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大坂の陣

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大坂の役(おおさかのえき)(1614年慶長19年) - 1615年慶長20年))は江戸幕府豊臣家を滅ぼした戦いである大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおさかなつのじん)(6月4日旧暦5月8日)終局)をまとめた呼称。大坂の陣(おおさかのじん)とも言う。

端緒

豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老徳川家康が影響力を行使し、1600年(慶長5)に五奉行石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いにおいて家康は東軍を指揮して三成らを撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。1603年3月24日(慶長8年2月12日)に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は長期的に安定的な政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たる豊臣家の処遇が問題となり、徳川家を頂点とする幕府のヒエラルキー社会では豊臣家は別格的存在となり、家康は徳川幕府の今後の安泰を図るため、豊臣家の処分を考え始めたという。

徳川家はまず2代将軍となる徳川秀忠の娘である千姫を秀吉の子の豊臣秀頼と結婚させた上で、秀頼の官位を右大臣とした。そして秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求める。淀殿は会見を拒否するが、1612年(慶長16)に家康と秀頼の会見は二条城において実現する。このとき、家康は秀頼の成長振りに驚き、脅威を感じて、秀頼との会見後に家康は更に寺社の造営などを奨めるなど、豊臣家資産の浪費を狙うような心理的圧迫を行ったという。

大坂冬の陣

1614年(慶長19年)に、家康は豊臣家が再建した京都方広寺の鐘銘文を五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に解読させた。文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定し、鐘銘文の選者である清韓の処分や、豊臣家に対して謝罪と領地召し上げ、大和国(奈良県)への転封等を要求した。豊臣方は片桐且元大野治長の母の大蔵卿局を派遣して弁明を行い、家康は且元に対しては拒絶するが、大蔵卿局と面会を許す。且元から返答を聞いた豊臣家では大坂城は秀吉公以来の居城であり、この要求を徳川家康の実質的の宣戦布告と受け取る。(この要求に関して且元が豊臣家はもう徳川家には勝てないということで勝手に考えたという説もある。)且元や弟の片桐貞隆織田長益(有楽斎)など和平派を追放、決戦の準備に着手した。これに対して家康も諸大名に豊臣追討を宣言した。

豊臣家では戦争準備に着手し、秀吉の遺産である金銀を用いて関ヶ原以後に増大した浪人衆を全国から結集させて召抱える。また豊臣恩顧の諸大名に大坂城に終結するように檄文を送り、更に篭城のための蓄えを行う。集まった浪人は約5万人で、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親後藤基次毛利勝永明石全登塙直之などが集まった。

豊臣軍は豊臣家宿老の大野治長を中心とする篭城派と、浪人衆の真田信繁(幸村)らは近江国(滋賀県)の瀬田川での野戦を主張して対立したが、結局は堅固な大坂城に籠城する作戦を立てた。家康は茶臼山に着陣し、徳川軍は約20万の軍で大坂城を包囲した。戦闘は木津川口の砦においてはじまり、鴫野・福島、博労淵、真田丸などにおいて行われ、豊臣軍は真田幸村や木村重成らの活躍で抗戦する。

長期戦に用意していた兵糧の欠乏や真冬の中の陣であった徳川軍は豊臣軍との和平交渉を進め、豊臣方も大筒(大砲)による砲撃で天守閣に砲撃を受けると豊臣家主導的立場にあった淀殿は和議に応じたという。交渉は徳川方の京極忠高の陣において家康側近の本多正純阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の姉妹の常高院との間で行われ、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊する事、外堀を埋める事や、大野治長や織田有楽の処分などを条件で和平が成立した。

和議の条件が「総掘」の埋め立てであり、これは「外堀」のみを指すとする豊臣側と、全ての堀を意味すると言う徳川側との間で解釈の齟齬があったと考えられる。 この解釈の折り合いが済まない間に、徳川側は独断で外堀以外にも内堀をも埋め、城壁まで破壊する壊平工事を行う。

冬の陣での大名配置

大坂夏の陣

和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見へ引いたが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど戦争準備を行っている。3月、大坂に不穏な動きがあるとする報が駿府へ届くと、徳川方は浪人、豊臣家の移封を要求する。家康は4月に徳川義直の婚儀のためとして上洛し、諸大名に出陣準備を命じて鳥羽伏見に集め、江戸から西上した将軍徳川秀忠と二条城において軍議を行う。

豊臣方では、9月には交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。豊臣家は丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的にうって出る作戦を立てている。

大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日には筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であったを焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙団右衛門淡輪重政らが単独で浅野勢と樫井の戦いを行い討死した。

次いで後藤基次明石全登薄田兼相山川賢信北川宣勝ら6400の兵と真田幸村毛利勝永福島正守渡辺糺大谷吉治伊木遠雄ら12000の兵などにより大和路から大坂城に向かう徳川軍を迎撃する道明寺合戦が起こる。道明寺合戦で後藤、薄田兼相らが討死したものの、真田軍が伊達政宗軍の進軍を押し止めた。

兵6000の木村重成長宗我部盛親増田盛次ら5300の兵による京都から大坂城に向かう徳川本軍を迎撃する八尾合戦では、長宗我部が藤堂高虎軍を突き崩し、多数の首を獲った。ただ、木村重成は激戦の末、討死した。

そして大野治長などによって和歌山から大坂城に向かう徳川軍を迎え撃つ堺攻防戦が繰り広げられた。


豊臣方も意地を見せるが、大勢ではいよいよ大坂城近郊に追い詰められた。
最後の決戦のため豊臣軍は大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を構築した。天王寺口は茶臼山が真田幸村、子の真田幸昌、一族の真田信倍が布陣。茶臼山前方は幸村寄騎の渡辺糺大谷吉治伊木遠雄が布陣。茶臼山西は福島正守福島正鎮石川康勝篠原忠照浅井長房らが布陣。茶臼山東は江原高次槇島重利長岡興秋が布陣。

天王寺南門前には毛利勝永、天王寺北東の後方に大野治長の部隊が布陣をする一方で、岡山口は大野治房を主将に寄騎は新宮行朝岡部則綱らが、また後詰に御宿政友山川賢信北川宣勝らが布陣して圧倒的な徳川軍の怒涛のような攻撃に豊臣軍は必死の抵抗を繰り広げた。

中でも毛利勝永や真田幸村の奮戦は凄まじい。
天王寺の戦いにおいて毛利勝永は徳川軍先鋒大将の本多忠朝隊を壊滅させ、忠朝を討ち取った。また本多隊の救援に駆けつけた小笠原秀政忠脩隊(忠脩は松本城守備の命に背いての無断参戦だったが、家康から特に黙認されていた)を撃退、二人を討ち取った。榊原康勝仙石忠政諏訪忠澄の3隊をも一気に蹴散らし、徳川家康本陣まで迫った。

また真田幸村は誉田の戦い伊達政宗隊を撃退した後、天王寺口の先鋒対象である松平忠直隊を壊滅させると僅かな手勢を率いて徳川軍を強行突破を図り、3度に渡り徳川本陣へ切り込んだ。この攻勢には家康自身も死期を悟ったとされる。

しかし徳川軍の火力に押され、豊臣勢は徐々に壊滅、僅かながらに奮闘した真田幸村、毛利勝永の戦死の報で豊臣軍が総崩れになり、豊臣秀頼自身の出馬も叶わず、大坂城内部で内通者による火の手が上がり5月8日に大坂城は陥落した。千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で自害した。小説やドラマの中には、「家康がわざわざ大坂城に出向いて、秀頼母子が出てくるのを待っていた」云々と、さも家康が秀頼・淀殿を助けようとしていたと言わんばかりの描写があるが、これは後世の脚色と考えられている。


徳川家康は当初大阪冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていたが、豊臣恩顧の大名に敢えて大阪を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされる。(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論は立ち上がることはなかった。むしろ徳川家家臣において敵将に対する騎士道的賞賛が盛んに行われた)従って、丸裸の城を攻めるにしては大掛かりな軍容になり、このことが結局徳川側の油断を招いたと考えられる。

現在の大坂城(大阪城)では天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城後徳川幕府が縄張りを改めているためこれは正しくない。自害の地とされる籾蔵は、南西部にあった。松平忠直ら越前勢が一番乗りを果たした。

真田幸村(信繁)の活躍

大坂夏の陣での真田幸村(信繁が正しいが幸村の名で知られる)の活躍は江戸時代でも歌舞伎などで演じられたり、錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。島津家の薩藩旧記では「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」と記され、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。

また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は一応の応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振りかえっている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」も残っている。

信繁隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の錦絵や再現イラストでは様々な想像図が描かれている。なお、家康の危急に対する諸将の救援とその直前の猛烈な前進によって、秀忠の陣も一時丸裸となっている。

著名な「真田十勇士」は、「真田三代記」や「難波戦記」を底本として、大正時代に一斉を風靡した立川文庫の中の一冊・「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎・根津甚八・望月六郎の姓のルーツは真田一族配下の滋野一党の姓と同一であり(根津に関しては、浅井長政の忘れ形見?である浅井井頼がモデルという説もある)、また三好兄弟はそれぞれ三好政康三好政勝がモデルと言われている(政勝は家康側として参陣していたが)。

もっとも、真田信繁を激賞している島津家は家内改革に手間取りすぎ、冬、夏ともに参戦できなかったため、信繁の活躍を現に見たわけでなく、風聞を記したに過ぎず、世に言う真田信繁の活躍の真相を疑問視する声もある。また、この島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こした。

信繁自刃についても諸説があり、一般的には「安居神社で討たれた」と言われているが、これは明治時代に旧帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安居神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に関しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。

また、幸村を討った西尾宗次は鉄砲足軽とされるが、本によっては鉄砲足軽なのに「槍で討ち取った」と矛盾した記述もある。家康は、宗次の「幸村を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われているが、宗次は後に、地元の孝顕寺(福井市)に「真田地蔵」を建立して信繁の菩提を弔っている。

鹿児島には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼・重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という伝承がある。また、家康側にも「家康は信繁勢に傷つけられ、のさる寺(南宗寺)に逃げ込みそこで亡くなった」という伝承もある。

戦後処理

秀頼の子の国松も潜伏している所を捕らえられて処刑され、また豊臣家縁故の者は皆殺しにされた。また徳川家光の代には秀吉の墓まで幕府によって暴かれ、長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に渡って行われた。この戦いを最後に戦国時代は名実ともに終わりを迎える。このため、この戦いを「元和堰武」と呼ばれる事がある。