ヤン・マサリク
ヤン・マサリク Jan Masaryk | |
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生年月日 | 1886年9月14日 |
出生地 | プラハ |
没年月日 | 1948年3月10日 |
死没地 | プラハ |
出身校 | ベイツ大学 |
前職 | 外交官 |
配偶者 | Frances Crane Leatherbee |
親族 | トマーシュ・マサリク |
内閣 | クレメント・ゴットヴァルト |
在任期間 | 1940年7月21日 - 1948年3月10日 |
ヤン・マサリク(Jan Garrigue Masaryk, 1886年9月14日 - 1948年3月10日)はチェコスロバキアの外交官で政治家。
生涯
ヤン・マサリクは、チェコスロバキアの初代大統領の父トマーシュ・マサリクと、アメリカ生まれの母シャーロットの間に、プラハで生まれた。マサリクはプラハと米国で教育を受けた。第一次大戦中、彼はオーストリア・ハンガリーの軍隊に服務した。1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。マサリクは1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで、駐米国の代理大使となった。1925年にマサリクは駐イギリス大使となった。
1938年9月29日のミュンヘン協定の結果、チェコスロバキア領のズデーテンラントはドイツ軍によって占領される事が決定した。マサリクはミュンヘンで協定書を受け取った2人のチェコスロバキア代表であったが、あまりの内容に涙を流したという。その後、イギリスに対する抗議のために大使を辞任したが、大使辞任後もロンドンに留まった。1939年3月にドイツはチェコの残りの地域、ボヘミアとモラヴィアを占領し、独立した独立スロバキアは保護国化した。これによりチェコスロバキアは事実上消滅。チェコスロバキアの亡命政権が1940年にロンドンで設立された。マサリクは亡命政権の外務大臣に就任した。第二次大戦中、マサリクはBBCを通じてドイツ占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。1942年にマサリクはベイツ大学から法学博士号を受け取った。
ナチス・ドイツの敗北によりチェコスロバキアは解放された。マサリクは連合政党である国民戦線政府の一員として、外務大臣に留任した。大戦後はソ連のチェコスロバキアに対する影響が強まる。ソ連との友好関係の維持が必要とされる一方で、1947年にはマーシャル・プランへのチェコスロバキアの参加をソ連に拒否され、マサリクは苦しい立場に立たされた。1948年2月に非共産主義者の閣僚の大部分は辞任し、クレメント・ゴットヴァルトの共産主義政権が成立した(二月事件)。マサリクはこの政権でも外務大臣に留任した。
1948年3月10日にマサリクは外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で遺体となって発見された。死因は転落死であった。初期の「調査」では、マサリクは窓から飛び降りて自殺したと発表した。1990年代以降の有力な説では、この自殺説は否定され、マサリクは共産主義者によって、窓から投げ落とされ殺害されたと考えられている。彼の死には不自然な点が多く、議論はまだ続いている。マサリクが殺害されたと考える人々は第三次プラハ窓外投擲事件と呼んでいる。