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古田敦也

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古田 敦也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県川西市
生年月日 (1965-08-06) 1965年8月6日(59歳)
身長
体重
182 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1989年 ドラフト2位
初出場 1990年4月11日
最終出場 2007年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

  • 東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2007)
オリンピック
男子 野球
1988 野球

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手捕手)。現在は野球解説者、タレント、スポーツキャスター。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。マネジメントは株式会社ビッグベンと業務提携。

ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。また、2005年シーズン終了後から引退年の2007年まで選手兼任監督を務めた。「代打 俺」「ミスタースワローズ」とも呼ばれるほどの東京ヤクルトスワローズの象徴的存在である。

妻はフリーアナウンサー中井美穂

来歴

少年期・アマチュア時代

小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。

その後関西大学商学部、立命館大学経営学部の一般入試を受験し、どちらも合格した。当時は、関西学生野球リーグにおいては関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学体育会硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされてしまう。また、その夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられてしまい、次の日には気持ちがコロッと変わり、1984年春、立命館大学に入学し、体育会硬式野球部に入部した[1]

関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時の1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなど、その実力はプロ各球団からも注目された。11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたほどだったが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[2]。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたとのちに新聞連載に記載している。

1988年3月、立命館大学経営学部卒業、経営学士号取得ののち、同年4月にトヨタ自動車に入社。入部した同社硬式野球部でも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄潮崎哲也らとバッテリーを組む。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

1989年、古田のプレーに惚れ込んだヤクルトスカウト部長の片岡宏雄がトヨタを訪れて獲得の意思を本人に伝えた際、古田は「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も聞き直したという。ヤクルトは同年のドラフト会議で古田を2位指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せなかったと言われている。なお、野村がドラフト会場で直前になって「古田(の指名)はやめよう。捕手はワシが育てる」と発言したことに片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と喰い下がり[3]、「本当は古田を1位で指名したかった」と古田が大成した後語っているが、実際にはドラフト会議終了後「吉岡雄二を2位にして古田を3位にすればよかった」と述べており、真相は定かではない。

プロ入り後

入団当初、野村の古田評は「肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流や」というものだったが、最大の武器である強肩を活かそうと、捕手としての技術をマンツーマンで教え続けた。当時ヤクルトの正捕手だった秦真司は課題の弱肩を克服できず、途中から古田がその座を奪い106試合に出場。リーグ1位の盗塁阻止率を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得した。2年目の1991年オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。

1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは西武に敗れたが、翌1993年日本シリーズでは再び対戦した西武を倒して15年ぶりの日本一となった。同年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。1994年4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱。結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。

1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。1996年はチームが4位に終わり、自身も不調に終わった。翌1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322を記録するなど活躍。再び日本シリーズを制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。

1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。

若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出され、15才年下の松坂大輔とバッテリーを組んだ。2000年はヤクルトがAクラス争いに絡んだこともあり、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは五輪期間を境に上位戦線から脱落し、3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。

2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。同年の日本シリーズでは自身2度目のシリーズMVPを受賞した。

2003年6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録。2004年は通算8回目となるシーズン打率3割を残した。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。

2005年4月24日、捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。

29年ぶりの選手兼任監督

2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。

ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘。「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。

2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿五十嵐亮太の不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。

現役引退、監督退任

2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代2位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。

9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。

神宮球場における最後の出場となった10月7日の対広島24回戦、古田の引退試合が行われた。8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。これが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。8回には石井一、また9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。この翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後のバッターボックスに立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。

10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津に対し突如戦力外を通告した件について、球団からの事前通告や話し合いの機会が一切なかった事などに言及するなど、最後までフロントとの間にしこりが残った。

ヤクルト退団後

2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した(なお、プロ野球中継解説者としては特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。

プレースタイル

捕手として

かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があり、古田も眼鏡を着用していた(コンタクトレンズは自身の眼球に合わなかったため、止む無く眼鏡を着用していた)ことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評された。プロ入り後は野村監督によるマンツーマンの指導などで日本球界を代表する捕手となった。現在、正捕手として日本プロ野球名球会に入りしたのは野村克也と古田のみである。

蓄積された緻密な計算に基づく頭脳的なリードから「ID野球の申し子」と評された。投手には初球からウイニングショットや、逆に決め球にはど真ん中の直球を要求するなどの配球術で打者の裏をかいた。また、ボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。こうした高い技術により「打者は投手ではなく、古田と勝負している」などと揶揄されたほどであった。その一方、打者の身体を起こす内角高めの球を要求し、死球になってしまうことが多々あり、乱闘や口論などトラブルを招いたこともあった。その古田も歴代9位の通算111死球を喫している。

持ち前の強肩と堅守に加え、ワンバウンドなどを無理な体勢で捕球し即座に送球動作へと移る技術を磨いた。1991年に12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。更には入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。

守備・打撃の両面で、それまで定説とされていた技術に対し、自身の経験に裏打ちされた独自の理論に基づく技術を構築している。そのひとつとして、かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、敢えて両腕をルーズにして構えた。これは脇を締めることで、ヒジの自由性を失うデメリットを懸念したためであり、脇を締めた状態(ミットを立てた状態)から低目の投球を捕球する際には、『ミットを上から被せにいく捕球しかできない』という。それだと捕球直後には腕を伸ばしきって一段とミットの位置を下げてしまうため、ボールと判定される見込みが高くなる。それを解消させようとミットを下から掬い上げる捕球を求めた結果、“脇を空ける構え”につながったのである。新人時代には、それを見た野村監督から「お前、もういっぺんやってみい」と言われ、再現してみせると「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言われたという。もっとも、この構え方が原因で1994年にはファウルチップにより右手人差し指を骨折している。また「捕手のミットは小さいほどいい」と言われた当時、敢えて大きなミットを使用した。これも変化球に対応し、より確実な捕球を目指すためであった。

失策が非常に少なかった。捕手としてセ・リーグ歴代2位・プロ野球歴代4位の通算14544守備機会を残し、失策はわずかに49個で、通算守備率.997は捕手プロ野球歴代1位である(4000守備機会以上対象)。

打者として

捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年阿部慎之助が.3405を記録するまではセ・パ両リーグを通じて捕手のシーズン打率の歴代最高記録であった。特に走者を得点圏に置いた場面では勝負強さを発揮し、主に4番を任された1997年には本塁打9本ながら86打点を挙げ、犠打や進塁打などケース打撃も厭わない活躍から「バントもする4番打者」と言われた。通算打率.294は7000打数以上の選手の中では歴代8位の記録である。また、二桁本塁打を10回記録するなど長打力もあり、3桁の三振を記録した年は1度も無い。

2000本安打達成時、「GET SPORTS」(テレビ朝日系)で放送された特集「打者・古田敦也」では、新人の頃に落合博満の打撃を捕手側からみて参考にし、自分の打撃に採り入れたことを明かしている。打撃でも独自の理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから、初球の重要性を挙げている。しかし、本人自身は三振が少なく四球も比較的多いため、「早打ち」という訳ではない。

スライダー打ちの名手である。

特筆

人物

趣味は将棋ゴルフ、読書、映画鑑賞など。音楽ではU2の大ファンである。書道は有段者。特に将棋では日本将棋連盟から1995年8月に初段、2004年11月には三段の免状を受けている。NHK連続テレビ小説ふたりっ子」にも「棋将」のタイトル保持者・毛利元彦役でスポット出演した。また、妻の中井美穂もNHKの「将棋講座」でアシスタントを務めたことがある。

従兄タレント大木凡人がいる。また血縁ではないが、ヤクルトコーチの城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にある。城石の現夫人大橋未歩に城石との交際を薦めた。

大学時代には家庭教師などのアルバイトをしていた。4回生のゼミ(テーマは現代日本の中小企業問題)では、そのドラフト直前、当時の担当教授(故人)に進路を聞かれた際、「ドラフト待ってます」と答えている。

トヨタ自動車在社時代、社内では人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。新人研修ではディーラーで営業の仕事もしたが、さぼって喫茶店にいたという。プロ入り後も愛車は一貫してトヨタ車を愛用している(クラウンアリストセルシオレクサス・LS)。

1993年には母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれた。その際のキャッチコピーは「うちのチームも大したもんだが、うちの母校も大したもんだ」。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、という内容の同学の広告に再登場した。

1994年シングルCD「Xeno 〜見知らぬ人〜」を発売している(現在は廃盤)。なおPVにはレコーディングの模様が使用されている。

2001年のリーグ優勝の時、ウイニングボールをキャッチし、高津臣吾を抱擁し、喜びを分かち合うはずだったが、石井一久に先を越され、結果、古田はマウンド上で独りになってしまった。日本シリーズでも同様のことが繰り返され、オフシーズンに出演した番組でネタにされた。高津と石井とは仲が良いことで有名である。

2005年1月5日、故郷である兵庫県川西市から同市第1号の「名誉市民」に選ばれ、同日の記念講演で「子どもたちが大きな夢を持って育てるような環境づくりに貢献していきたい」と語った。

2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。眞鍋がブログを書籍化した際には、古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際には、眞鍋が宣伝用の帯を書いている。公式ブログを開設する以前、試験的に「吉田淳也」という偽名でブログを数回書いていた。写真を載せていたのにも関わらず閲覧数はとても少なかったが、古田敦也の公式ブログで紹介すると一気に閲覧数が増えたという。

眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けた。ちなみに、あだ名の由来である「野比のび太」とは誕生日が1日違いである(古田8月6日、のび太8月7日)。

2006年11月21日、男性誌GQ JAPANの読者投票により「GQ JAPAN Men of the Year 2006」のスポーツ部門で選出された[4]

プロ野球の現場退任後、数多くのマラソン大会に出場しているためマラソンランナーとしての知名度も上げている。2009年3月22日、東京マラソンを完走。2010年5月16日、ホノルルトライアスロンを完走。2011年9月18日には、アイアンマン70.3 セントレア常滑ジャパンを完走した。

2011年12月4日、西オーストラリアでアイアンマンレースを完走。

野球

野村克也監督の下での現役時代、ベンチではルーキー時から常に監督の傍にいた。野村はこの事について「お前はキャッチングとスローイングは出来上がっとるから、あとは配球を覚えろ。試合が始まったらずっと俺の傍にいろ。俺がブツブツ言うのを聞いとれ、と言ったんです。彼は忠実に(私の傍に)いましたよ」と述べている[5]

福田功は「古田は足裏全面を地面に付けたまま同じ足の膝を地面に付くことが出来た」と古田の足首の関節の驚異的な柔軟さについて述べ、それが送球へと移行する動作の素早さに影響していると語っている[6]

現役時代に行われたインタビューで、「これまでバッテリーを組んだ投手の中で、最も印象に残る投手は?」という質問に対し「伊藤智仁です」と即答。古田は伊藤について「全盛期は直球が速く、高速スライダーも持っていた。あれ以上の投手はなかなか現れないでしょう」と語っている。

チームの3者連続本塁打にからむことが多く、通算6回を数える。2001年に東京ドームで打ったのは自身の通算1500安打目だったり、2003年は広島市民球場で打ったのは4打数連続本塁打を打った時の2本目だったり、2004年の横浜スタジアムで打ったのは抑えの佐々木主浩から土橋勝征岩村明憲に続き打った決勝本塁打だったりと、特にインパクトがあるものが多い。

2005年に2000本安打を達成した際、報道ステーションでのインタビュー内で「最も印象に残るヒットは?」という栗山英樹の質問に対し、「荒木大輔の復活を劇的に演出したサヨナラホームラン」と答えている(1992年9月24日広島東洋カープ22回戦(神宮)望月から打った逆転2ラン、実際はサヨナラではない)。

選手兼任監督時代、代打出場する際に球審とアイコンタクトを取って自らを指差す「代打・オレ」のポーズは話題となった。プロ入り後一貫してスワローズに在籍し、また古田自身とともにチームも隆盛したことから、「ミスタースワローズ」と呼ばれるようになった(若松勉池山隆寛に次ぐ3代目)。

ヤクルトに入団する投手の中には「古田さんに受けてもらいたい」と発言する選手が少なくなかった。石川雅規も、大学時にシドニーオリンピックで古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意したひとりである。また古田の活躍に憧れて捕手になった若手選手も多く、他球団でも入団時に古田を目標として挙げる若い捕手が多い。

ヤクルト球団はフジサンケイグループ傘下にもかかわらず、同グループの夕刊フジから批判される事が多く、なかでも労組選手会の会長を務めていた古田は槍玉に挙げられる事が多かった。一方スポーツ報知日刊スポーツなどは2007年頃からヤクルト球団幹部の手際の悪さを度々指摘し、古田を擁護する姿勢をとっていた。

出場数は少ないながらも、一塁手左翼手での出場もある。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1990 ヤクルト 106 334 280 32 70 12 1 3 93 26 1 1 3 4 43 3 4 44 11 .250 .353 .332 .686
1991 128 485 412 58 140 23 5 11 206 50 4 5 4 3 62 7 4 59 10 .340 .428 .500 .928
1992 131 568 474 87 150 27 3 30 273 86 3 2 1 4 78 10 11 87 12 .316 .422 .576 .997
1993 132 595 522 90 161 29 0 17 241 75 11 4 9 2 59 0 3 83 15 .308 .381 .462 .842
1994 76 287 260 24 62 9 0 3 80 19 3 0 1 3 20 2 3 40 11 .238 .297 .308 .605
1995 130 551 487 88 143 18 1 21 226 76 6 0 5 7 46 0 6 51 24 .294 .357 .464 .821
1996 119 492 437 57 112 24 2 11 173 72 5 1 4 1 46 1 4 68 22 .256 .332 .396 .728
1997 137 598 509 74 164 32 2 9 227 86 9 4 3 4 69 4 13 64 11 .322 .413 .446 .859
1998 132 552 491 58 135 19 1 9 183 63 5 4 3 4 46 4 8 62 14 .275 .344 .373 .717
1999 128 548 483 79 146 26 2 13 215 71 10 3 4 7 51 4 3 41 8 .302 .368 .445 .813
2000 134 562 496 65 138 31 0 14 211 64 5 5 6 4 45 5 11 54 15 .278 .349 .425 .774
2001 121 503 441 59 143 23 0 15 211 66 1 0 3 7 43 2 9 41 17 .324 .390 .478 .868
2002 120 458 420 49 126 24 1 9 179 60 3 0 3 1 28 3 6 47 15 .300 .352 .426 .778
2003 139 576 509 69 146 27 1 23 244 75 2 0 4 3 49 6 11 77 14 .287 .360 .479 .840
2004 133 532 483 72 148 23 0 24 243 79 1 2 0 3 36 2 10 66 11 .306 .365 .503 .868
2005 96 357 329 29 85 15 0 5 115 33 1 0 1 3 19 0 5 54 8 .258 .306 .350 .656
2006 36 98 90 11 22 5 0 0 27 8 0 0 1 0 7 2 0 13 4 .244 .299 .300 .599
2007 10 19 18 2 6 1 0 0 7 0 0 0 0 0 1 1 0 0 1 .333 .368 .389 .757
通算:18年 2008 8115 7141 1003 2097 368 19 217 3154 1009 70 31 55 60 748 56 111 951 223 .294 .367 .442 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度 試合数 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 同順位 捕逸
1990 106 55 26 29 .527 1 5
1991 127 83 35 48 .578 1 12
1992 130 60 31 29 .483 1 2
1993 132 45 16 29 .644 1 7
1994 76 24 12 12 .500 1 2
1995 130 67 35 32 .478 2 6
1996 118 60 36 24 .400 3 7
1997 137 61 33 28 .459 1 7
1998 132 68 38 30 .441 1 10
1999 127 59 32 27 .458 1 13
2000 134 73 27 46 .630 1 7
2001 116 43 22 21 .488 2 2
2002 113 52 30 22 .423 3 8
2003 139 71 44 27 .380 1 5
2004 130 58 43 15 .259 6 8
2005 87 32 24 8 .250 6 1
2006 21 10 9 1 .100 1
2007 6 5 5 0 .000 1
通算 1959 926 498 428 .462 104
  • 各年度の太字はリーグ最高(試合数は捕手として全試合出場)
  • 盗塁阻止率順位が空欄となっている年度は捕手としての出場試合数が規定試合数に到達せず

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2006年 ヤクルト 3位 146 70 73 3 .490 18 161 .269 3.91 41歳
2007年 6位 144 60 84 0 .417 20.5 139 .269 4.07 42歳
通算:2年 290 130 157 3 .448 Aクラス1回、Bクラス1回

タイトル

表彰

記録

松山坊っちゃんスタジアムにある、古田敦也2000本安打達成記念碑
初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1997年5月7日、対読売ジャイアンツ4回戦(明治神宮野球場)、7回裏に入来祐作から左越ソロ ※史上190人目
  • 1000本安打:1997年10月3日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、3回表に黒田博樹から中前適時打 ※史上186人目
  • 1000試合出場:1998年6月2日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、4番・捕手として先発出場 ※史上343人目
  • 150本塁打:2001年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、6回表にダレル・メイから左越逆転2ラン ※史上118人目
  • 1500本安打:2001年7月11日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、1回表に上原浩治から右越ソロ ※史上82人目
  • 1500試合出場:2002年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)、5番・捕手として先発出場 ※史上135人目
  • 300二塁打:2003年4月4日、対阪神タイガース1回戦(大阪ドーム)、9回表にジェフ・ウィリアムスから右中間二塁打 ※史上40人目
  • 200本塁打:2004年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(宮城球場)、9回表に土居龍太郎から左越場外ソロ ※史上80人目
  • 3000塁打:2004年9月25日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、6回表に小山田保裕から左中間へソロ ※史上38人目
  • 350二塁打:2005年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、3回裏に吉川輝昭から左翼線二塁打 ※史上24人目
  • 2000本安打:2005年4月24日、対広島東洋カープ5回戦(坊っちゃんスタジアム)、6回裏に大竹寛から三塁強襲二塁打 ※史上32人目(捕手としては野村克也に次いで歴代2人目、大学・社会人野球出身選手として初)
  • 1000打点:2005年10月5日、対中日ドラゴンズ21回戦(明治神宮野球場)、8回裏に真中満の代打として出場、高橋聡文から左前適時打 ※史上27人目(大学・社会人野球出身選手として初)
  • 1000得点:2006年6月4日、対オリックス・バファローズ6回戦(明治神宮野球場)、7回裏にアダム・リグスの左越3ランで記録 ※史上33人目
  • 2000試合出場:2007年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上37人目(捕手登録の選手史上5人目、大学・社会人出身選手初。なお、古田はこの試合で退場処分を受けている)
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:17回(1990年 - 2006年)※現役最終年の2007年はコーチとして出場
  • 1試合本塁打:4本(2003年6月28日)※日本タイ記録
  • シーズン盗塁阻止率.644 (1993年)※日本記録

背番号

  • 27 (1990年 - 2007年)

関連情報

主な著書

情報・報道番組

バラエティ番組

教養・ドキュメンタリー番組

スポーツ番組

コマーシャル

クラスJ編では、古田の現役引退試合の1シーンや少年野球チームを指導するシーンがある。

ドラマ

  • 連続テレビ小説ふたりっ子(1996年10月 - 1997年3月、NHK総合
    第129話・130話に棋士・毛利元彦役で出演。
  • アストロ球団(2005年8月 - 10月、テレビ朝日
    第1話(第一球)と最終話(第九球)に本人役で出演。
  • 役者魂!(2006年10月 - 12月、フジテレビ
    第6話(2006年11月21日放送)に桜子の担任教諭・森役で出演。ドラマ企画担当の高井一郎と美穂夫人はフジテレビの同期入社という縁で普段から親交があり、高井の出演依頼を受けての出演だった。

ラジオ番組

ゲーム

脚注

  1. ^ 東京ヤクルトスワローズ 選手兼監督 古田敦也 前編1ドリームゲート
  2. ^ http://www.5-life.net/magazine/article-345.html 木村政雄編集長との対談
  3. ^ TBSで放送されたZONEにて告白
  4. ^ 参照
  5. ^ ジャンクSPORTS」内での発言
  6. ^ スターキャットチャンネルの番組内での発言より。

関連項目

外部リンク