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永井尚服

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永井 尚服(ながい なおこと、1834年1月16日天保4年12月7日) - 1885年明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代。

経歴

陸奥福島藩板倉勝俊の七男。正室は永井尚典の三女・鋭子。子は永井尚敏(長男)、娘(松平近道正室)。官位は従五位下、肥前守、伊豆守。維新後、正五位。爵位は子爵

嘉永5年(1852年)7月、尚典の養嗣子となる。安政7年(1860年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に肥前守に改める。文久2年(1862年)10月2日、尚典から家督を譲られた。元治2年12月2日、講武所奉行に就任する。慶応2年6月15日寺社奉行奏者番に就任する。慶応3年(1867年)6月15日、若年寄と会計奉行を兼任する。

慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い勃発すると当初は旧幕府を支持した。そのため、1月28日に家老片岡らは新政府に対し、藩主尚服の隠居と養父尚典の再相続を願い出ている。2月6日、若年寄を解任される。2月11日、江戸から加納に戻る。2月21日、東山道先鋒総督府に対し、恭順を申し入れる。2月22日、謹慎を命じられる。3月13日、上洛し、改めて恭順の姿勢を示す。4月19日、新政府から謹慎を解かれる。その後、新政府側に与した。明治2年(1869年)の版籍奉還で加納藩知事となり、廃藩置県後は子爵に列せられ、正五位を与えられた。明治18年(1885年)6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。墓所は本行寺