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金の卵 (労働者)

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金の卵(きんのたまご)は、日本の昭和時代(戦後期)に高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者の事である。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業から中学校卒業までに義務教育期間が延長された。この学制改革を契機に、昭和20年代から戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

概要

「金の卵」とはなかなか入手できない貴重な人材の事であり、高度経済成長期の求人難の時代の中学校卒業や高等学校卒業の就職希望をしている社会人の事で、1964年(昭和39年)に「金の卵」が流行語となった。

新制中学が誕生した1948年(昭和23年)頃から昭和30年代をピークに活躍した中卒の若者が「金の卵」である。昭和40年代までの時期に高度経済成長を支えた労働者で、中学を卒業した後、高等学校(昼間部)に進学せず、すぐ企業に就職した若者労働者のことである。「金の卵」のように貴重だと喩えられ、このように呼ばれた。低い賃金で長期間働くブルーカラー製造業建設業)の労働者や高度な技量がある職人となり技術を習得してくれる、中学を卒業したばかりの若者は中小企業経営者にとって貴重な戦力だった。 

戦前の高等小学校(基本は2年制)が新制中学として義務教育となることで、中学を卒業後社会に出る若者が生まれた。彼らが金の卵と呼ばれた。

日本社会党所属から民主党所属の衆議院議員となった伊藤忠治のように学力的には秀才であっても家庭の経済的理由で公立中学校卒業後に印刷工場に働きながら定時制高校に進学したものもいて、さらに大学の夜間学部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であった事と商店では下積みが多い事と仕事と学業の両立のきつさから、定時制高校のみならず、仕事も(15%~22%の高確率)でやめるものもいた。[1]

要因

人口経済学的要因

戦後の高度経済成長で、大企業のサラリーマンや公務員は高校卒業者や大学卒業者を採用したが、その結果、都市部(東京都、特に足立区)などの町工場や個人商店は人手不足であった。また農村では農業を跡継ぎの長男のみが相続して、次男や三男は長男の扶養家族として農業の手伝いをするという、農家の次男・三男の雇用問題・生活問題・結婚問題があった。農村は一家の兄弟数が6人以上と人口が過剰であり、人出不足の都市部と人口爆発の農村部の人口利害が一致した。

教育学的要因(進学率)

当時は高校進学率は半数程度であり、義務教育卒業で終わることが当たり前の社会であって、高等学校は中流階層の通う上級学校と見なされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情で進学をあきらめることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。

経済学的要因

農業林業漁業第一次産業が中心の社会で自営業が多かったこともある。伊藤忠治議員のように全日制高校に進学して勉強したくても家庭の事情で進学できない若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が井沢八郎の『あゝ上野駅』の歌に共感した事に象徴されるように東北地方九州地方から4大工業地帯を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。

集団就職者としての金の卵

九州東北地方沖縄県からくる若者を、当時は「集団就職」と呼んでいた。東北からは上野駅までの就職列車が運行されて、中小企業経営者が駅に出向きにいき、各就職先にグループ分けられていた。また九州や沖縄県などの離島からはフェリーが運行された。

「金の卵」の終焉~高校全入時代へ

昭和40年代までの高度経済成長期から昭和50年代に安定成長期となり、合理化とために工場のオートメーション化が進むと、もはや単純労働力の金の卵は不要となった。オートメション化の機器は工業高校卒業の知識が必要で中卒者には手に余るものだった。製造業界は高卒者優遇の時代に突入した。[2]

1970年代以降は経済が安定し、各家庭の所得が増えたことや、1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で高校義務教育化を政治公約にした日本社会党[3]や、昭和50年代に日本教職員組合が実施した「15の春を泣かせるな運動」によって95%以上が高等学校に進学する高校全入となり、中卒就職者は1割未満となった。新人類世代が進学する頃には高校全入時代となり、一般的な家庭の子供では、特殊な進路を選択して中卒となる場合を除き、低学力や不登校などの学習面において高校進学が困難な場合や低所得で教育費を払いにくい場合などの特殊な事情がないかぎり中卒ではなくて高卒となり、中卒が即戦力とされた技術職は工業高校などの高卒労働者や外国人労働者が代用するようになった。

また18歳未満の労働者は年少者として扱われるため、危険有害作業が制限されたり深夜労働や時間外労働ができなかったりするなどの制約が多く[4]オイルショックによって経済が低迷したことから労働に際して制約が多い中卒者の新卒採用を控える動きがあり、採用は中小企業でも高卒以上が一般的となった。

1965年(昭和40年)には高校卒業の就職者が中卒者を上回った。昭和40年代に高校進学率が上昇した事で義務教育のみの中卒者は急減した。1975年(昭和50年)に最後の集団就職列車が運行され、1976年(昭和51年)には集団就職は沖縄県のみとなり、「金の卵たる中卒者」の(金の卵の世代・金の卵の中卒労働者の時代)は終焉する。[5]

現在における中卒労働者

高校全入運動で事実上の義務教育状態となった高校の進学率が97%を超え、大学全入時代の到来で大学進学率も2009年(平成21年)には50%を超える現在の日本では高学歴化が進行し、平成初期までは理容師美容師も中卒のたたき上げでなれたが、現在では中卒で美容師・理容師になることはできなくなり、専門学校卒か高校卒業して美容学校に入学する方法に変更されるなど、中卒者にとって就職は敷居が高いものとなってしまった。一方で調理師などサービス業で働く職人、伝統工芸、鳶職などの職人相撲力士競馬騎手伝統芸能の役者などは個人の技量に依存されやすいことから若年者が優遇され、高い学力を追及しないことから現在でも中卒後に仕事を始める人もいる。

トヨタ自動車に中卒後に採用される認定職業訓練職業能力開発校トヨタ工業学園をはじめとする企業内学校の社員兼生徒や自衛隊に中卒後に採用される陸上自衛隊少年工科学校陸上自衛隊生徒)など満15歳の中学校卒業後に就職するものもいて、これらの労働者はかつての「金の卵」と同じような雇用形態である。

日本国外における金の卵に類似する労働者の事例

ドイツ

ドイツでは初等教育を4年間受けて、中等教育は複線型教育であり、職業人向け学校(基幹学校、実科学校)に行くコースと高等教育向けの学校であるギムナジウム(日本の中高一貫校に相当)に行くコースに厳格に分けられている教育課程で「マイスター制」と呼ばれていて、中等教育機関への進学率はギムナジウムが約20%、実科学校が約33%、基幹学校が約47%であり、基幹学校卒業生の多くは就職し、工員や職人などになる人もいて現在でも日本のような学歴社会ではないのでかつての日本のような「金の卵」に近い雇用形態が未だに根付いている。

参考文献

  • 加瀬和俊著 「集団就職の時代 -高度成長のにない手たち-」 1997年(平成9年)
  • 青少年問題研究会編 「流入青少年実態調査報告書 -東京都における青少年の流入状況とその後の生活環境・勤務条件について-」1964年(昭和39年)
  • 昭和史戦後編、(著作)半藤一利
  • 早分かり昭和史、時代の流れが図解でわかる、(著者)古川隆久日本大学文理学部史学科教授

脚注

  1. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁下段14行目~145頁4行目
  2. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久145頁8行目~13行目
  3. ^ 1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)
  4. ^ 労働基準法第6章
  5. ^ http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html