中谷仁
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1979年5月5日(45歳) |
身長 体重 |
183 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1997年 ドラフト1位 |
初出場 | 2002年8月11日 |
最終出場 | 2012年7月31日 |
年俸 | 1,000万円(2012年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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中谷 仁(なかたに じん、1979年5月5日 - )は、元プロ野球選手(捕手)。
愛称は「じん」「じゃが」。
来歴
プロ入り前
和歌山県和歌山市出身。小学校低学年のころ太ってきたために地元の少年野球チーム「有功少年野球クラブ」に連れて行かれたことから野球を始めた。同チームの2年上には後にチームメイトとなった前田忠節がいた。
和歌山市立有功中学校に入学。この頃はヤクルト全盛期で、野村克也監督、古田敦也の影響で捕手の面白さにはまっていった。
智弁和歌山高に入学後、正捕手として甲子園に3度出場する。1996年春の甲子園で準優勝、1997年夏の甲子園では主将としてチームを引っ張り、優勝に貢献した。97年の夏の甲子園では打率.563を記録。チームメイトには高塚信幸や喜多隆志がいた。高校通算21本塁打を記録。
1997年、ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けて入団。同期に井川慶、坪井智哉がいる。
阪神時代
1999年春、一軍主戦捕手の一人であった山田勝彦とは相性がよくなかった井川慶をウエスタン・リーグで連続完投勝利させる。将来の正捕手候補として期待されていたが、携帯電話[1][2][3]が左目を直撃して視力が大きく低下。失明寸前となって、選手生命の危機に陥る。しかし、その後地道な練習が実り、現在は実戦に支障が出ないまでに回復している
2002年、プロ入り5年目にして一軍昇格、正捕手矢野輝弘の骨折などもあり出場機会に恵まれ初安打・初打点を記録した。打撃成績こそ振るわなかったものの、リード面での評価は高く、また安定したフィールディングを見せた中谷に期待を寄せる向きもあった。
だが、2003年は、野口寿浩の加入によって控え捕手の層が厚くなり、再び二軍に定着、終盤に一軍登録されたものの出場機会がなかった。
2004年は、岡田監督体制で若手捕手は狩野恵輔を育てる方針に切り替わり一軍登録されることはなかった。
2005年も一軍登録されることはなく、オフに金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。
楽天時代
2006年は8試合に出場。ファームでは29試合に出場。秋にはフェニックスリーグに参加した。
2007年は怪我で出遅れ、更にルーキー嶋基宏の抜擢など一軍試合出場は無く、二軍でも内野も守るなど出場機会が減った。
2008年も引き続き怪我の治療に始まり復帰は7月にずれこむも、一軍候補の若手捕手が次々と脱落して行く中で秋口にようやく一軍登録され再評価を受ける。秋季キャンプでも教育リーグ行きを免除されベテラン格の扱いを受けた。
2009年6月21日、阪神戦に代打で出場し、能見篤史から12年目のプロ初本塁打となる2ランを放つ。この一打が一軍残留の決め手となり、守備機会を与えられ徐々に信頼を得ると、永井怜からパートナー指名を受けるなど出場機会を増やしていった。後半戦は、主戦捕手だった嶋に代わり中谷が起用されるようになった。野村監督が「学校の成績と野球頭脳は別」と説き、中谷の野球頭脳を高評価した。打撃は当初は振るわなかったが、8月頃からバッティングフォームをバスター打法に変えるなど試行錯誤を重ねて徐々に一軍投手のレベルに対応し始め、9月26日の西武戦(西武ドーム)で岸孝之から7番セギノール、8番リンデン、9番中谷の球団初となる3者連続本塁打を記録。このシーズンは自己最多の55試合に出場し、楽天初の2位決定、そしてクライマックスシリーズ進出に貢献。クライマックスシリーズでは4試合でスタメンマスクを被り、打率は.333だった。
2010年はシーズン序盤に肉離れを起こして離脱。ブラウン監督に代わり、若手捕手を起用する采配に変わったため怪我が治ってもなかなか一軍に復帰できず、わずか11試合の出場に留まった。
2011年は阪神時以来、再び星野監督の指揮下でプレーすることになったが、やはり打撃力の弱さを問われ、若手重点起用となり後半は一軍登録の機会はなかった。シーズン終了後は教育リーグに派遣されたが、2011年11月11日、戦力外通告を受け[4]、12月2日に自由契約公示された。楽天球団は球団スタッフとしての残留を打診したが中谷は現役続行を決断し11月24日に行われた合同トライアウトを受験。その日の帰路、守備力を見込んだ巨人からオファーを受け、12月6日、入団することが発表された。
巨人時代
2012年、巨人に移籍したものの正捕手は阿部慎之助、2番手捕手は實松一成とほぼ固定されていたため、中谷は4月末より8月月初まで一軍登録はされていたものの[5]、出場機会は5試合にとどまった。7月31日の対中日戦で、9回表から捕手の守備を1回こなしたのが、一軍最後の出場となった。しかしムードメーカーとしてベンチを盛り上げナインや番記者達からは親しまれた。[要出典]また、二軍では高卒ルーキー、今村信貴のノーヒットノーランをアシストするなど、若手育成面での評価を受けた。プロ15年目にしてはじめての優勝のビール掛け参加を経て、10月4日、現役引退を表明[6]。ナインとの別れの際、原監督は「中谷という野球人は非情に印象深い。彼がスコアブックに残らない面で残していったものを我々は受け継いでいかねばならない」と労った[6]。同日、任意引退公示された[7]。
人物
少年野球で捕手を始めたきっかけは、太っていたことから練習がしんどく、すぐにしゃがみたくなる習性があったため。
阪神同期入団の井川慶は「中谷くんと"21世紀の黄金バッテリー"になれるようにしたい」と述べている。2006年交流戦前に井川が「交流戦で対戦したい相手は?」の問いに中谷の名前を真っ先に挙げている。
楽天時代、仲の良い選手は阪神時代にもチームメートだったことがある山村宏樹だった。阪神の中では、兄貴として慕っている赤星憲広(現野球解説者)と、金澤健人(現福岡ソフトバンクホークス)。移籍が決まった時には、餞別として赤星から直筆メッセージ入りのグローブをもらった。
尊敬している人は「僕を一人で育ててくれた母」。また、失明寸前で走ることさえできなかったころ、「野球ができなくても、生きてたらええやん」と母から言葉をもらって救われたと、楽天移籍後のインタビューで答えている。[8]
2002年の終盤、阪神の一軍捕手はベテラン山田と、浅井・中谷の23才コンビだったが次第に山田メインになっていった。その頃、記者陣に「チョンボの目立つ山田よりも若手を抜擢して経験を積ませた方がいいのではないか?」と聞かれた当時の星野監督は「いや、投手陣に『捕手は誰が受けて欲しいか』と聞いたら皆、山田がいいと答えるんだよ」と答えていた。そうしたことも相まって、中谷は「投手陣に信頼されるような捕手でありたい」とコメントしている。その当時の山田、浅井、中谷の捕手トリオの合言葉は「藤川球児と藤田太陽(現埼玉西武ライオンズ)にプロ初勝利をあげさせてやろう」であった。
2006年4月5日に「野球仁~中谷仁ブログ」を開設。ブログではファンにプレゼントを企画したり、ファンが教えてくれた店(ホルモン屋)には全部行くと書くなどファンと交流をしていたが、2008年2月4日をもって更新を停止した。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2002 | 阪神 | 17 | 23 | 22 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | .045 | .045 | .045 | .091 |
2006 | 楽天 | 8 | 10 | 10 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .300 | .300 | .300 | .600 |
2008 | 4 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
2009 | 55 | 128 | 100 | 13 | 20 | 1 | 0 | 3 | 30 | 14 | 0 | 0 | 14 | 2 | 12 | 0 | 0 | 33 | 5 | .200 | .281 | .300 | .581 | |
2010 | 11 | 16 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .067 | .125 | .067 | .192 | |
2011 | 11 | 23 | 22 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | .091 | .091 | .227 | .318 | |
通算:6年 | 106 | 202 | 171 | 17 | 28 | 1 | 0 | 4 | 41 | 17 | 1 | 0 | 16 | 2 | 13 | 0 | 0 | 59 | 6 | .164 | .220 | .240 | .460 |
- 2011年度シーズン終了時
記録
- 初出場:2002年8月11日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に捕手として出場
- 初先発出場:2002年8月13日、対横浜ベイスターズ22回戦(横浜スタジアム)、8番・捕手として先発出場
- 初安打・初打点:2002年8月29日、対中日ドラゴンズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に小笠原孝から中前適時打
- 初盗塁:2006年7月30日、対西武ライオンズ11回戦(フルキャストスタジアム宮城)、2回裏に二盗(投手:西口文也、捕手:細川亨)
- 初本塁打:2009年6月21日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、5回表に藤原紘通の代打で出場、能見篤史から左越2ラン
背番号
- 22 (1998年 - 2001年)
- 66 (2002年 - 2005年)
- 44 (2006年 - 2011年、2012年)
- 58 (2012年シーズン前)[9]
登場曲
出演
- バース・デイ(2012年1月14日、TBS系)中谷の高校時代から阪神入団、目の怪我によるブランク、野村楽天でCS出場に貢献するも二年後に自由契約、そしてトライアウトを経て巨人入団するまでの経緯を辿ったドキュメンタリー[2]。
脚注
- ^ 投げた相手として、TBSの番組『バース・ディ』の公式HPでは「友人」、スポーツニッポンの記事では「ある同僚選手」とされている
- ^ a b 2012.01.14 オンエア 失明寸前の大けが…そして、戦力外通告 元楽天・中谷仁の挑戦(TBS『バース・ディ』).2012年1月27日閲覧。
- ^ 【10月27日】2005年(平17)8年で1安打の中谷仁トレードで開花 スポーツニッポン
- ^ 来季の選手契約に関して 楽天イーグルス公式サイト 2011年11月11日
- ^ “一軍登録情報”. 読売ジャイアンツ公式サイト. 2012年10月4日閲覧。
- ^ a b “中谷選手が任意引退 15年間の現役生活に別れ”. 読売ジャイアンツ公式サイト (2012年10月4日). 2012年10月4日閲覧。
- ^ “2012年度 任意引退選手”. 日本プロ野球機構 (2012年10月4日). 2012年10月4日閲覧。
- ^ 楽天イーグルス公式サイト Featured Players vol.18 中谷仁
- ^ 巨人入団契約時に一旦は背番号58に決定したが、年明け早々に背番号44に変更となった。
関連項目
外部リンク
- 野球仁~やきゅうじん 中谷仁ブログ(更新停止)