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愛奴

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愛奴
AIDO
出身地 日本の旗 日本,広島県
ジャンル ロック
活動期間 1972年 - 1976年
1985年
レーベル CBSソニー
共同作業者 吉田拓郎
かまやつひろし
メンバー 青山徹G,Vo
町支寛二(G,Vo)
山崎貴生Per,Key,Vo)
高橋信彦(B)
浜田省吾Dr,Per,Vo)
岡本あつお(Dr)

愛奴(あいど)は、かつて存在した日本ロックバンド1975年にデビューし、翌年解散した。

来歴

元々は「広島フォーク村」の音楽仲間で結成されたグループが発端である。1968年4月に当時高校生だった山崎貴生・町支寛二・高橋信彦の3人により、愛奴の前身となる「グルックス」が結成されるが、それぞれの大学進学とともに一旦は解散する。その後、東京の大学に通っていたメンバー達が再び集まり、1972年4月に広島時代からの旧友である青山徹と浜田省吾の2人が加わり「愛奴」が結成された。そして、全員が大学を中退して広島へ戻り、ひたすら練習の日々を過ごす。

1974年に広島フォーク村の先輩である吉田拓郎の全国ツアーに1年間・17ヶ所をバックバンドとして参加した。それまでアマチュア・バンドで活躍してきただけだったが、いきなり超満員のホールで数千人を前に演奏することになる。同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。しかし、愛奴のメンバーの演奏技術は決して高くなく、特にドラムだった浜田省吾は自分の力量に限界を感じ始める。

1975年5月1日、シングル「二人の夏」とアルバム『愛奴』でCBSソニーからレコード・デビュー。同期デビューとして、シュガー・ベイブセンチメンタル・シティ・ロマンス等がいる。

作詞は浜田がすべて担当しており、作曲は各メンバーが手掛けている。まず浜田が歌詞を書き上げ、気に入った歌詞をメンバー達が選んで持ち帰り、それに曲をつけるという方法が中心だった。また、ボーカルは浜田、町支、青山、山崎の4人がそれぞれ担当しており、その中でも町支がリード・ボーカル的な存在だった。

1975年7月岡本あつおがドラムとして加わり、浜田はパーカッション担当へと変わる。これはドラムとしての限界を感じていた浜田が、当時合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)に通っていた岡本を口説いて加入させたもの。結局、浜田は1975年9月にバンドを脱退し、1976年4月21日にソロ・デビューしている。しかし、愛奴の2ndアルバム『LOVE IN CITY』には曲を提供している。

いくつかのコンサートを開催したのち、1976年12月にバンドは解散する。

解散後

各メンバーはそれぞれの道を歩んでいたが、1985年7月27日28日つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で一夜限りの再結成。拓郎のバックバンドとして3曲を演奏する。このときに吉田拓郎から「浜田、前よかドラムうまいな」と言われる。

メンバー

バンド在籍時から高い演奏技術で評価を得ていた。解散後は吉田拓郎のツアーバンド・メンバーを経て、スタジオ・ミュージシャンに転身。浜田省吾のアルバムにも幾つか参加している。その後、1990年代半ば頃に音楽業界から引退している。
現在に至るまで浜田省吾のソロ活動をサポートし続けている。浜田が売れていなかった頃はマネージャーの仕事を兼任したりもしていた。コーラス・アレンジのスタジオ・ミュージシャンとしての地位も確立。
解散後はソングライターとなり、早見優などのアイドル歌手を中心に楽曲を提供。現在は「劉哲志」名義でボイスファクトリーを主宰しながら、町支のソロ・コンサートにゲスト参加したりしている。
一度音楽業界を離れたのちに、浜田省吾の依頼によりマネージャーに就任。現在は浜田の所属事務所「ロード&スカイ」の社長を務めている。
1976年4月21日にソロ・デビュー。しばらくヒットに恵まれなかったが、1980年代からはレコード・セールス、観客動員ともに音楽業界トップクラスのアーティストへと成長する。
解散後は本名の「岡本郭男」名義でスペクトラムに参加後、AB'Sを結成。第一線のドラマーとして活躍している。

エピソード

  • 「愛奴」というバンド名は浜田が提案したもの。栗田勇原作の劇名で、末政百合主演で映画化もされた官能的な作品である[1]。名前の意味よりも、言葉の響きやイメージで決められた。漢字のバンド名というのも珍しかったため、メンバーが気に入った。
  • 本来、愛奴がデビューするきっかけとなった吉田拓郎の1974年のツアーのバック・バンドはザ・バンドが務める予定だったが、ザ・バンドがボブ・ディランのツアーに参加するためキャンセルしてしまった[2]ので、急遽拓郎の広島フォーク村の後輩である愛奴がバック・バンドとして抜擢された。
  • 拓郎のバック・バンドでのデビューが決まった際、町支は実家の稼業を継ぐかどうか悩んでいた。その度に浜田が町支を説得しており、高橋によると浜田が何度か手を挙げることもあったという[3]。当時としては「音楽をやる、バンドをやる」ということは「人生をドロップ・アウトする」ということに等しく、かなりの覚悟を決めなければならなかった。

ディスコグラフィー

シングル

アルバム

脚注

  1. ^ 角川文庫『陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー』p.117
  2. ^ ザ・バンドの公式HP[1]より
  3. ^ 角川文庫『陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー』p.127