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ケニア

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ケニア共和国
Jamhuri ya Kenya(スワヒリ語)
Republic of Kenya (英語)
ケニアの国旗 ケニアの国章
国旗 国章
国の標語:Harambee
スワヒリ語: "共に働こう")
国歌:Ee Mungu Nguvu Yetu (Oh God of All Creation)(おお、万物の神よ
ケニアの位置
公用語 スワヒリ語(国語)、英語
首都 ナイロビ
最大の都市 ナイロビ
政府
大統領 ムワイ・キバキ
首相 ライラ・オディンガ
面積
総計 582,650km246位
水面積率 2.3%
人口
総計(2008年 39,802,000人(33位
人口密度 55人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 2兆1,134億[1]ケニア・シリング
GDP(MER
合計(2008年302億[1]ドル(83位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2008年604億[1]ドル(84位
1人あたり 1,713[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスから
1963年12月12日
通貨 ケニア・シリングKES
時間帯 UTC(+3) (DST:なし)
ISO 3166-1 KE / KEN
ccTLD .ke
国際電話番号 254

ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリア国境を接し、南東はインド洋に面する。首都はナイロビ

首都ナイロビには国際連合環境計画国際連合人間居住計画の本部がある。旧イギリス植民地。

国名

正式名称はJamhuri ya Kenyaスワヒリ語、ジャムフリ・ヤ・ケニャ [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ])、Republic of Kenya(英語)。日本語での表記はケニア共和国。通称ケニア。「ケニヤ」とも表記する。スワヒリ語での発音は[ˈkɛɲɑ]で、「ケニャ」に近い。国名はケニア山に由来する。

歴史

紀元前2000年ごろに北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動が行われた。 7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサマリンディなど交易の拠点を建設した。 西暦1000年ぐらいまでに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した。ケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え、1418年頃に鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。

15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易象牙貿易などが活発になる。1828年にはオマーン帝国のスルタン・サイイド・サイードがモンバサを攻略したが、19世紀にアフリカの植民地化が進むとスルタンはザンジバルに根拠地を移し、ケニア沿岸にはイギリスドイツ帝国が進出。権力争いの末、イギリス勢が優勢となりイギリス領東アフリカが誕生し、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) により統治されるようになった。1895年までには内陸部にまでイギリスの影響が及ぶようになった。

1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1903年に鉄道はウガンダまで延びる。 1902年、現在のケニア全域がイギリスの保護領となり、1920年には直轄のケニア植民地となる。第二次世界大戦後、1944年にキクユ青年協会が設立(政治運動の始まリ)、1946年にケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立し、ケニア・アフリカ民族同盟つまりKANUの前身となる。 1952-56年ケニア土地自由軍が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった(KANUのリーダーのケニヤッタ投獄)。マウマウ団の乱は敗北したものの、反乱を契機に独立の機運が高まった。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党KANU とKADUとの意見の対立があったが、ケニヤッタやトム・ムボヤが率いるKANUが主導となる。1963年英連邦王国として独立。翌1964年共和制へ移行、ケニア共和国が成立した。

初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタアフリカ社会主義を掲げたものの、一貫して西側寄りの政策を採り、国内的にはケニア・アフリカ民族同盟KANUの一党制が敷かれたが、後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガ(ライラ・オディンガの父)がKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。

政治

大統領制をとる。議会は一院制(224議席、任期5年)。 初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟 (Kenya African National Union, KANU) が長く政権の座にあった(91年から複数政党制が導入された)。

ケニヤッタ初代大統領

2002年の総選挙の結果、それまでのKANU政権(モイがケニヤッタの息子を後継とした)の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織(NARK:国民虹の連合)が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。 しかし、キバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守的な色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(後にODMに発展)に分裂する。改革派の中心は、ライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月に議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代をよぎなくされた。

そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎打ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。 1月に行われた国連のアナンによる調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する (2007年-2008年のケニア危機)。 

連合政権は、その後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日に国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化等、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年))。

地方行政区分

ケニアの州。

行政区分として、8つの州 (Mikoa, Province) が置かれている。その下には県が設置されているが、2007年に大きな変更が加えられている。なお、2010年制定の憲法によって、州の行政区分は廃止となり、47のCounty(日本のイメージでは県)が地方行政の基本となることが決定された。この決定事項が制度実施(2012年)されれば、州の行政区分はCountyに再編成される。

  1. 中央州
  2. 海岸州
  3. 東部州
  4. ナイロビ州
  5. 北東州
  6. ニャンザ州
  7. リフトバレー州
  8. 西部州

地理

ケニアの地図。ルドルフ湖は現在トゥルカナ湖と呼ばれる。

ケニアの首都、ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはパピルスが茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、インド洋ヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26℃の熱帯性気候である。しかし、国土の大部分は、標高1100m - 1800mの高原となっているため年間平均気温が19℃の乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5199m)。

国立公園・国立保護区

ケニア山

経済

主要産業は農業で、GDPの3分の1近くを占めている。工業化は他のアフリカ諸国と比べると比較的進んでおり、特に製造業の発展が著しい。紅茶、花卉の輸出増が近年著しい。

独立以来資本主義体制を堅持し、東アフリカではもっとも経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009-2010年は4-5%の成長に戻った。

ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニア・ウガンダと共に地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(後にルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年まで自由化と共通通貨を達成すべく目標としている。

鉱業

ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。経済産業調査会の鉱業便覧によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16kg、蛍石10万トン、採掘後、工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のグリーンストーン帯に分布する。金の採掘は機械化されておらず手工業の段階に留まっている。

国民

伝統衣装をまとったマサイ族

民族

住民は、キクユ族が22%、ルヒヤ族(ルイヤ族)が14%、ルオ族が13%、カレンジン族が12%、などとなっている。ほかにマサイ族サンブル族トゥルカナ族ソマリ族など。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった[2]

人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系」(印僑)も、政治経済に大きな影響力を保っている。

言語

言語は、スワヒリ語英語公用語である。100万人以上の話者が存在する言語は、スワヒリ語、英語のほか、バントゥー語系のキクユ語(話者数600万人)、ルヒア語(400万人)、カンバ語(300万人)、キシイ語(100万人)、メル語(100万人)、ナイル語系ルオ語(350万人)、カレンジン語(300万人)である。このほか、マサイ語キプシギ語など42の言語が用いられている。ケニアのアジア人はパンジャーブ語などを用いる。

スワヒリ語は1974年に公用語化され、それ以来国語としての扱いを受けている。しかし、司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある[3]

宗教

宗教は、プロテスタントが38%、ローマ・カトリックが28%、イスラム教が6%、伝統宗教が22%、その他が6%である。

教育

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は85.1%(男性:90.6%、女性:79.7%)である[4]

主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956,1970)の名が挙げられる。

文化

文学

グギ・ワ・ジオンゴ。英語ではなく、民族語であるギクユ語のみで創作することを宣言している。

小説においては英語で書いた『夜が明けるまで』(1964)でケニア独立戦争を描いた後、ギクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981)のトマス・アカレケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。

世界遺産

ケニア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在する。詳細は、ケニアの世界遺産を参照。

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 New Year's Day
3月or4月 聖金曜日 Good Friday 変動祝日
3月or4月 イースター・マンデー Easter Monday 変動祝日
5月1日 メーデー Labour Day
6月1日 マダラカデー Madaraka Day 独立前の自治獲得記念(1963年)
10月10日 モイデー Moi Day (2010年廃止)
10月20日 マシュジャアデー Mashujaa Day もともとのケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと趣旨を変更
12月12日 独立記念日 Jamuhuri Day 1963年12月12日
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシングデー Boxing Day

スポーツ

陸上競技サッカークリケットラグビーラリーバレーボールボクシングなどが人気のあるスポーツである。とりわけ陸上競技の長距離走の人気が高く、また隣国エチオピアと並んで世界の強豪として有名である。北京オリンピック男子マラソン金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、世界大会における優勝者を輩出した。

著名な出身者

バラク・オバマ

ケニア人のバラク・オバマ・シニアアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。

オバマはケニアでは育たず、過去に数回訪問した。両親は故人であるが祖母サラ・オバマは生存しており、彼女の元に世界中の10以上のメディアが押し寄せたそうである。ムワイ・キバキ大統領は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。さらに、祝意を表するため6日を国民の祝日にすると宣言した[5]。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカの独自の姓が現れたのである。ちなみにオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人である。

参考文献

脚註

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 松田素二「民族対立の社会理論」『現代アフリカの紛争を理解するために』アジア経済研究所 1998年
  3. ^ 宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12
  4. ^ CIA World Factbook2009年11月21日閲覧。
  5. ^ [2]

関連項目

外部リンク

政府
日本政府
観光
その他