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衛藤晟一

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衛藤晟一
えとう せいいち
生年月日 (1947-10-01) 1947年10月1日(76歳)
出生地 日本の旗 大分県大分市
出身校 大分大学経済学部卒業
前職 大分県議会議員
所属政党 自由民主党二階派
公式サイト 公式ウェブサイト

選挙区旧大分1区→)
大分1区
当選回数 4回
在任期間 1990年 - 2000年
2003年 - 2005年

選挙区 比例区
当選回数 2回
在任期間 2007年 - 現職

日本の旗 内閣総理大臣補佐官
国政の重要課題担当
内閣 第2次安倍内閣
在任期間 2012年12月26日 - 現職
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衛藤 晟一(えとう せいいち、1947年10月1日- )は、日本政治家自由民主党所属の参議院議員(2期)、内閣総理大臣補佐官(国政の重要課題担当)、自民党大分県連会長。過去に、自民党参議院幹事長代行、衆議院議員(4期)。

来歴・人物

学生時代

大分市立碩田中学校大分県立大分上野丘高等学校を経て、大分大学経済学部に入学[1]。大学在学中、別府大学井脇ノブ子と共に全国学生自治体連絡協議会を結成。自身も大分大で保守派の「学生協議会」を率いた。“学園の正常化”を掲げて全日本学生自治会総連合と対峙。

政治家としての活動

1973年、大分市議会議員に当選。1979年には大分県議会議員に当選し、障害者の自立を促す福祉政策や、家族と地域社会を護る政策を推進する。また、子供の教育政策にも取り組んだ。

1986年7月、第38回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1990年2月、第39回衆議院議員総選挙に初当選(当選同期に岡田克也佐田玄一郎中谷元森英介福田康夫石原伸晃河村建夫塩谷立細田博之古屋圭司松岡利勝小坂憲次山本拓赤城徳彦など)。3期連続当選するが、2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では民主党釘宮磐に敗れ落選。2003年11月の第43回衆議院議員総選挙では小選挙区で落選するも比例九州ブロック復活当選2005年7月5日郵政国会では反対票を投じたため副大臣を罷免される[2]。同年9月11日第44回衆議院議員総選挙では、自民党大分県連が衛藤の公認を申請していた[3]が、自民党本部は佐藤錬の公認を決定した[4]。衛藤は無所属で大分1区から出馬したが、民主党の吉良州司に3927票差で敗れ落選した。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙比例区からの立候補を希望し、自民党に公認を申請したことが引き金となって前年末に続く郵政造反組復党問題が起こる。党内では前年末の「造反組議員」復党で内閣の支持率が下がったことなどから根強い反対意見も有ったが、かつての盟友安倍晋三総裁(内閣総理大臣)が自民党の総裁推薦候補(自民党には比例代表選挙に際して総裁が自らの推薦候補を1名だけ指名できる慣例がある)を衛藤にすることに強い意志を表明した。自民党党紀委員会では賛成10票、反対7票という異例の多数決となったが、復党が実現して比例代表候補となった。

地盤が狭い元衆院議員が参議院比例区に立候補する場合、通常は地元の票固めを行う。しかし衛藤の支持層を比例区で取り込もうと考えていた公明党への配慮から、自民党本部は復党にあたって地元大分での選挙活動を認めないなどの厳しい制約を課した。衛藤は福岡県に選挙事務所を置こうとしたが、公明党はそれについても「九州内では意味がない」と反発したため、最終的に東京・渋谷に選挙事務所を置くことになった[5]6月11日東京で開かれた「えとうせいいち君を激励する会」では、伊吹文明文部科学大臣や自民党中川秀直幹事長、中川昭一政調会長などが支援を表明した。地元大分で活動できない中202,314票を獲得し党内13位で当選、国政に復帰した。

2007年12月12日、参議院本会議において野党提出の郵政民営化凍結法案の採決では棄権したため、自民党参議院議員会長・尾辻秀久から厳重注意処分を受けた。

2008年4月14日、自民党大分県連により、県連復帰が承認された[6]。これに対して、公明党大分県本部の竹中万寿夫代表が同日の自民党県連年次大会出席を急遽取り止めた。竹中は衛藤の県連復帰により、「自公の信頼関係が崩れ、今後の自公協力が厳しくなる」と述べた。

2010年1月、議員グループのぞみに参加。自民党障害者特別委員長を務める。2011年、自民党参議院幹事長代行に就任。2012年12月、第2次安倍内閣内閣総理大臣補佐官(国政の重要課題担当)に就任。

2013年4月23日みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会の一員として靖国神社に参拝した[7]

2013年7月21日第23回参議院議員通常選挙に比例区で出馬し204,404票を獲得して党内10位で再選。

政策・主張

障害者自立支援、家族政策、教育政策、教育政策の延長としての歴史問題、北朝鮮による日本人拉致問題に取り組む。

  • 拉致問題については、重大な人権侵害であるとともに日本国の主権を侵害する行為であるとし、2004年4月に結成された「拉致議連」にも結成と同時に加入。拉致議連では事務局長を努め、関係省庁や家族会をはじめとした各種団体とのやりとりや、政府による対北朝鮮政策の策定に裏方として関わった。
  • 人権擁護法案に対し、人権の名の下に言論の自由表現の自由を抑圧し、ひいては「人権ファシズム」を惹き起す恐れがあるとして、古賀誠自民党幹事長ら推進派に反発した。
  • 教育問題の一環として歴史教科書問題にも取り組んでいる。2004年10月、イギリスにおける歴史教科書問題を時のサッチャー政権が教育基本法を改正することで「自虐偏向」を「正常化」したとされる事例を現地調査するための、与野党合同の「イギリス教育改革調査団」を設立。2005年4月に、PHP研究所から中西輝政監修、安倍晋三幹事長代理らと共著で『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』を上梓した。
  • 慰安婦問題に関しては、1997年に結成された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の幹事長に就任。存在肯定派と否定派の両派の有識者を招いて意見を聞く勉強会を主催し、その成果を1997年12月に『歴史教科書への疑問』(展転社)にまとめた。
  • 2008年11月11日、自民党の国防関係合同部会にて、歴史認識に関して政府見解を否定する論文(「真の近現代史観」懸賞論文)を発表して航空幕僚長を更迭された田母神俊雄を擁護。「歴史認識を教育するなんてことを言ってもらったら困る」と述べ、歴史教育の在り方を見直す考えを示すとした防衛省側を批判した[8]
  • 鳩山由紀夫内閣の選択的夫婦別姓法案に反対している[9]。しかし、「通称として従来の姓を名乗れるのはいいと思いますし、むしろ法的にもはっきりした根拠を示していいと思います」と法務省C案に相当する法改正に賛成している[10]
  • 自社さ連立政権時代、与党福祉プロジェクトチームに所属し、 自自公連立政権時代「これからは、老夫婦をみる子どもの数は3分の1に減り、介護期間はいまの10倍になります。掛け算すると30倍の負担です。介護保険やめたら家族の美風は崩壊してしまいます」と抵抗勢力を説得し、介護保険の成立に力を尽くした。[11]

支援団体

エピソード

村山富市の首班指名をめぐって

1994年、羽田内閣総辞職後の内閣総理大臣指名選挙について、河野洋平総裁森喜朗幹事長日本社会党村山富市委員長を推したため、自民党両院議員総会は大いに紛糾した。しかし、旧大分1区[13]で村山と直接のライバル関係にあった衛藤が賛意を表明したことから、議論の流れが大きく変わり、村山首班指名で決着した[14]。この結果、自社さ連立政権が成立し、自民党は11ヵ月ぶりに政権復帰した。

安倍晋三との関係

1993年に衛藤が再選された時、安倍は初当選の新人議員だったが、共に憲法改正や教育問題、歴史認識に関して政治理念が一致していたため、行動を共にすることが多かった。衛藤は安倍に「首相を目指すなら社会保障に精通すべきだ」と主張し、安倍が厚生行政に携わるようになった。1999年、それまでポストに恵まれなかった安倍は小渕内閣の改造・党人事で社会部会長(現・厚生労働部会長)に抜擢されたが、この人事は政調副会長だった衛藤が自身の所属派閥領袖であった亀井静香政調会長に進言したことで実現した。

参院選での得票を巡るトラブル

2013年7月の第23回参議院議員通常選挙で、衛藤は比例区において全国から20万4,000票以上を獲得したが、高松市においては得票ゼロという集計結果が出た。この結果について、衛藤の支持団体の一つである香川県遺族連合会などは、開票ミスによるものであるとして、高松市選挙管理委員会に対し、票の再点検を求めている[15]

不祥事

国民年金保険料未納

衆議院厚生労働委員長在任中の2004年5月14日、国民年金保険料の未納が判明した[16]議員年金に加入すれば同時に国民年金にも加入していることになるものと誤解していた衛藤は、衆議院議員に初当選した1990年2月から11年11か月間、保険料を納付していなかった[16]

外務官僚水かけ事件

2011年5月24日、自民党本部で開かれた同党外交部会で、外務省アジア大洋州局の北野充審議官が横を向いて同僚と話した瞬間に激高し、「いい加減にしろ。本気で国益を守ろうと思っているのか」と叫んで数メートル離れた場所からコップの水を浴びせ掛けた[17]。「自分が話している最中に横を向いていた」とのこと[18]韓国の国会議員が北方領土を訪問する計画を立てており、これについて菅直人内閣総理大臣が日韓首脳会談において言及しなかったことに外交部会で批判が続出。北野審議官は理由として「事実関係を確認中だった」と答えていた。

所属団体・議員連盟

テレビ出演

放送日 タイトル
2009年11月7日 このホームルーム政治を如何にせん

脚注

  1. ^ プロフィール えとうせいいちネット
  2. ^ “郵政法案成立へ全力 参院も攻防激化必至”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年7月5日). http://www.47news.jp/CN/200507/CN2005070501002693.html 2012年11月13日閲覧。 
  3. ^ “郵政反対派か、対立候補か 自民党大分県連が対応苦慮”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年8月16日). http://www.47news.jp/CN/200508/CN2005081601002887.html 2012年11月13日閲覧。 
  4. ^ “大分1区は前職の佐藤氏 武部氏、理解深まる”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年8月14日). http://www.47news.jp/CN/200508/CN2005081401007007.html 2012年11月13日閲覧。 
  5. ^ 「参院選 漂う悲哀「郵政造反・くら替え組」 失った地盤・看板…」産経新聞 2011年7月26日
  6. ^ “衛藤晟氏が県連復帰”. 大分合同新聞. (2008年4月14日) 
  7. ^ “国会議員168人が靖国参拝 87年以降で最多”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年4月23日). http://www.asahi.com/politics/update/0423/TKY201304230053.html 2013年6月16日閲覧。 
  8. ^ “自民で田母神氏擁護論 国防合同部会「なぜ悪い」”. 共同通信社. 47NEWS. (2008年11月11日). http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111101000225.html 2013年5月13日閲覧。 
  9. ^ 第174回国会参議院予算委員会議事録 6号 平成22年03月05日
  10. ^ 本人のHP掲示板
  11. ^ http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-00.html 物語・介護保険
  12. ^ “参院選で自民候補支援の宗教団体、靖国参拝に賛否”. 朝日新聞. (2013年8月16日). http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201308150478.html 2013年10月17日閲覧。 金曜日朝刊第3面記事
  13. ^ 直近の第40回衆議院議員総選挙1993年)は中選挙区制で、衛藤と村山がともに当選。
  14. ^ 森喜朗・亀井静香対談 毅然と対決、死闘十一か月の攻防」『月刊自由民主』平成17年3月号、自由民主党、2005年。
  15. ^ 自民・衛藤氏「高松0票」支援者、開票ミス主張 読売新聞 2013年8月30日
  16. ^ a b “衆院厚労委員長らも未納 今後の委員会運営にも影響”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年5月14日). http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004051401001826.html 2012年11月13日閲覧。 
  17. ^ 自民議員、外務官僚に水浴びせる=部会説明に激怒、外相は反発 時事通信 2011/05/24-20:56[リンク切れ]
  18. ^ 外務省職員にコップの水 自民・衛藤議員、説明に激高 朝日新聞 2011/05/24-23:37[リンク切れ]

外部リンク


議会
先代
中山成彬
日本の旗 衆議院厚生労働委員長
2003年 - 2004年
次代
鴨下一郎
公職
先代
谷畑孝
森英介
日本の旗 厚生労働副大臣
西博義と共同
2004年 - 2005年
次代
中野清
西博義