島津義弘
島津 義弘(しまづ よしひろ、天文4年7月23日(1535年8月21日。号は惟新) - 元和5年7月21日(1619年8月30日))は島津氏十七代目当主(ただし近年の研究では実質、継いではいなかったとされる。詳細は後述)。島津貴久の四兄弟の次男で、島津義久の弟。島津家久(義弘の子・忠恒とは別の人物)、島津歳久の兄。子に島津久保・島津家久・島津忠清。
生涯
智勇に優れた名将で、1572年、木崎原の戦いで伊東氏を破るなど、兄・義久の九州制覇に大きく貢献した。
1587年、豊臣秀吉の九州平定により兄が降伏した後も徹底抗戦を主張、兄の懸命な説得によりようやく降伏する。その後、兄が剃髪したために家督を譲られ、島津氏の当主となった(上記にもあるように、継いでいない説あり)。
朝鮮出兵
その後は一変して豊臣政権に対しては協力的で、1592年からの文禄の役、1597年からの慶長の役のいずれでも朝鮮へ渡海、その武勇を遺憾なく発揮した。1597年に藤堂高虎らと共に元均の朝鮮水軍を沈めている。1598年の泗川の戦いでは董一元率いる明軍37000人の大軍を7000人の寡兵で打ち破り、敵兵を斬首すること数千に及ぶという大戦果を挙げ、義弘率いる島津軍は「鬼石曼子」と呼ばれて恐れられたと言われている。露梁海戦では大きな損害をこうむったものの、李舜臣に致命傷をあたえた。
関ケ原の戦い
1600年の関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍側に付くはずであったが、救援のために赴いた伏見城で城将の鳥居元忠と対立し、入城を拒否され恥をかかされたという経緯から石田三成らの西軍に与する。
しかし、義弘は三成とソリが合わず、さらに石田三成に敵中に危うく孤立させられそうになったり
- (ただし、島津家の家臣の日記によれば、その後三成は単身義弘らを出迎えた上に、自腹で義弘の部下らに褒賞を出したこと、またそれを他家の者が羨ましがったとある)、
決戦前日の九月十四日に三成に対して東軍への夜襲策を進言したが、これも拒否されたりした
- (ただし、これも信頼できる史料には見あたらず、また夜襲策はあまりにも無謀ではないかとの説有り)
ため三成を恨み、関ケ原本戦では積極的に戦おうとしなかった。
- (そもそも関ヶ原において、島津軍は第二陣の予備兵力(義弘を慕って自主的に参集した者が主体)であり、義弘に戦う意図がなかったからではないとする指摘がある)
「島津の退き口」
そして、石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが東軍諸部隊によって壊滅させられ、島津軍1500人は敵中に孤立することになってしまった。このとき、義弘は家康本陣に突っ込んで果てようとしたが、甥の島津豊久の説得を受けて翻意、大胆にも数万の敵の大軍の中を敵中突破するという離れ業をやってのける。このとき、島津軍は東軍の激しい猛攻を受けたが、捨て奸(すてかまり)と言われる何人かずつが死ぬまで足止めをする戦法を使用。井伊直政はこの激しい戦闘により重傷を負いその傷が元で後に死亡している。また、松平忠吉も負傷させた。
激しい退却戦の結果甥の豊久や阿多(長寿院)盛淳ら多くの将兵を失ったが、義弘はかろうじて敵中突破に成功、摂津住吉に逃れていた妻や立花宗茂らと共に海路から薩摩に逃れたという。
晩年
関が原で義弘の武勇を知った家康は、戦後「義弘の行動は個人行動。当主の義久は承認していない」として島津氏に対して本領を安堵、義弘の三男・島津忠恒(長男・久保は文禄の役で陣中没、次男は夭折)への家督譲渡も承認している。
その後、義弘は加治木に隠居。入道して惟新と号し、次代を担う青少年に対しての教育に力を注ぎながら、1619年に八十五歳で亡くなるまで長寿を保った。このとき、義弘の後を追って15名の家臣が殉死している。法名:妙円寺殿松齢自貞庵主。
人物
島津氏にとって義弘の存在は不可欠であり、その挙げた軍功の数は計り知れない。徳川家康だけでなく豊臣秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して兄の義久を冷遇、兄弟の対立をさせようとしたが(後述)、成功しなかったと言われている。この流れで「義弘=十七代目当主」という見方が出来たとされる。また、敵に対して情けも深く、朝鮮の役後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設した。
官職位階履歴
年不明 兵庫頭
1586年(天正14) 将軍足利義昭の一字を賜り、忠平→義珍と名乗る。後に義弘
「島津家十七代目当主」
義弘を十七代当主とする資料の初出は、幕末に編纂された「島津氏正統系図」と考えられている。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ、「義弘=十七代当主」という認識が定着していった。また、秀吉が九州平定後義久に大隅を、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入地として宛がったことも認識を補強する材料となった(島津=薩摩というイメージから、「薩摩を与えられたのだから当主なのだろう」という見方もあった)。しかし、1980年代に入ってから島津家当主の証しである「御重物」が義久から忠恒に直接譲られている観点から「義弘≠十七代当主」という学説が広まり、以降「当主説」と「当主ではない説」が相並ぶようになった。
なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では、系図重視の観点から義弘を十七代当主と認定している。このため、初代当主の忠久も源頼朝の庶子となっている。
逸話
晩年は、老人性疾患のため食事や排泄も一人でままならなかった。しかし、家臣が法螺貝を吹くと、戦場での緊張が戻ったのか、正気に戻ったらしい。
|
|
|