コストシン・ナド・オドロン
コストシン・ナド・オドロン Kostrzyn nad Odrą | |||
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北緯52度35分18秒 東経14度40分0秒 / 北緯52.58833度 東経14.66667度 | |||
Country |
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Voivodeship | Lubusz | ||
County | Gorzów | ||
Gmina | Kostrzyn nad Odrą (urban gmina) | ||
Established | 13th century | ||
Town rights | 1300 | ||
政府 | |||
• Mayor | Andrzej Kunt | ||
面積 | |||
• 合計 | 46.17 km2 | ||
人口 (2007) | |||
• 合計 | 19,952人 | ||
• 密度 | 430人/km2 | ||
等時帯 | UTC+1 (CET) | ||
• 夏時間 | UTC+2 (CEST) | ||
Postal code |
66-470 | ||
市外局番 | +48 95 | ||
Car plates | FGW | ||
ウェブサイト | 公式ウェブサイト |
コストシン・ナド・オドロン(ポーランド語: Kostrzyn nad Odrą)は、ポーランド西部のルブシュ県ゴジュフ郡でオーデル川とヴァルタ川の合流点にある、ドイツとの国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。
第二次世界大戦終結までは、以前のプロイセン王国ブランデンブルク州 (プロイセン)にあったドイツの町で、キュストリン(ドイツ語: KüstrinまたはCüstrin)と呼ばれていた。 ベルリンから約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。 独ソ戦末期の1945年に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。 戦後、連合国 (第二次世界大戦)はポツダム協定に基づきオーデル・ナイセ線に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならび東ブランデンブルク地方は、ドイツ民主共和国とポーランド人民共和国の間で分割された。
歴史
おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公はこの地に城を築いて領地として治めていた。 ポーランド公ミェシュコ1世はツェディニャへの遠征(ツェディニャの戦い )の際に、戦略的重要な拠点としてこの地を活用した。 子のボレスワフ1世 (ポーランド王)も、この地でバウツェンを征服する戦争の準備をした。 12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。
1223年にヴワディスワフ・オドニツ王子からドイツテンプル騎士団へこの地は与えられたが、1261年にブランデンブルク辺境伯に奪われてしまった。 ちなみに1232年のドイツ騎士団へのポーランド語の手紙に、古いスラヴ語で Cozsterine と明記されており、これが キュストリン/コストシン という地名が記録に残されている最古のものである。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Kostrzyn_Merian_1652.jpg/200px-Kostrzyn_Merian_1652.jpg)
ブランデンブルクのアルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)によって、キュストリンへ1300年には既にマクデブルク法が適用されており、河川を使った貿易が大規模に行われるようになって町は急速に発展した。
ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)は城を築いて居城にし、1535年から死去する1571年まで東ブランデンブルク地方の都となっていた。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Kattes_Hinrichtung_1730.jpg/150px-Kattes_Hinrichtung_1730.jpg)
後にプロイセン王国のフリードリヒ2世(フリードリッヒ大王)として即位することになるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近であるハンス・ヘルマン・フォン・カッテと、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、彼の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)によって1730年9月にこの城塞内の塔に監禁されている。
同年11月6日、王子が閉じ込められていた塔の傍でカッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。
王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。
ナポレオン戦争で1806年フランスに占領され、フランス軍の支配下に置かれた。 フランス軍がロシア遠征している1814年に大火に見舞われたが、その後に復興しプロイセン王国ならびドイツ帝国の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。 鉄道は1857年ベルリンとフランクフルト・アン・デア・オーダーに接続し、1875年にはポメラニアの沿岸都市シュチェチンにつながった。 1900年住民数は、駐屯兵含め16,473名に達した。
第二次世界大戦勃発時、住民数は24,000名だった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の1つであるドジェビツェ)には、主にフランス人、イタリア人とソビエト連邦の捕虜が収容された、ナチスの捕虜収容所Stalag III-Cがあった。
1943年から1945年には、いくつかの強制労働収容所とザクセンハウゼン強制収容所の施設の一部が置かれていた。
鉄道網が集積し32の工場があったことから、連合国 (第二次世界大戦)から空爆された。
またオーデル・ナイセの戦いとゼーロウ高地の戦いにおいてドイツ軍がオーデル川東岸部の橋頭保にしたことで、1945年3月11日赤軍に制圧された時には建物の約95%と32工場全ては破壊されていて完全に瓦礫の山と化していた。
荒廃したキュストリンはポツダム会談の決定によりオーデル川で分断されて、町の大部分であるオーデル川より東側の地区は戦後、ポーランドの統治下におかれてポーランド語名のコストシンと呼ばれるようになった。 コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられて(ドイツ人追放)、代わりにソビエト連邦領から追い出されたポーランド人(1944-1946)が移り住んだ。 若き日のフリードリッヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこのレンガはポーランドのどこか他の街などの建設に再利用された。 近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/2011-08_Woodstock_59.jpg/150px-2011-08_Woodstock_59.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/70/Siegelmarke_Magistrat_zu_C%C3%BCstrin.jpg/220px-Siegelmarke_Magistrat_zu_C%C3%BCstrin.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bd/Kostrzyn_nad_Odr%C4%85_8.jpg/200px-Kostrzyn_nad_Odr%C4%85_8.jpg)
2004年からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルであるプレジィスタネク・ウッドストックが、夏季に開催されている。
なお旧キュストリンの一部だったオーデル川より西側の地区はドイツ領に残り、郊外の村落だったキュストリンキーツを合併して現在キュストリーナー・フォルラントと呼ばれ、2005年の住民数は2,953名である。
年代別の住民数
- 1900年: 駐屯兵含めて16,473名、その内ローマカトリック教徒 1,095名、ユダヤ人 143名。
- 1925年: 約19,500名、その内ローマカトリック教徒 おおよそ1,800名、ユダヤ人 120名。
- 1939年: 約24,000名。
- 1971年: 約11,000名。
有名な出身者
- カスパー・フォン・バース (1587年-1658年) ブランデンブルク=プロイセンの言語学者
- フィリップ・フォン・ストッシュ (1691年-1757年) プロイセン王国の古物商
- アルフレート・フォン・ティルピッツ (1849年-1930年) ドイツ帝国の海軍元帥
- フェードア・フォン・ボック (1880年-1945年) ドイツ陸軍 (国防軍)の元帥 (ドイツ)
- ゲルハルト・マッキィ (1894年–1983年) ドイツ陸軍 (ドイツ連邦軍)の大将
ポーランド代表サッカー選手
- ダリウシュ・ドゥドゥカ (1983年生まれ) ディフェンダー (サッカー)、主な在籍クラブチーム:AJオセール
- グレゼゴルツ・ボジュコビァク (1984年生まれ) ディフェンダー (サッカー)、主な在籍クラブチーム:レフ・ポズナン
- ウカシュ・ファビアンスキ (1985年生まれ) ゴールキーパー (サッカー) 、主な在籍クラブチーム:アーセナルFC