コンテンツにスキップ

源満仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Sat666 (会話 | 投稿記録) による 2013年4月14日 (日) 15:21個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎生涯: 典拠不明の記述除去。ともに他項目での荒らしが報告されているユーザーによると思わしき加筆)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
源満仲
源満仲/菊池容斎画『前賢故実』より
時代 平安時代中期
生誕 延喜12年4月10日912年4月29日)?
死没 長徳3年8月27日997年10月6日
享年87と伝えられている
改名 明王丸、満仲、満慶
別名 多田新発意
神号 多田大権現
墓所 兵庫県川西市多田神社
和歌山県高野町高野山奥の院
神奈川県箱根町元箱根石仏群ほか
官位 正四位下左馬助鎮守府将軍上総
常陸介、武蔵守、摂津守、越後守、越前
下野守、美濃守、信濃守、伊予守、陸奥守
正一位
氏族 清和源氏経基
父母 父:源経基、母:橘繁古娘 ?藤原敏有娘? 
兄弟 満仲満政満季満実満快満重(満成)
満生満頼源元亮
源俊娘、藤原致忠娘など
頼光頼親頼信頼平頼範頼明
頼貞孝道頼尋源賢藤原頼親
源敦室ほか[1]
テンプレートを表示
ファイル:Mitunaka Minamoto.jpg
JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像

源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将清和源氏六孫王経基の子。源頼光源頼親源頼信らの父。「多田」を号したことから多田満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。正一位神号は多田大権現。満中とも記される。

尊卑分脈』では生年が父経基の生年を遡るという齟齬を来たしており、正確な生年は不明である。

生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)、平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使大蔵春実らと共にこれの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)、満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[2]清和天皇の皇孫源蕃基[3]がそれぞれ主犯と共犯であったという(『扶桑略記』)。

左馬助在任時の康保2年(965年)、多公高、播磨貞理らと共に村上天皇鷹飼に任ぜられる(『村上御記』)。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると藤原千晴藤原秀郷の子)と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられ、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[4]が、満仲のみ病による辞退を許された(『本朝世紀』)。

安和2年(969年)の安和の変で、謀反を密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞で正五位下に昇進した。

摂関藤原家に仕えて、武蔵国、摂津国越後国越前国伊予国陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に再び自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている[5]。この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については不明である(『親信卿記』)。

2度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘、現在の兵庫県川西市多田)に入部し、所領として開拓するとともに多くの郎党を養い武士団を形成した。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、謀略に関与した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」(『大鏡』)とは満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家一条天皇摂政に就任した。

永延元年(987年)、多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称した。藤原実資は自身の日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は928年以前919年以降となる。

長徳3年(997年)に死去。遺骸は、多田院(現在の多田神社)に葬られた。

長子の源頼光摂津源氏、次男の源頼親大和源氏、三男の源頼信河内源氏のそれぞれの祖となる。

系譜

和歌

  元輔
いかばかり思ふらんとか思ふらむ老いて別るる遠き別れを

  返し    源満仲朝臣
君はよし行末遠しとまる身の待つほどいかがあらんとすらむ

— 『拾遺和歌集』 巻第六 別歌

墓所・供養塔

高野山にある源満仲(多田満仲)の墓

満仲の墓所および供養塔はその遺骸が葬られたとされる兵庫県川西市多田神社の境内のほか全国に複数存在している。

その他

  • 江戸時代大坂で作られたかるたの「た」は「ただのまんじゅう 武士のはじまり」だったという。これは徳川家康が源姓を名乗り江戸幕府を開いたことへの大坂人の対抗心から源氏の摂津国起源を強調したものとされる。

脚注

  1. ^ 古事談』には藤原惟成花山天皇の側近)が婿となっていたある。また塩川氏の伝承によれば郎党・藤原仲光の嫡男仲義が婿であったともいう。
  2. ^ 醍醐天皇の第六皇子式明親王の長男。
  3. ^ 義兄弟にあたる源元亮の兄(『尊卑分脈』)。
  4. ^ 当時、水面下では源高明と藤原北家との間で天皇外戚の地位を巡る対立が先鋭化していた。
  5. ^ この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという(『日本紀略』『親信卿記』)。

参考文献

関連項目

外部リンク