喜八、張本勲、山内一弘、長嶋茂雄、王貞治の名前を挙げます」と榎本の名前を最初に出している。また川上哲治は、「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本が最も相応しい」と語っており、その実力を「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」と称している[10]

榎本と王貞治を育てた荒川博は、「バッターとしての完成度は王より榎本の方が上」と述べており[24]、「お客さんを喜ばせるプレーが初めて『芸』の域に達したプレーなんだね。まず『技』があって、その上に『術』がある。だから『技術』というんだ。『芸』はその上なんだよ。で、『芸』の上が『道(タオ)』を極めるだ。野球で、それに挑戦したのが榎本なんだよ」、「確かに残した記録では王が上だが、到達したバッティングの境地でいえば、榎本が上だったね」と振り返っている[10]

打低投高のシーズンが多かった時代で好成績を残し続け、通算打率.298は7000打数以上の選手中ではプロ野球歴代6位の記録である。セイバーメトリクスにおけるRC、XRなどの得点算出能力(傑出度)では、榎本は通算指標でそれぞれ歴代10位以内に位置している。

守備

入団時、打撃に関しては手をつけ加えるものが何もなかったが、守備は下手であった。そのため、当時の一塁手だった西本幸雄は、榎本が自分の正ポジションを奪うかもしれない選手だったにも関わらず、榎本に徹底的に守備をたたき込んだといわれる[4]。その甲斐あってか、榎本は2年目の1956年に一塁手におけるシーズン守備機会とシーズン刺殺数の日本記録を樹立した。1965年にはシーズン補殺数で一塁手の日本記録(現在はパ・リーグ記録)を残し、1967年8月から1968年9月にかけては1度も失策せず、1516守備機会無失策の日本記録を残した。1968年シーズンも、9月に記録した失策ひとつだけで終え、シーズン一塁手守備率.9992の日本記録を樹立している。

一塁手としてパ・リーグ一筋で残した通算守備記録は、2147試合・20859守備機会・19625刺殺・1137補殺・1489併殺であり、すべて一塁手のパ・リーグ記録である。一塁手プロ野球歴代では、試合・守備機会・刺殺数が2位、併殺数が3位、補殺数が4位に位置する。失策は97個と少なく、通算守備率.9953は1000試合以上対象で一塁手パ・リーグ歴代1位、1500試合以上対象または13000守備機会以上対象の場合は一塁手プロ野球歴代1位となる。

守備記録では多数上位に位置しているが、守備自体には積極的ではなかった。2009年夏に行われた千葉OBトークショーにて、当時三塁手を務めていたチームメイトの前田益穂は、榎本について「逸れた送球を取ってくれなくて困った」と語っている。 村田兆治も著書「先発完投わが人生」で同様のことを述べており、榎本の守備について「守備では自身の届く打球にしか動かず、正直辛かった」と評している[25]。また、榎本の守備力については、「お世辞にも、上手いとは言えなかった。 最低限の動きしかしないから。可もなく不可もなく、でしょうか」とも語っている(ただし、村田がチームに定着したのは榎本のキャリア晩年である)。

榎本は守備について、「その日のバッターの調子や狙い、ピッチャーのレベル、その日の出来との兼ね合いで、守る位置は自ずと決まってくるもの」という考えを持っており、時代の発達と共に若くて才能のある選手達がデータ通りに守備を変えさせられているのを見て、だんだん寂しい気持ちになったという。

一塁手のほかに、1959年に右翼手として13試合出場している。

特筆

トレーニングと打撃理論

現役時代は武道を取り入れたトレーニングをおこない、その求道的なスタイルも相まって数々の逸話を残した。荒川博らとともに藤平光一剣道家の羽賀準一の道場に通って合気道居合を習得し、打撃が開眼。そのためか、トレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。試合前に座禅を組むこともあったという[9]。また、自宅の庭に専用の打撃練習場を造ったことでも知られる[9]

荒川博は若手の頃の榎本について、「榎本は毎日、私の家に来てバットを振り、私の合気道の修行にもついてきて、道場の隅に正座して見学するという、ハードなプロ野球選手の道を歩んでいた」、「そのうち、榎本は私の家に数ヶ月も泊り込み、出掛けるときには私のオートバイの後ろに乗ってついてくるという状態で、バッティングの極意を目指して、猛訓練を積み重ねるようになった。ゲームが終わってから、私と一緒に帰ってきて、私が『もうよい』と言うまで、何百回もバットの素振りをし、姿勢・間の取り方・足腰の位置などを徹底的に研究する毎日だった」と述懐しており、「榎本はまことに生真面目な男で、求道心のかたまりのようなところがある」と評している。

榎本の打撃フォームの調整方法は、新人時代から他の選手と全く異なっていた。荒川博から教わった精神論である「バットを手で振るな、体で振るな、心で振れ」というイメージを忠実に実行し、フォーム調整では素振りをすることは少なかったとされる[26]。そのため、試合前にバットを1度も振らないまま試合に臨むこともしばしばあったという[22]。榎本の試合前の調整方法に関する逸話として、大鏡の前でバットを構えたまま微動だにせず、30分程経過したところでようやく構えを解き、満足気な表情で「いい練習ができた」と言ったという逸話がある。後年、榎本本人が語ったところによれば、構えたバットの先端が視界の端にちらつく状態がバッティングにおける理想型であり、その微調整をしていたのだという。更に榎本は「要はボールを最短距離でミート出来る位置にバットのヘッドがあるかどうかが重要なのであって、それを確認するのにスイングする必要は無い」と解説している。

取材を行っていた近藤唯之によると、前述したフォーム調整の練習中、榎本は近藤に「ぼんやり構えていたら体が死にます。頭の中で飛んでくるボールを描きます。すると両腕の中の血がじんじんとバットに流れこむんです。だからバットを折ったら中から血が流れ出すんです」 と語ったという[27][28]

現役時代、榎本は打撃について、「体(たい)が生きて、間(ま)が合えば、必ずヒットになる」とよく呟いていた[4]。4打数3安打でも、自分が納得できる完璧な打球でなければ「4の1か」と落ち込み、4打数ノーヒットでも納得がいけば「4の4だ」と喜んだ。テキサス安打や、ボールが転がってゴロで外野へ抜けた安打などでは納得せず[4]、自分の納得できる打球ではなければ、内野安打性の当たりでも必死な走塁をしなかったという。榎本のチームメイトであった醍醐猛夫は、「ボテボテでも、テキサスでも、4打数4安打なら誰でも喜びますよね。ビールでも飲んでツキを祝うんだけど、榎本さんは違うんですね。部屋の中でグリップを握って、じっと考え込んでいるんですよ。『どうして打てなかったんだろう』と言って。打てないと言っても4の4なんですよ」と榎本について語っている[4]

1959年のオフ以降、合気道や剣道のトレーニングの他に、榎本は新しいトレーニングを教わっていた。それは臍下丹田(せいかたんでん)に気持ちを鎮め、そこを体の中心として、指先や足先などの体の隅々までを臍下丹田と結び(五体を結び)、連結させるというものであった。同トレーニングをすることで、榎本は体の隅々が意識されて、自分の臓器の位置までがわかったという。これらのトレーニングによって効率的な体の使い方ができるようになり、「以前の自分は無駄な力が入りすぎていた」ことや、「バットを振り回すのではなく、バット自身の重さで下に落ちる力をも利用し、バッティングをする」ことに気がつき、打撃への理解を深めた[10]

1966年のシーズン中、毎日新聞の記者によるインタビューにて、榎本は「気がついたらバットを振っていたというのが理想じゃないかな、と僕は思うって話しですよ」、「日本人でをどうやって使うか考える人はいないでしょう。無意識に使って、うまくご飯を食べている。打撃の究極もそこだろう……と、これは僕の考えですよ」と語っている[4]

荒川博から学んだ合気道打法について、後年に榎本は「バッターボックスの中にお城を構えているのと同じことなんです。 私の体の前、ピッチャー方向に外堀と内堀があって、その間でボールを処理すると、バットは速い球にも負けないんですよ。外堀と内堀の幅は合わせて30~40㎝ぐらいでしょう」と解説しており、「入団して数年、2割6・7分が続いて、どうしても3割バッターになりたかったんです。早々と3割バッターなんかになればすぐ死んじゃうでしょうにね。だけど子どもだったから、どうしても3割を打ちたかったんです。死にものぐるいでバットを振っているうちに、内堀と外堀のことがわかってきました」と振り返っている。また、入団以来データや相手投手についてのメモ・日記などは一切つけなかったという[10]

榎本の信条は「球界を代表するピッチャーの最も得意な球を打つ」ことだったという。フェンス直撃の当たりを打っても、「何でフェンスを越えないんだ」と塁上で首を傾げ、ずっと悩んでいた。理想としていたバッティング理論に拘り、打撃が上手くいかずにいらいらした時には、家の中でバットを持って暴れたりした[29]。また、打撃に何か活かせないかという理由で映画を見たり、猫の動きを勉強したり、水道の蛇口から出る水を2時間ほど見つめていたりしたこともあった。スランプ時には寝ていてもうなされ、バットを見るのも嫌な時があったが、それでも命がけで「自分の体がぶっ壊れて、おっ死んでもいい」という強烈な練習を何度もしたと語っている。キャリアの峠を越し、打撃に衰えが見えていた現役最終年には、「オリオンズの榎本はもう死んだんだ」と言ったとされる[29]

神の域

1963年7月7日阪急戦で米田哲也と対戦した際、自分の身体の動きが寸分の狂いも無く認識でき、次はどのコースにどんな球が来るのか手に取るように分かるという奇妙な感覚を体験している。この際に榎本は心身共にかつてない充実感を覚え、投手とのタイミングという概念が無用になるほどの極限の集中力を常に発揮出来たという。8月1日東映戦で足を捻挫し、以降の7試合を欠場するまでこの状態が続き、アウトになった打球も全てバットの芯で捉えた完璧な当たりだった。後年、榎本はこの時の様子を、「野球の神様から“神の域”に到達する機会を与えていただいたんですよ」、「“神の域”にいかせていただきました」と語っている。この期間は19試合(ダブルヘッダーを4回含む)で打率.411(73打数30安打)を記録しており、特に15日以降の11試合の打率は.558(43打数24安打)である[30]

“神の域”に到達した時のことについては、後年に詳細に語っており、「臍下丹田に、自分のバッティングフォームが映るようになったんです。ちょうどタライに張った水に、お月さんがきれいに映る感じ。寸分の狂いもなく、自分の姿が映って、どんなふうに動いているのかまでよくわかった。ボールがバットに当たった瞬間から、バットに乗っていくところもよくわかった」、「すると、どんなボールに対しても、自分の思い通りに打てちゃう。それまでは、タイミングは合った、狂ったと一喜一憂してたけど、この時期は相手とのタイミングがなくなったんですよ。最初からタイミングがないから、タイミングも狂わない。だから、打席で迷うこともなくなったんです」、「本当に夢を見てる状態で周りの動きがスローになった。プロに入ってから、バッティングの事ばかりでテレビを見ても心から笑った事がなかったんですが、初めて心から笑えたんですね」と述べている[22]

また、「それまでは、いくら自然体をつくり、そこへ魂を吹き込んでバッターボックスに立っても、結局『バッティングでいちばん大切なのはタイミングだ』という思いを捨てきれなかったんです。だから、ヒットを打ったり打ち損じたりするたびに、タイミングが合った、狂ったと一喜一憂してた。しかし、臍下丹田に自分のバッティングフォームが映るようになると、ピッチャーとのタイミングがなくなってしまった」、「ピッチャーの投げたボールが、指先から離れた瞬間からはっきりわかる。こっちは余裕を持ってボールを待ち、余裕を持ってジャストミートすることが出来た。だからタイミングなんてなくなっちゃったんです。最初からないから、タイミングが狂わなくなったんですね」、「自分の脳裡に自分のバッティングの姿がよく映るんです。 目でボールを見るんじゃなくて、臍下丹田でボールを捉えているから、どんな速い球でもゆるい球でも精神的にゆっくりバットを振っても間に合うんです。ちょうど夢を見ている状態で打ち終わる。その姿ははっきり脳裡に映っていながら、打ち終わるとスッと夢から覚めて我にかえって走りだす、そのようなところまでいかせていただきました」とも語っている[10]

1963年シーズンは、リーグ2位の打率.318だった。この数字と“神の域”に到達した時のことについて、「数字は悪いかもしれませんが、内容は良かったんです。その頃、ただヒットが打てればいい、タイミングが合ってヒットになればいい、という段階ではどうしても満足できなくなっちゃったんですね」、「納得のいく、1足す1は2というような方程式がピシッと立つようなバッティングが欲しくなって、稽古に稽古を重ねていたら、ある日、無意識のうちにそれができたんです。無心のうちの動きですから、ご飯を食べてるのと同じです。もう、パカーッ、パカーッといくらでも打てました」と語っている[10]

“神の域”に到達していたという期間内に行われた7月23日のオールスターゲーム第2戦では、1回裏に右翼スタンドへオールスター史上初となる満塁本塁打を放った。その4年後に大杉勝男も達成しているが、現在でも達成者はこの2人だけである。また、榎本は同試合の第3打席でも右翼へのソロ本塁打を放っており、5打点を記録した。

1963年8月1日、守備時に一塁ゴロを捕球して一塁ベースへ駆け込んだ際、左足を捻挫して欠場した。榎本は10日の試合から復帰したが、7月7日から始まった“神の域”の感覚を失っていることに気づいた。この際、榎本は強烈なショックを受け、絶望に打ちひしがれた。その後、号泣し、成績も落ちていったという。一時は数字こそ持ち直したものの、球場から家までずっと泣きながら帰ることがしばしばあった。以降、2度と“神の域”の境地には踏み込めなくなり、苦悩の連続でしかなくなったという[10]

王貞治との関係

巨人王貞治が伸び悩んでいた1962年、川上哲治監督は巨人のコーチとなっていた荒川博に「榎本を育てたように王を育ててくれ」と指示した。これに基づき、荒川が榎本に王への助言を頼んだ。榎本は実際に王の素振りを見て「君はスイングの後、右の膝が割れる(開く)からいけない。それだと力のある打球が飛ばないよ」とフォームの欠点を指摘。王の右足が動かないよう踏みつけながら素振りをさせ、フォームの矯正を指導した。

王との練習として、次のような逸話がある。1962年11月、荒川の勧めにより、羽賀準一の下で王・広岡達朗須藤豊と共に剣道を習った。その際、真剣を使って藁を切る練習を行い、全員失敗した(スイングの時に無駄な力が入ると、力を活かしきれないことを教えるためだった)。翌週、榎本と王が再び真剣を使った練習を許され、王は一回で藁を切ったが、榎本は失敗した。その帰り道、自身の不甲斐なさと王に先を越された焦りから、涙したという。帰宅後、父親に頼んでありったけの藁束を集めさせ、真剣で斬り始めるも上手くいかず、荒川を呼び寄せて指導を乞い、夕方に藁を斬ることができた。この際に榎本は羽賀の言う「無駄な力を使わない振り」を体得し、打撃への理解を深めたという[10]

野球

ある時の試合で、野村克也がマスクを被り榎本と対戦した時のこと、投球がややストライクゾーンから逸れた。 榎本は微動だにぜず見送ったが、審判はストライクのコールをした。野村が「助かった」と安堵していると、榎本は無表情のまま「3センチ(ボール半個分)外れてるよ」と呟いたという。野村は1982年時点において、「最も上手い左打者」として榎本の名前を挙げ、その選球眼を絶賛している。野村によると、榎本はボール球には「絶対」と言っていい程、手を出さなかったという[31]

稲尾和久は、著書において、苦手としていた打者として榎本と長嶋茂雄の名前を挙げている。稲尾は打者心理から投球を組み立てていたが、この2人は「何を考えているのか分からなかった」という。稲尾の理論では「打者と対峙する時、気の強い打者は目を合わせてくる。気の弱い打者は目を合わせて来ない」が、榎本はそのどちらでもなく、「自分の方を見てはいるのだが、目は合わない。目ではなくて眉間を見られているようで不気味だった」と述べている。一方で長嶋については、日本シリーズで初めて対戦した際、じっと長嶋の目を見ても何も反応が返ってこなかったため、稲尾は「なんと隙だらけの打者や。一分の隙もない榎本とは大違いやな」と戸惑いつつも得意のスライダーを投じた。すると、ぼーっと立っていた長嶋の身体がいきなり反応し、打たれたことのないコースを打てるはずのない体勢で打ち返してきて、長打にされたという。野村克也も、心理が読めずにやり難かった打者として、榎本と長嶋の名前を挙げている。

稲尾和久は榎本との対戦について、「構えたままで見切る、ボールの見送り方が嫌だった。無気味なくらいの集中力を感じました」、「榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と述懐しており[32]足立光宏は「榎本さんのは同じヒットでもボテボテじゃなく完璧に芯でとらえたヒット。自信を持って投げたボールをきっちり打ち返してくるんです。それも機械のような正確さで。いってみれば球界の宮本武蔵。打率では計り知れない怖さを感じました」と評している[32]

杉浦忠は榎本について、「投げる球がなかった」、「当たり損ないの内野安打やバントヒットなどはほとんどなかった。それで通算打率.298は凄いの一言に尽きる。引っ張り専門の弾丸ライナーで、アウトになった打球もほとんどヒット性の当たりだった」と述べている。榎本のいる大毎戦は、投手として「前日から嫌な気分だった」という。足立光宏や捕手の和田博実は、榎本のミートポイントはかなり捕手寄りで、変化球を曲がりきった所で打たれてしまうのでお手上げだったと証言している[10]。また、チームメイトであった得津高宏は、「夜に同じ部屋で寝ていると、変な気配がして目が覚めた。すると榎本が起きていて、自分(得津)が寝ている頭上でブンブンとバットを振っていた」という旨を述べている[33]

ある時の試合で、2ストライクからの3球目がきわどいコースに入った。打者の榎本は見逃したが、審判はストライクの宣告をした。ダッグアウトに戻ってきた榎本は、淡々とした口調で「3球目はね、外側に5センチほど外れていたんだよ」と誰にともなく呟いた。チームメイトの葛城隆雄は、そのような榎本を同年代であるにも関わらず畏怖するような気持ちで眺めていたという[4]

スポーツジャーナリスト二宮清純が、通算1000イニング以上投げた往年の投手たちへ「最強打者は?」という質問をぶつけたところ、最も多く返ってきた答えは「榎本喜八」の名であった。二宮は少年時代に見た晩年の榎本しか知らず、榎本と同時代に生きたパ・リーグの投手たちが張本勲・野村克也・中西太などの上に榎本の存在を位置づけようとすることが不思議だったという。二宮は榎本の残した数字を見て「史上最強と呼ぶには物足りない」と判断したものの、実際に古いテープを取り寄せて榎本の打撃を繰り返し見ているうちに、「その偉大さを理解すると同時に、ピッチャーが榎本を恐れる理由も理解できた」という旨のことを述べており、「何が凄いかといって、榎本の打球はミリ単位も左右にブレないのだ。順回転のスピンで猛禽のように野手を襲うのだ。順回転のスピンというのは、すなわち寸分の狂いもなくピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう」と評価している[32]

右翼スタンドや右中間スタンドへの突き刺さるような榎本の本塁打は、負傷者を生み出したことがあった。打球を取ろうとして避けきれず、顔にボールを受けて昏倒した観客までいたという[32]。また、二宮清純は少年の頃に晩年の榎本の姿を見ており、「一、二塁間を真っ二つに割る強烈なライナーが印象に残っている」と記している[32]

お笑いタレントのビートたけしは、1994年に放映された「スーパーサッカー」にて、山際淳司と昔の野球談義をした際、自分の中でのベストナインの1人に榎本を選んでいる。「榎本さんは、何つうかロボットみたくいつもガチって構えててね」と回想しながら、あごを引いてグリップを耳の後ろに置く動作をし、榎本の構えを真似て見せていた。

現在、打撃の練習として広く行われている「セットアップ・ティーバッティング(トスしたボールをネットに向けて打つ練習)」は、榎本と山内一弘ゴルフの練習方法を応用して始めたのが最初だった[10]。山内とは打撃理論で通じ合い、現役時代は仲が良かったという。榎本は本格的に奇行が始まってから他の選手とほとんど会話をしなくなったが、山内とだけはオールスター戦などで会話を交わし、親交もあった。山内の引退時、榎本は「山内さんとは長く一緒にプレイしたが、若い時から私のよい手本だった。一言では言えない思い出がある。引退されることはとても寂しい」とコメントを寄せている[4]

同い年(学年は一つ差)で同じ背番号「3」の長嶋茂雄に対しては、強い敵対心を燃やしていた。榎本は「相撲だったら長嶋に勝てる。超満員の観衆の前で一度長嶋を投げ倒すのが僕の夢でした。一塁にきた長嶋に言ってやろうと思いました。“長嶋、相撲で勝負しろ”と」と語っている[10]。また千葉茂は、ファンから人気があり派手な選手であった長嶋を「サーカスライオン」、ファンから人気がなく地味な選手であった榎本を「神主」と例えたことがある[4]

榎本は現役時代に印象深かった投手として、稲尾和久、杉浦忠、足立光宏の3人の名を挙げている[10]

「打撃の天才」と言われている前田智徳について、「話を聞く限り、彼には私と共通するものがあると思います」とコメントしている[10]。実際、前田はアキレス腱の怪我さえなければ、2000本安打を榎本に匹敵、あるいはそれ以上に若い年齢で達成する可能性も十分にあったほどの打撃の実力を持つが、打撃へのこだわりなど奇人めいたものを持つところまで共通している。二宮清純は1993年に、前田の打撃の理想を追い求める姿や、投手との対決での剣豪・職人じみた雰囲気から、「前田は榎本の姿を彷彿とさせる」という旨のことを述べている[34]

人物

貧乏な家庭に生まれ、家にお金がなかった。そのため、百姓だった榎本の父親は、田畑を売って金銭を拵え、榎本を高校に進学させた。榎本は恩を決して忘れず、プロ入り後に高給取りとなった後、この田畑を父親のために買い戻している。また、貧困に苦しんでいた榎本の実家はあばら家(柱・屋根・囲いだけの隙間のある家)で、榎本が初めてを口にしたのは中学生の時であったという。その肉というのは赤蛙だった[10]。若い頃の榎本が打撃に対して思い詰め、プレッシャーなどで精神面で深みに嵌ってしまったのは、榎本の収入に一家の生活そのものがかかっていたという事情もあった。

安打や本塁打を放っても「自分の打撃ではない」と悩み、凡退しても悩み、を繰り返していた。榎本と王貞治の師である荒川博は、「榎本は真面目すぎた」と述べている(逆に王は良い意味でいい加減で、「結果オーライも良し」とできる性格だったという)。

好きな小説は、吉川英治の『宮本武蔵[24]

妻とは、知り合いの新聞記者からの紹介で知り合った[10]。元同僚であった佐々木信也から、「ほう、恋愛にもわき目振らずに野球一途のエノも彼女できたか、と思ったらもう結婚か。手が早いなあ」と冷やかされ、榎本は反論したという。

若手時代、榎本の心の支えだったのが、早稲田大学出身の先輩たちとの打撃談義だった。当時、早稲田出身である荒川博・小森光生沼沢康一郎と榎本の4人は非常に仲が良く、遠征先の宿でもお互いのバッティングを検討しあい、酒も飲まずに延々と打撃について論じ合ったという。また、山内一弘は、4人に混じって野球談義をしたかったが、自分は早稲田出身では無いので入りにくかったと述べている[10]

主力打者が抜けた後のオリオンズ打線が低調を極めた年、関西へ遠征したことがあった。その晩、醍醐猛夫有藤通世山崎裕之麻雀を打ち終えて部屋に戻ると、ルームメイトの榎本が居なかった。榎本は結局、深夜の3時頃に帰ってきた。翌朝、醍醐が有藤と顔を合わせると、有藤は「参った、参った」と連発する。訊くと、部屋に戻った有藤と山崎を、榎本が待ちかまえ、バッティングのコーチをしてくれたという。しかし、有藤と山崎には榎本の言っている打撃理論がどうしても理解できず、有藤は醍醐に「剣道の達人の話を聞いているみたいだった」と語った[4]

現役晩年の不振時、癇癪を起こして家の中の物をバットで壊した。後年、榎本は「今から考えるとずいぶん子供じみたことをしていましたね。『家が壊れたって、また建てればいいんだ』と言って、妻に大笑いされたのを覚えているけどね」と振り返っている[10]

キャリア終盤は衰えてきた身体に苦悩していたと語っており、晩年については、「両手首の腱鞘炎やら、足腰の衰えで体力が続かなくなっていたんですよ。『ストライク、バッターアウト』という声に、ブルブルッて震えるようになっちゃったしね」、「臍下丹田に鎮めた気持ちが、肩に上がっちゃって、何だか気持ちもプカプカ風船みたいに浮いてるの。ああ、もう野球生命の終わりだなと思いました」、「若い人は出てくるし、試合からは外されるし、それでも2人の息子のお父さんとして家庭を守らなきゃいけないし、『ヒットが打ちたい』『ヒットが打ちたい』。そう思ってバットを振り続けて、気がついたら、バットを握ったまま涙なんか流してんの。切なかったねぇ」 と振り返っている[10]

晩年、自身のキャリアの終了を悟った榎本は、若い選手に打撃を教えたが、話が伝わらなかった。これについては、「言葉が通じないの。『臍下丹田』も『五体を結ぶ』もわかんない。それに、昨日基本をやって、今日また同じことをやろうとしても『それは昨日習ったから、次を教えて下さい』なんて言われてね」、「野球でも、学問でも一緒だと思うけど、『基本=応用』で、基本を繰り返して身につけてこそ、応用ができるわけでしょ。なのに、基本を教えようとしたら、逆に、型にはめるって言われちゃうし。つくづく絶望しちゃったんですよ」 と語っている[10]

引退後の榎本の取材に成功したスポーツライター松井浩は、難解な話を理解するために数年間榎本の自宅に通い続け、「Number PLUS - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 」(1999年文藝春秋)において、榎本本人への取材を元にしたドキュメント記事を掲載した。その後も取材で得た話を咀嚼するために解剖学・運動生理学や武道柔術の歴史などを勉強し、実際に脱力法や呼吸法のトレーニングを6年間積んだという[10]2005年には松井による評伝「打撃の神髄 榎本喜八伝」(ISBN 978-4-06-212907-7)が刊行された。

奇行

1966年、メジャーリーガーが来日し、ロサンゼルス・ドジャースとの日米対抗戦が開催された際、他の選手が練習している中、榎本ひとりだけがダッグアウトでじっと座禅を組んでいた。不審に思った山内一弘が、「榎本は何やっとんのや?」と巨人の山崎マネージャーに訊くと、山崎は「1時間も前からああしたままなんです」と答えた。山内が「寝てるんか」と榎本を冷やかすと、榎本は「違う」と言って動こうとしなかった。川上哲治監督も、目を瞑ったまま動かない榎本を見て心配になり、試合に出場できるのか尋ねたという。その後、榎本はノックも受けずバッティング練習もしないまま、試合にスタメン出場した[4]

キャリア終盤、チームや首脳陣の方針もあり、榎本に打撃の機会が与えられなくなっていった。信頼されていないことを悟った榎本は、時代の流れと共に周囲から自身の理解者が去っていったことや、衰えによって身体が思うように動かなくなったこともあり、徐々に奇行が悪化し始め、さらに打撃にも変調をきたした。1971年には悪化が極まり、榎本は自宅の応接間に猟銃を持って立てこもった。当時、榎本の理解者であった荒川博は、榎本の妻の電話によって榎本宅に駆けつけ、「何をつまらないことをしているんだ」と応接間に入ろうとした。すると榎本は「入るな!」と叫んだ直後、「たとえ荒川さんでも、入ってきたらぶっ放す」と凄まじい音を立てて天井に発砲した。荒川は「もう自分の手には負えない」とし、自分の家に帰るしか仕様がなかったという[4]。この一件については当時は「真偽不明」という扱いだったが、後に榎本本人が事実であったことを認めている[10]

旅館で他の選手が就寝している午後11時ごろから、榎本は外で黙々と練習をしていたといわれている。しかし、精神状態が悪化した晩年は成績が残せなくなり、練習に対する姿勢よりも奇行が目立つようになった。キャリア最終年である移籍先の西鉄でも奇行を起こし、榎本獲得時には喜んでいた稲尾監督も奇行を繰り返す榎本を持て余し、結局打率.233の成績で現役引退した。稲尾は「(西鉄時代の)榎本さんとは会話すら出来ない状態だった」と回想している。同年は出場が少なく、引退試合もなく、報道もほとんどされなかったため、消えていくような引退だったという[4]

現役時代、榎本は麻雀をやるわけでもなく、煙草を吸うわけでもなく、仲間と酒を飲んで騒ぐこともしなかった。若手時代に荒川博に連れて行かれたキャバレーでは、数分も経たないうちに「荒川さん、こんな不潔なところにはいられません。帰ります」と言って帰ってしまった程、生真面目な性格であったという[29][35]。酒は極たまに飲むことがあったが、その時も部屋にこもってひとりで飲み、ずっと考え込んでいた。榎本の精神状態について、葛城隆雄は「発散させるものが何もなかったのかもしれない。内にどんどんこもってしまった」と振り返り、田宮謙次郎は「責任の重さ(山内などの主力打者3人がチームから一挙にいなくなり、榎本ひとりだけになった)に耐えられなくなったのではないか」と語っており、醍醐猛夫は「(榎本が)あまりに『バッティング道』を追いつめすぎたからでしょう」という旨を述べている[4]。また、沢木耕太郎が榎本の父親に、榎本がなぜ不安定になったのか訊いたところ、父親は「……お医者さんによれば、なんだか入団した年に喰ったデッドボールの後遺症だとかいうんですがね」とあまり信じていそうもない口調で答えたという[4]

大毎時代の球団代表だった和田準一は、榎本について、「神経が細過ぎた」と振り返っている[4]。1960年5月26日、試合前の練習中にて、榎本がバットを振っていた。そこにチームメイトの柳田利夫が通りかかったが、榎本は気づかなかったため、榎本の振ったバットが柳田の顎に直撃した。柳田は倒れ込み、顎から血が噴き出し、大騒ぎになった。榎本は顔面蒼白になり[36]、身体を震わせるほど怯え、試合どころの状態ではなくなった。試合数分前になっても榎本の顔が蒼白であったため、西本監督は「コノヤロー、これから戦争をしようってときに、何を女学生みたいにメソメソしてやがるか!」と怒鳴り、榎本をビンタしたという。それまで榎本は打率.412で断トツの首位打者であったが、同日を境に成績が下降した。その後、打撃が復調したのは、柳田が怪我から復帰した6月の終わり以降だった。同年は2位の田宮に2分7厘の差をつけて首位打者を獲得している。

選手として毎日オリオンズ・大毎オリオンズ・東京オリオンズ・ロッテオリオンズの全てに在籍した人物は、榎本と醍醐猛夫の2名のみである。醍醐は榎本のことを尊敬しており、榎本の奇行が当時のチーム内で笑い話のネタにされていたことについては、引退後の1970年代に「今でも、榎本さんを笑い草にする若い選手がいるが、そんなのを見ると張り飛ばしたくなりますよ。榎本さんがどれほどの打者だったか、おまえたちは知っているのかと怒鳴りたくなります」と語っている[4]

引退後は野球界と関係を断ち、メディアからのインタビュー依頼も基本的に断っている[37]。榎本は「本当は打撃コーチをやりたいんです。でも誰も声をかけてくれない。僕は社交ベタだし。そういう人間には話が来ない」と語っている[29]。また、オリオンズのOB会などにも一切出席していない。野球選手としてはチームに多大な貢献をしたのにも関わらず、OB会で榎本の話が出ることは全くなかったという[4]。榎本は通算2314安打を残したが野球殿堂入りもしておらず、現在でも表舞台の話にあがることはほとんどない。

記録に関するトピック

背番号3番を18シーズンにわたって使用した。これはパ・リーグ最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は立浪和義の22年)。

1962年シーズン途中から1972年までオリオンズの本拠地だった東京球場で、最も多く本塁打を打った選手である。また、1960年から1962年までの3年連続を含み、通算で4回最多安打に輝いた。シーズン安打数リーグ1位を4回は、福本豊ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である(イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録)。

上記の通り、1968年7月21日の対近鉄ダブルヘッダーの第一試合で、史上最年少記録で通算2000本安打を達成した。続いて行なわれた第二試合にて、近鉄の安井智規との間で起こった乱闘の際に、荒川俊三にバットで殴られて意識を失うという災難に見舞われている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1955 毎日
大毎
東京
ロッテ
139 592 490 84 146 24 7 16 232 67 12 9 0 5 87 5 10 55 7 .298 .414 .473 .887
1956 152 631 524 74 148 29 8 15 238 66 4 12 2 6 95 6 4 41 14 .282 .396 .454 .851
1957 128 531 446 68 120 22 6 9 181 50 4 9 5 7 68 2 5 46 10 .269 .372 .406 .778
1958 123 492 431 63 112 27 1 13 180 43 6 5 4 3 52 5 2 68 4 .260 .342 .418 .760
1959 136 581 496 68 137 23 2 11 197 49 8 6 7 4 69 1 5 47 8 .276 .370 .397 .767
1960 133 576 494 94 170 37 5 11 250 66 15 1 1 2 67 5 12 33 9 .344 .435 .506 .941
1961 137 597 543 93 180 28 7 8 246 42 9 8 0 2 43 2 9 22 16 .331 .390 .453 .843
1962 125 524 483 79 160 28 2 17 243 66 5 2 0 3 36 0 2 28 10 .331 .380 .503 .883
1963 143 587 532 70 169 25 0 18 248 64 8 3 0 3 48 3 4 23 10 .318 .378 .466 .845
1964 149 641 540 83 161 25 1 17 239 71 17 6 0 5 86 11 10 19 12 .298 .404 .443 .847
1965 139 562 493 64 132 30 4 10 200 57 16 9 0 3 60 4 6 29 10 .268 .354 .406 .760
1966 133 558 476 81 167 31 1 24 272 74 14 6 1 6 68 8 7 20 15 .351 .439 .571 1.011
1967 117 468 372 55 108 13 1 15 168 50 10 3 0 5 83 10 8 33 8 .290 .430 .452 .881
1968 129 554 487 70 149 31 0 21 243 77 7 1 0 3 62 10 2 62 8 .306 .387 .499 .886
1969 123 462 400 60 109 17 1 21 191 66 9 2 0 7 54 2 1 42 6 .273 .360 .478 .838
1970 110 354 303 42 86 10 0 15 141 39 7 1 0 1 49 5 1 46 5 .284 .385 .465 .851
1971 45 102 90 10 22 3 1 4 39 18 1 1 0 2 10 1 0 15 3 .244 .320 .433 .753
1972 西鉄 61 190 163 11 38 6 0 1 47 14 1 0 0 0 25 1 2 16 4 .233 .342 .288 .630
通算:18年 2222 9002 7763 1169 2314 409 47 246 3555 979 153 84 20 67 1062 81 90 645 159 .298 .389 .458 .847
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に、1964年に東京(東京オリオンズ)に、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

タイトル

  • 首位打者:2回(1960年、1966年)
  • 最高出塁率:1回(1966年)※タイトル設立前の1960年も記録。
  • 最多安打:4回(1960年 - 1962年、1966年)※当時連盟表彰なし。

表彰

記録

  • 通算1000本安打達成年齢:24歳9ヵ月(1961年9月27日)※史上最年少記録。
  • 通算2000本安打達成年齢:31歳7ヶ月(1968年7月21日)※史上最年少記録。日米通算ではイチローが上回る。
  • 通算二塁打:409(1955年 - 1972年)※パ・リーグ歴代2位。
  • 5年連続シーズン150安打以上(1960年 - 1964年)※パ・リーグ歴代2位タイ。
  • 入団以来15年連続100安打以上(1955年 - 1969年)※歴代3位タイ、パ・リーグ歴代2位タイ。
  • 入団以来12年連続20二塁打以上(1955年 - 1966年)
  • 連続試合出塁:49(1966年7月15日 - 9月27日)※歴代8位タイ、達成当時はパ・リーグ記録。
  • 打率ベストテン入り:10回(1955年、1956年、1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)※歴代9位タイ、パ・リーグ歴代2位タイ。
  • シーズンリーグ最多四球:4回(1955年、1956年、1964年、1968年)※パ・リーグ歴代2位タイ。
  • シーズン連続打席無三振:173(1964年6月30日 - 8月25日)※歴代5位、達成当時はパ・リーグ記録。
  • シーズン一塁手守備機会:1665(1956年)※日本記録。
  • シーズン一塁手刺殺:1585(1956年)※日本記録。
  • シーズン一塁手補殺:122(1965年)※パ・リーグ記録、達成当時は日本記録。
  • シーズン一塁手守備率:.9992(1968年)※日本記録。
  • シーズン一塁手守備機会連続無失策:1128(1968年4月6日 - 9月3日)※日本記録。
  • 一塁手守備機会連続無失策:1516(1967年8月13日 - 1968年9月3日)※日本記録。
  • オールスターゲーム出場:12回 (1955年 - 1964年、1966年、1968年)
  • オールスターゲームで満塁本塁打(1963年7月23日)※史上初。その後に記録を達成したのは大杉勝男のみ。

背番号

  • 3 (1955年 - 1972年)

関連情報

参考文献

  • 『敗れざる者たち』(1979年、文春文庫沢木耕太郎著) - ノンフィクション作品。同作品収録の「さらば 宝石」の主人公となった。作品の中ではEと表現されている(最後の一文で実名が明かされる)。
  • 『豪打列伝』(1986年ナンバー編、文春文庫ビジュアル版) - 独占インタビューに応じており、榎本の打撃フォームが連続写真で載っている。
  • 『プロ野球名人列伝』(1996年、PHP文庫、近藤唯之著)
  • Sports Graphic Number PLUS 20世紀スポーツ最強伝説③ - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 』(1999年文藝春秋) - 取材者の松井浩によるドキュメント記事「榎本喜八 もののふの真実」が掲載されている。
  • 『20世紀のベストプレーヤー 100人の群像』(2000年ベースボール・マガジン社
  • 『スポーツ伝説13 栄光のアウトロー』(2000年、ベースボール・マガジン社)
  • 『打撃の真髄 榎本喜八伝』(2005年、講談社松井浩著) - 松井浩による榎本の評伝。
  • 『憧れの記憶 連続写真で見るスーパースター 野手編』(2007年、ベースボール・マガジン社)
  • 『プロ野球 無頼派 選手読本』(2008年、宝島SUGOI文庫)

映画出演

  • 『一刀斎は背番号6』(1959年、大映) - 同僚役
  • 『愛の三分間指圧』(1968年、大映) - プロ野球の選手役

脚注

  1. ^ ただし喜八は自分の2人の息子には「八」の字を付けていない。「幸福と八は関係ないだろうと思ったから」だという(松井浩著『打撃の神髄 榎本喜八伝』)。
  2. ^ 早実 新たな挑戦 (2)猛練習で歴史築く(2006/02/02)
  3. ^ 荒川はこの時の榎本について、「あいつは馬鹿正直で、登校する前に500本素振りをしろというと1本も欠かさず毎日振った。1000本といえば1000本振った。ふつう1000本といえば、そのくらい沢山の、という意味なのだが、榎本は1本たりともゆるがせにしなかった」と語っている(沢木耕太郎著『さらば 宝石』)。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 沢木耕太郎著 『敗れざる者たち』の「さらば 宝石」(1979年)
  5. ^ 1球も振らずに合格したと言う説もあるが、俗説である。テストでの打撃を見た別当は、高卒だった榎本の打撃フォームに直す箇所が見当たらなかったという。
  6. ^ 高卒新人野手の開幕スタメンは、同年に7番打者でスタメン出場した谷本稔と並び、中西太の7番打者スタメン出場以来2人目だった。
  7. ^ 榎本以降、高卒新人野手のオールスタースタメン出場は、1988年立浪和義がスタメン出場を果たすまで、33年間現れなかった。
  8. ^ 榎本は12月生まれのため、高卒新人の盗塁最多記録を持つ豊田泰光と同じく、1年目のシーズン期間中はずっと18歳であった。清原に更新された4つの部門は、現在でも清原に次いで高卒新人歴代2位である。また、16本塁打と長打率.473はそれぞれ清原・豊田に次いで高卒新人歴代3位、12盗塁は高卒新人歴代5位タイに位置しており、7併殺打は高卒新人の規定打席到達者8名中、豊田・張本勲・立浪和義に次いで4番目に少ない。
  9. ^ a b c d ツーシームみたいに『週刊ベースボール』2011年9月12日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-9/12, 73頁。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 松井浩著 『打撃の真髄 榎本喜八伝』(2005年、講談社
  11. ^ 【12月26日】1963年(昭38) 小山正明と山内一弘“世紀のトレード”異例の同席発表
  12. ^ 『プロ野球 「無頼派」 選手読本』(榎本の箇所より。ライターは松井浩)
  13. ^ 大沢の固めていたチーム構想には榎本は当てはまらず、同年の榎本はほとんど起用されていなかった(沢木耕太郎著『敗れざる者たち』)。
  14. ^ 実際に榎本の精神が錯乱していたかどうかは定かではなく、『打撃の真髄 榎本喜八伝』(2005年)では、「少年時代、大人の野球チームに入れてもらい、試合にも出場していた。榎本はその野球チームが好きだったが、それでも球拾いをさせられていると、突然怒りだして帰ってしまうことがあった。ただ、その次の練習には、何事もなかったかのように参加していた」という旨のエピソードが紹介されており、榎本は幼い頃から癇癪を起こす傾向があったという。
  15. ^ 球団の経営主体が変わったこともあり、実際は大沢が新監督になった時点で、オリオンズ生え抜きの榎本をチームから放出することは決定していたという(沢木耕太郎著『敗れざる者たち』)。
  16. ^ 青田昇が打撃コーチとして榎本を誘う」という噂を榎本が聞きつけ、打撃コーチとして恥ずかしくないように、体を鍛えるために走っていたのだという(松井浩著『打撃の真髄 榎本喜八伝』)。
  17. ^ 【5月16日】1977年(昭52) 解体工事中の東京スタジアムへ 榎本喜八、深夜の42キロ走
  18. ^ 榎本喜八さん死去、75歳=元毎日の強打者、「安打製造機」 - 時事通信 (2012年3月29日)
  19. ^ 先祖代々の田んぼがあった土地の価値が高騰し、そこにアパートを建て、家賃収入と駐車場経営で生活していた。
  20. ^ Number PLUS - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 」(1999年文藝春秋
  21. ^ 榎本と同じく荒川博を師に持った王貞治も典型的なプルヒッターである(本塁打868本中、右翼612本・右中間140本)。
  22. ^ a b c 「豪打列伝」(1986年、文春文庫ビジュアル版)
  23. ^ 週刊朝日内の「野村克也の目」
  24. ^ a b 「スポーツ伝説13 栄光のアウトロー」(2000年、ベースボール・マガジン社)
  25. ^ この後、「こと打撃に関しては、周囲からの好奇の視線や雑音には目もくれず、 わき目も振らずに打撃に没頭する姿に、これこそプロだ、と感銘した」と続けており、村田は榎本の野球に対する姿勢に大きな影響を受けたという。
  26. ^ 練習においては熱心に素振りをしていた。榎本と王貞治を育てた荒川博は、「王が努力の人と言われるけれど、それ以上にバットを振ったのが榎本ですよ。時間の許す限り、振ってんだから。あの王の倍は振ったね。」と語っている(『プロ野球 「無頼派」 選手読本』)。
  27. ^ 近藤唯之著 『プロ野球名人列伝』(1996年、PHP文庫)
  28. ^ ただし、近藤は1985年11月の夕刊フジの記事において、榎本について捏造・虚偽の文章を書いたことがあり、宇佐美徹也が『プロ野球 記録・奇録・きろく』(1987年、文春文庫、p.322)でそれを指摘している。その他にも「入団テストでバットを1度も振らず、榎本の構えを見ただけで別当監督が『合格』と叫んだ」という旨の近藤の話も、『打撃の神髄 榎本喜八伝』(2005年)での榎本本人が語ったインタビュー内容と異なっている。
  29. ^ a b c d 【12月8日】1971年(昭46) 奇行で?トレードされた“安打製造機”榎本喜八 やはり噂は…
  30. ^ 榎本は米田との対戦を含む数試合について、「天国で神様に頭を撫でられ続けた日々だった」と表現している(松井浩著『打撃の神髄 榎本喜八伝』)。
  31. ^ 野村克也著「プロ野球の男たち 野村克也の目」(1982年、朝日新聞社)。野村は「技術では張本勲の方がわずかに上のようにも感じられたが、榎本は選球眼が圧倒的だった」という旨のことも述べている。
  32. ^ a b c d e Number』468号「孤高」(1999年4月22日号。文・二宮清純
  33. ^ 2009年の千葉OBトークショーより。
  34. ^ 『Number』322号「新サムライ伝説」(1993年8月20日号。インタビュー・文は二宮清純)
  35. ^ 荒川は「大阪遠征のときだ。榎本がまだ19歳くらいのころだと思う。たまには気晴らしにでも、というので夜の街へ出た。『メトロ』とかいうキャバレーに入った。当然、女の子が横に座るのだが、榎本はしゃちほこばっている。その状態のままで、5分もしないうちに、いきなり直立不動して『荒川さん、こんな不潔なところにいられません。帰ります。』と言い出した」と振り返っている。
  36. ^ 榎本はこの前年のオフから「体の隅々を臍下丹田と結ぶ」というトレーニングを、既に実践していた。そのため、感覚が非常に鋭くなっており、自分のバットがチームメイト(柳田)の顎に食い込む様をはっきりと感じてしまったという(松井浩著『打撃の神髄 榎本喜八伝』)。
  37. ^ 二宮清純は引退後の榎本に取材を申込むため、何度も榎本宅に足を運んだが、毎回榎本の妻が出てきて、「(榎本は)修行中の身でございます」とインタビューを断られたという(『Number』468号)。

関連項目