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アブ・サヤフ

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アブ・サヤフ
جماعة أبو سياف
対テロ戦争に参加
アブ・サヤフが使用していた旗
活動期間 1991年 - 現在(※壊滅状態)
指導者 アブドラガク・ジャンジャラーニ(死亡)
カダフィ・ジャンジャラーニ(死亡)
活動地域 フィリピン
敵対勢力 フィリピン警察・フィリピン国軍
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アブ・サヤフ(アラビア語: جماعة أبو سياف‎, 翻字: jamāʿat ’abū sayyāf, タガログ語: Grupong Abu Sayyaf, 英:Abu Sayyaf Group, ASG)は、フィリピンイスラーム主義組織。

概要

フィリピン南部のホロ島バシラン島ミンダナオ島サンボアンガ半島などを拠点とする。フィリピン政府とアメリカ合衆国によってテロ組織に指定されている。

設立

アブ・サヤフを設立したのはフィリピン人イスラム教徒のアブドラガク・ジャンジャラーニ(Abduragak Janjalani)である。ジャンジャラーニはシリアサウジアラビアイスラム神学を学び、その後、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に対抗する為アフガンへ渡り、サウジアラビア人やアフガン人のムスリム組織「イスラム聖戦士」(ムジャーヒディーン)がパキスタン国境付近に作った7つの武装組織の内、アフガン人のアブドゥル・ラスル・サイヤフが指導する組織に参加した。ムジャーヒディーンには世界各国からイスラム教徒が参加し、フィリピン南部からも数多く志願していたが、彼もその一人であった。ジャンジャラーニはそこでウサーマ・ビン・ラーディンと会っている。

活動

ムジャーヒディーンはサウジアラビアの資金で運営され、CIAパキスタン軍統合情報局(ISI)が訓練を行っていたが、1989年ソ連軍が全面撤収し、冷戦が終わると、ムジャヒディーンにはその後続いた内戦に参加する者もいたが、ジャンジャラーニは故郷であるフィリピンのバシラン州へ帰り、ミンダナオ島周辺のイスラム社会をキリスト教徒(カトリック)中心のフィリピンから独立させることを目的に武装組織を結成した。モロ民族解放戦線(MNLF)からの過激な分派としてジャンジャラーニにはビン・ラーディンから設立資金が渡された、とされる。「アブ・サヤフ」はかつて共に戦ったアブドゥル・ラスル・サイヤフからとった名である。アブ・サヤフはアル=カーイダラムジ・ユセフなどから軍事援助を受けた。

アブ・サヤフはミンダナオ島でフィリピン警察や軍相手にゲリラ戦を行い、マレーシアインドネシアでも活動を行うようになっていったが、1998年にジャンジャラーニはフィリピン警察との銃撃戦で殺害される。精神的指導者を失ったアブ・サヤフは二つに分裂し、イスラム社会の独立運動より強盗や身代金目的の誘拐を繰り返す犯罪集団となり、絶頂期には4000人いた構成員も2000年頃には100人以下にまで減った。多くはモロ・イスラム解放戦線(MILF)などに合流したと考えられる。

末期

2000年中頃からフィリピンの大都市でテロが頻発するようになり、首都マニラでも高架鉄道の車両が爆破された。2000年4月に、ボルネオ島近くのシパダン島で、外国人の観光客など20人を拉致する事件を起こした。もともと治安は良くなかったが、さらなる急激な治安悪化は社会不安を引き起こし、大統領ジョセフ・エストラーダは失脚した。これらのテロは当初、共産主義勢力が起こしたのではないかと言われたが、2001年1月に就任したグロリア・アロヨは、アメリカ同時多発テロ事件以降、一連のテロはアブ・サヤフらイスラム系過激派の仕業として、米軍を巻き込んでミンダナオ島などで掃討作戦を行った。100名以下(50名程とも言われる)までに勢力を落としていたアブ・サヤフは、この作戦でほとんど壊滅したと見られる。

2007年1月、フィリピン国軍は最高指導者であるカダフィ・ジャンジャラーニが死亡したと発表した。他の幹部も死亡しており、弱体化が予想される。東南アジアのテロ組織ジェマ・イスラミアとの強い関連が指摘されている。

関連項目

外部リンク