美作朝親
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美作 朝親 (みまさか ともちか、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士・御家人。系譜については村上源氏の流れを汲むとされるが、一説には清和源氏とも云われる。号は美作蔵人、美作左近大夫など。子に本郷有泰(ほんごう ありやす)がある。
承元3年(1209年)12月、宿所を相対する御家人橘公業と妻女を巡った争論から合戦へと発展しかけ、将軍実朝の命によって駆け付けた北条時房の仲介により事を収めるという騒ぎがあった。建暦2年(1212年)には実朝の鶴岡八幡宮参拝に随行しているほか、建保元年(1213年)2月に設置された学問所番のうち二番の一人としてその名が見えている(『吾妻鏡』)。このように、実朝と関わりがあったことから、「朝」の字も実朝から与えられたものと推測される。
承久の乱の後、若狭国大飯郡本郷の地頭に任じられ同地に下向した。子孫は本郷氏を称し、鎌倉期には在京の御家人として存続している(下記外部リンクを参照のこと)。