名鉄瀬戸線脱線転覆事故
名鉄瀬戸線脱線転覆事故 | |
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発生日 | 1948年(昭和23年)1月5日 |
発生時刻 | 10時15分頃(JST) |
国 |
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場所 |
愛知県東春日井郡守山町字大森 (現・名古屋市守山区大森3丁目) |
路線 | 瀬戸線 |
運行者 | 名古屋鉄道 |
事故種類 | 脱線転覆事故 |
原因 | 行路の不確認・急制動の不適切取扱 |
統計 | |
死者 | 36人 |
負傷者 | 153人 |
名鉄瀬戸線脱線転覆事故(めいてつせとせんだっせんてんぷくじこ)とは、1948年(昭和23年)1月5日10時15分頃に愛知県東春日井郡守山町字大森(現在の名古屋市守山区大森3丁目)の名古屋鉄道瀬戸線で発生した列車脱線転覆事故である。
概要
尾張瀬戸発堀川(現在は廃止)行き急行電車が、大森駅(現在の大森・金城学院前駅)東側のカーブに差しかかったところ、後部の車両サ2241形が脱線転覆し、そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆し架線鉄柱に激突して大破した。36人が死亡し153人が負傷するという瀬戸線史上最悪の事故となった。
当時アメリカ軍の占領下であったためアメリカ軍憲兵の指揮の下で警察や地元消防団員が警備救助に当たり、遺体を名鉄喜多山クラブハウスに収容した。不通になった大森駅と旭前駅の間は名鉄トラックで連絡された。
警察の調査による事故原因は、運転手が三郷の辺りで電車が急行であったことに気がつき慌てて次の駅を通過し、大森駅の東側、法輪寺裏のカーブで急ブレーキをかけたが、ブレーキが後部車両に連絡しておらず後部車両が浮き上がったためである。運転手はこの日まで乗客を乗せて運転したことがない新人で、当日運転予定がなかったが、先輩から頼まれて急遽運転することになったという。また当時の車両には速度計がなく、このカーブは下りながら法律で許されたぎりぎりである半径160mを曲がる急カーブであった。当日は熱田神宮の初えびすの日で初詣客などで大混雑しすし詰め状態だったことが被害をさらに大きいものにした。
1948年5月には法輪寺の住職江口耕雲が発起人となり事故現場に交通安全地蔵が建立され、1949年1月には事故の一周忌で当時の名古屋鉄道社長神野金之助の筆により「殉難の碑」が建立された。その後、事故現場付近などで曲線改良が実施された。
以降、現時点で今事故は名鉄にとって最後の有責死亡事故となっている。
参考文献
- 小林元著、愛知県郷土資料刊行会発行『矢田川物語』
座標: 北緯35度12分32.8秒 東経136度59分60.0秒 / 北緯35.209111度 東経137.000000度 座標: 経度の秒が60以上です
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