コンテンツにスキップ

玉虫左太夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。柴崎力栄 (会話 | 投稿記録) による 2013年2月10日 (日) 03:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:幕末維新北海道史の人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

玉蟲 左太夫(たまむし さだゆう、文政6年(1823年) - 明治2年4月9日1869年5月20日))は、江戸時代後期(幕末)から明治時代幕末仙台藩の藩士。幼名は勇八、諱は誼茂は子発。

経歴

1823年(文政6年)に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として生まれる。1846年弘化3年)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。

1857年安政4年)には箱館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。

1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取となった。1869年(明治2年)敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。

外部リンク

主著

  • 「蝦夷紀行」
  • 「航米日録」 - 子孫が現代語訳した『仙台藩士幕末世界一周』が荒蝦夷から出版されている。