マイソール戦争
マイソール戦争 | |
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戦争:マイソール戦争 | |
年月日:1767年 - 1769年、1780年 - 1784年、1790年 - 1792年、1799年 | |
場所:南インド | |
結果:イギリスの勝利 | |
交戦勢力 | |
マイソール王国 | イギリス |
指導者・指揮官 | |
ハイダル・アリー ティプー・スルタン † |
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マイソール戦争(Anglo-Mysore War)は、18世紀後半、4度に渡って南インドのマイソール王国とイギリス植民地軍との間で行われた戦争である。
背景
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/%22Hyder_Ali%2C%22_a_steel_engraving_from_the_1790%27s_%28with_modern_hand_coloring%29.jpg/200px-%22Hyder_Ali%2C%22_a_steel_engraving_from_the_1790%27s_%28with_modern_hand_coloring%29.jpg)
マイソール王国のある南インドは古来から季節風貿易での莫大な利益により潤っており、土地も豊かであった。マイソール王国は1760年以降ヒンドゥーのウォディヤール家の王が廃され、ムスリム軍人のハイダル・アリーが王となっていた。
そのころ、イギリス東インド会社は、ベンガル太守をプラッシーの戦いで破り、1764年10月にはムガル帝国、アワド太守、ベンガル太守をブクサールの戦いで破ったのち、1765年にはベンガル・ビハール・オリッサのディーワーニー(行政徴税権, Diwani Rights)を得ることに成功し、植民地の拡張を目指して次にこの地を支配するべく機会を狙っていた。
ハイダル・アリーは以前より、カルナータカ太守のムハンマド・アリー・ハーンがイギリスと同盟して、マドラスを使用させていることに不満で、そのうえ、デカンのマラーター同盟やニザーム王国などがイギリスと協力関係を結び、マイソール王国の近隣を取り巻いていることも不満だった。
こうした情勢により、南インドでは不穏な空気が漂い、一発触発の状態だった。
第1次マイソール戦争
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6d/Anglo-Mysore_War_1_and_2.png/200px-Anglo-Mysore_War_1_and_2.png)
第1次マイソール戦争は、1767年1月マラーター同盟がマイソール王国の領土に侵入し、マイソール王国も交戦したことによって勃発した。
この内紛をイギリスは逃さず、マラーター同盟、ニザーム王国と共同戦線を敷き、マイソール軍と戦った。
だが、戦端が開かれると、事態はイギリスの思うようには進まず、想像以上のマイソール側の抵抗に同盟軍は各個撃退されていった。
さらに、1769年にイギリスの南インドの拠点であるマドラスを落とされると、焦ったイギリスは態勢を立て直すために、3月29日にマドラス条約を結んで講和した。
第2次マイソール戦争
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Tipu_Sultan_BL.jpg/220px-Tipu_Sultan_BL.jpg)
第2次マイソール戦争は、1779年イギリスがフランスからケーララの都市マーヒを奪い、軍事的にも重要だったこの地が奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増したことが原因だった。
ハイダル・アリーはこの脅威に対して、フランス、ネーデルラント連邦共和国、マラーター同盟、ニザーム王国と同盟し、1780年7月2日イギリスに対して宣戦布告し、第2次マイソール戦争が勃発した。
今回の戦いには同盟国が参加しなかったため、戦いはマイソール軍とイギリス軍のみの戦いであった。
同月ハイダル・アリーはカルナータカ地方政権の領土に80000~100000の大軍を送り、同年11月3日その首都アルコットを占領し、マドラス近くまで攻めたが、攻め落とすことはできなかった。
また、この間、マイソール王国はタンジャーヴール・マラーター王国の領土にも兵を送り、そのためタンジャーヴール・マラーター王国は壊滅的な打撃を受け、19世紀まで復興できなかったという。
第2次マイソール戦争中、1782年12月6日ハイダル・アリーが病死したが、その息子ティプー・スルタン(在位1782 - 1799)が新たな王となった。子のティプー・スルタンは聡明な人物で、きわめて大局的に物事を掌握し軍事にも秀でており、戦闘を有利に進め、「マイソールの虎」と呼ばれた。
戦費の増大を懸念したイギリスは、1784年3月11日にイギリス側の完全撤兵を内容とする事実上敗北に等しいマンガロール条約を結んで、戦争を終わらせた。
第3次マイソール戦争
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/70/Tipu_Sultan_warrior_king.gif/200px-Tipu_Sultan_warrior_king.gif)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Anglo-Mysore_War_3.png/200px-Anglo-Mysore_War_3.png)
イギリスが撤退している間にティプーは軍隊の近代化、内政の改善、諸外国との同盟に務めるほか、併合したカルナータカ経営を進め、国力の充実を図った。
さらに行政機構の中央集権化や産業経済の「近代」化を断行し、オスマン帝国のアブデュル・ハミト1世、アフガニスタンのドゥッラーニー朝に使節を送り、対英攻守同盟の締結や貿易の活性化などを要請し、インド植民地化をねらうイギリスからはますます敵視された。
ティプーの努力でマイソールの実力は向上してきていたが、イギリスもインド経営に本腰をいれており、その力はさらに増していた。
また、マイソール王国も1785年以降デカンのマラーター同盟やニザーム王国と再び争うようになり(前戦争ではこれらは中立を保っていた)、イギリスも南インドの植民地計画を進めるようになり、マイソール王国の領土分割をねらう勢力はイギリスに加担した。
1790年初頭イギリスは、1789年12月にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、第3次マイソール戦争が勃発し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。一方、フランスは前年のフランス革命により兵を出せず、オスマン帝国はロシアとの戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。
さらに、1792年2月5日から3月18日にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。
そして、同月19日ティプー・スルタンは敗北を認め、首都シュリーランガパッタナ(英: Seringapatam)でシュリーランガパッタナ条約(英: Treaty of Seringapatam)を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイソール王国の約半分の領土と多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出さなければならなった。
第4次マイソール戦争
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Tipu_death.jpg/220px-Tipu_death.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Anglo-Mysore_War_4.png/200px-Anglo-Mysore_War_4.png)
ティプーは最後の賭としてフランスのナポレオン・ボナパルトとの同盟を考え動いたが、これは結局イギリスから条約違反と見なされ、戦争開始の口実とされてしまい、1799年3月8日最後の第4次マイソール戦争が始まった。
マイソール王国は交戦したものの、イギリス軍に敗北し続け、同年4月5日イギリスとニザーム王国の軍50000により首都シュリーランガパッタナを包囲された(シュリーランガパッタナ攻囲戦)。
ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍30000は1ヵ月にわたり交戦したものの、5月4日の総攻撃でティプー・スルタンは戦死し、シュリーランガパッタナは陥落、占領された。
ティプー・スルタンとシュリーランガパッタナ攻囲戦で運命を共にしたものは軍人だけで6000人に及び、ティプー・スルタンとその主な武将の墓がュリーランガパッタナの宮殿にのち作られた。
1799年6月イギリスは戦後処理として、ヒンドゥー王家のウォディヤール家を復活させ、幼王クリシュナ・ラージャ3世(位1799 - 1868)を即位させ、マイソール王国を藩王国化した。
影響・評価
ティプー・スルタンは大同団結を唱えて周囲の国々と巧みに連携し、近代化を推し進めていたマイソール王国は、インドにおけるイギリス最大の敵であったといっても過言ではない。
この戦争が終わると、イギリスはインドのさらなる植民地支配に乗り出すことになるが、インドの人々にも少なからずこのような思想は受け継がれ、やがての独立運動の原動力の一部となったことは間違いない。
エピソード
一連の戦役で、マイソール軍はロケット兵器(巨大なロケット花火の様な形状だった)を大量に使用した事で有名になった。
このロケットは、大型の物はロケットランチャー様の発射台から、小型の物は“ロケット・マン”と呼ばれる兵士の手で放たれ、最大1kmにも及ぶ飛距離を超えて敵陣に打ち込む事が出来、着地すると巨大な安定棒が回転しながら周囲の兵士を撲殺したり、炸薬を詰めて榴弾の代替とする兵器だったが、不正確で射程の短かった当時の大砲に比べて遜色の無い威力を有しつつ、軽便に取り扱えた。
ロケットによって大きな損害を受けたイギリスは、マイソール製ロケットを改良したコングリーヴ・ロケットを開発し、その後のナポレオン戦争などで多用した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Ft._Henry_bombardement_1814.jpg/251px-Ft._Henry_bombardement_1814.jpg)
米英戦争においても、イギリス軍は多数のロケットを使用したが、この時の空を紅に染めて飛ぶロケットの姿が、米国国歌の歌詞中に“"And the rockets’ red glare, the bombs bursting in air".”として刻まれている。
また、日本における最後の内戦となった西南戦争に際して、日本でもコングリーヴ・ロケットを輸入し、国産化を試行していた記録が、防衛省防衛研究所所蔵の陸軍省・海軍省の文書として残されている。