吉川光夫
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北海道日本ハムファイターズ #34 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 福岡県福岡市東区 |
生年月日 | 1988年4月6日(36歳) |
身長 体重 |
178 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2006年 高校生ドラフト1巡目 |
初出場 | 2007年5月17日 |
年俸 | 7,000万円(2014年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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吉川 光夫(よしかわ みつお、1988年4月6日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。
経歴
プロ入り前
1988年に福岡県で生まれる。東区の香椎第三中学校時代に所属していたボーイズリーグで全国大会3位まで勝ち進む。県内の高校からの誘いもあったが、熟考の末に広陵高等学校へ進学する。広陵では入学当初から期待されて2年生の春から背番号1を付ける。制球難で四死球を出すことが多かったが素材は高く評価され、同野球部の中井哲之は、吉川について「入学当初から、『こういう子がプロに行くのだろうな』と思った」と後に雑誌のインタビューで言っている。甲子園出場経験は無く、3年生での全国高等学校野球選手権広島大会では、一学年下の野村祐輔(広島)、小林誠司(巨人)らを擁して優勝候補に挙げられたが、準決勝で制球を乱し井上晴哉らのいた崇徳高等学校に敗れている[1][2]。
9月25日のドラフト会議において、田中将大の交渉権獲得に失敗した北海道日本ハムファイターズが外れ1巡目として指名した[3]。
プロ入り後
2007年5月17日に初めて一軍に昇格し、同日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(東京ドーム)に中継ぎでプロ初登板を果たす。6月8日の東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初勝利。この試合は雷雨に見舞われたことによる降雨コールドゲームとなったため、一部マスコミでは「カミナリ王子」と呼ばれた。また、この試合のヒーローインタビューはベンチ内で行われた。その後、八木智哉・金村曉が故障で離脱したことで、その穴を埋める形で先発ローテーションの一角に定着し、2007年の日本シリーズでも高卒新人としては稲尾和久・堀内恒夫・石井一久以来となる先発登板を果たす。高校時代からの制球難に課題を残したが、初完投を完封勝利で飾るなどシーズン4勝を挙げ、先発陣がやや手薄な日本ハム投手陣に貢献した。
2008年は前年の活躍からさらなる飛躍を期待されて開幕から先発ローテーションに入ったものの、制球難が一層悪化し、7試合で2勝4敗・防御率6.23と調子の上がらないままセ・パ交流戦前に登録抹消、そのまま一軍に戻ることは無かった。
2009年も開幕を二軍で迎える。7月7日に年上の歯科衛生士と結婚。9月に一軍昇格を果たすと、少ない登板数ながら投球回数を上回るほどの奪三振数を記録したものの、相変わらずの制球難で四死球から点を取られるケースが多く、この年はシーズン未勝利に終わった。
2010年も4月に登板した試合で炎上し、当時のチームメイトだったダルビッシュ有にtwitterで名指しで批判された。その後も先発としては活躍できずにいたが、9月以降は中継ぎとして登板して、4試合4回2/3を失点0に抑えるなど復活の兆しを見せた。
2011年は先発ローテーション争いに敗れて開幕を二軍で迎える。5月末に昇格したものの不安定な投球は一向に改善されず、最少失点で抑えた試合でも打線の援護が無いなどの不運も重なって3年連続のシーズン未勝利に終わった。一方、二軍では好投を続け、イースタン・リーグ投手四冠王に輝いた。
2012年、4月1日の埼玉西武ライオンズ戦では黒星を喫したものの8回1失点と好投を見せ[4]、4月8日の千葉ロッテマリーンズ戦では1438日ぶりの勝利を挙げた[5]。交流戦では内海哲也と並ぶトップタイの4勝を挙げ、防御率1.42と安定した内容でセ・パ交流戦優秀選手賞(パシフィック・リーグ)を受賞した[6]。8月11日の西武戦では、新人以来5年ぶりとなる完封勝利を自身初の無四球で飾る[7]と、次の登板である8月17日のロッテ戦では自身初の2桁勝利をマークする[8]など、完全復活を印象付けた。最終的にはリーグ2位の14勝を挙げ、自身初のタイトルとなる最優秀防御率を獲得し、パリーグMVPに選ばれチームの優勝の原動力となるなど、前年までの不振を全て払拭したシーズンとなった。しかし、巨人との対戦となった日本シリーズでは一転して肘の痛みと変化球の制球に苦しみ、第1戦目、第5戦目と先発するがいずれもジョン・ボウカー(レギュラーシーズンの本塁打は3本)に本塁打を打たれるなど、いずれも敗戦投手になっている。
2013年は、チームトップの160.1回イニングを投げ2年続けて先発ローテーションを守るもリーグワーストの15敗を喫した。
プレースタイル
オーバースローから平均球速約144km/h[9]、最速152km/h[10]のストレートと落差のあるスライダー(パワーカーブとも呼ばれるが、本人はスライダーと認識している[11])、縦に割れるカーブを投げ分け[12]、稀にフォーク、チェンジアップも混ぜる[13]。ストレートを生命線としており、打者のタイミングを崩すことで取れる奪三振を重視するよりも、ボールの勢いでファウルを取れるような強いボールを投げることを意識しているという[14]。
2011年までは通算与四球率4.70と制球難に苦しんでいたが、2012年には与四球率2.33と改善。制球難を気にしすぎる余りに無駄な四死球を出して崩れるパターンが多かったが、2012年に監督に就任した栗山英樹からオープン戦終了時に「(吉川は)いい投手だから厳しくいく。1年間は褒めない。今年ダメだったら(自分が)ユニホームを脱がせる」など厳しい言葉をかけられた他[15][16]、「フォアボールは出しても良いから思い切り腕を振って投げろ」という言葉を実践することでその持ち前の球威が活き、「四球を出しても別にいい」と開き直ることや抑えることで身に付いた自信が制球力改善の要因になったと語っている[14]。
人物
![]() | この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。(2011年12月) |
- ドラフト指名後の記者会見で、目標とする選手を聞かれ「金本さんと二岡さんと福原さん(3人とも広陵高校のOB)を足して2で割った選手」と答え、翌日の新聞で記者に「とぼけている」とのニュアンスで報道された(真意は「3人の力を3で割るよりも2で割ったくらいの力を併せ持つ選手になりたい」で、吉川なりの高い志が込められている)。
- ゲーマーを自称しており、キャンプの持ち物にはゲームソフトを必需品としているという[13]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2007 | 日本ハム | 19 | 15 | 1 | 1 | 0 | 4 | 3 | 0 | 0 | .571 | 400 | 93.1 | 83 | 6 | 46 | 1 | 5 | 52 | 6 | 0 | 39 | 38 | 3.66 | 1.38 |
2008 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 0 | .333 | 158 | 34.2 | 39 | 7 | 22 | 1 | 0 | 23 | 5 | 0 | 24 | 24 | 6.23 | 1.76 | |
2009 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 77 | 16.1 | 19 | 2 | 10 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 17 | 12 | 6.61 | 1.78 | |
2010 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | .000 | 122 | 26.0 | 35 | 7 | 11 | 0 | 1 | 20 | 2 | 0 | 21 | 20 | 6.92 | 1.77 | |
2011 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | .000 | 175 | 38.0 | 45 | 4 | 20 | 1 | 1 | 25 | 1 | 0 | 20 | 20 | 4.74 | 1.71 | |
2012 | 25 | 25 | 5 | 3 | 2 | 14 | 5 | 0 | 0 | .737 | 668 | 173.2 | 108 | 6 | 45 | 1 | 4 | 158 | 3 | 1 | 35 | 33 | 1.71 | 0.88 | |
2013 | 26 | 25 | 1 | 0 | 0 | 7 | 15 | 0 | 0 | .318 | 686 | 160.1 | 150 | 10 | 57 | 0 | 5 | 125 | 3 | 0 | 72 | 59 | 3.31 | 1.32 | |
通算:7年 | 96 | 87 | 7 | 4 | 2 | 27 | 38 | 0 | 0 | .415 | 2286 | 542.1 | 479 | 42 | 211 | 4 | 16 | 421 | 20 | 1 | 228 | 206 | 3.42 | 1.30 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀防御率:1回 (2012年)
表彰
- 最優秀選手:1回 (2012年)
- ベストナイン:1回 (2012年)
- 最優秀バッテリー賞:1回 (2012年、捕手:鶴岡慎也)
- 月間MVP:1回 (2012年8月)
- 「ジョージア魂」賞:1回 (2012年度第12回)
- セ・パ交流戦優秀選手賞:1回 (2012年[18])
- 札幌ドームMVP:1回 (2012年)
記録
- 投手記録
- 初登板:2007年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス12回戦(東京ドーム)、7回表無死に3番手で救援登板、1回1失点
- 初先発:2007年5月25日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(札幌ドーム)、6回1失点
- 初奪三振:同上、1回表に青木宣親から空振り三振
- 初勝利・初先発勝利:2007年6月8日、対東京ヤクルトスワローズ3回戦(坊っちゃんスタジアム)、5回2/3を無失点
- 初完投勝利・初完封勝利:2007年7月12日、対オリックス・バファローズ15回戦(札幌ドーム)
- 打撃記録
- 初安打・初打点:2013年5月30日、対広島東洋カープ1回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、7回表に今井啓介から中前適時打
- その他記録
- オールスターゲーム出場:2回 (2012年、2013年)
背番号
- 34 (2007年 - )
脚注
- ^ 97校、16日間の軌跡 広島大会振り返って - 朝日新聞デジタル
- ^ “2013年プロ野球ドラフト 井上 晴哉”. スポニチ Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2014年2月17日閲覧。
- ^ “田中は抽選で楽天に交渉権 プロ野球高校生ドラフト”. 共同通信 (2006年9月25日). 2012年6月27日閲覧。
- ^ “吉川好投も無援…日本ハム 50年ぶり快挙ならず”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年4月2日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ ““斎藤世代”吉川1438日ぶり白星!連敗12で止めた”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年4月9日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ “吉川 100万円ゲット!6年目 1軍で初の表彰”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年6月22日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ “吉川 1857日ぶり完封!吹っ切れた栗山監督の言葉”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年8月12日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ “吉川 初の10勝 制球苦しみ6回110球も粘投”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年8月18日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ 『2013 プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2013年、108頁頁。ISBN 978-4-905411-11-6。
- ^ “吉川10K8勝! 102球目に自己最速152キロマーク”. スポニチ Sponichi Annex (2012年8月5日). 2012年8月6日閲覧。
- ^ 吉井理人「斎藤佑樹は二軍に落とすべきではなかった」Sportiva、2012年11月25日
- ^ “吉川、初対戦でG斬り ハム交流戦逆転Vへ望み残った”. スポニチ Sponichi Annex (2012年6月15日). 2012年8月6日閲覧。
- ^ a b 『週刊プロ野球データファイル』2012年85号、ベースボール・マガジン社、雑誌27203-12/19、5-6頁。
- ^ a b 真剛腕伝説Ⅱ 吉川光夫『週刊ベースボール』2012年29号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-7/2、14-16頁。
- ^ Yahoo Japan ニュース 【プロ野球】防御率No.1、吉川光夫(日本ハム)『6年目の覚醒』のワケ
- ^ “アスリートファイル 「ユニフォーム脱がせる」監督の言葉に奮起 日本ハム・吉川光夫投手”. MSN産経west (2012年7月23日). 2012年8月6日閲覧。
- ^ FFFFFのひちょりのキャンプ日記より
- ^ “交流戦、巨人内海投手がMVP 表彰選手発表”. 共同通信 (2012年6月21日). 2012年6月27日閲覧。