コンテンツにスキップ

金の卵 (労働者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。茶の水君 (会話 | 投稿記録) による 2014年3月14日 (金) 19:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

金の卵(きんのたまご)は、日本昭和時代(戦後期)に高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業から中学校卒業までで、義務教育の期間が9年間に延長された。この学制改革を契機に、昭和20年代から戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

概要

「金の卵」とはなかなか入手できない貴重な人材のことであり、高度経済成長期の求人難の時代の中学校卒業(中卒)または高等学校卒業(高卒)後の就職を希望している社会人のことで、1964年(昭和39年)に「金の卵」の言葉が流行語となった。後には、「ダイヤモンド」、「月の石」などとも言われたとされる[1]

新制中学が誕生した1948年(昭和23年)頃から昭和30年代をピークに活躍した中卒の若者が「金の卵」である。昭和40年代までの時期に高度経済成長を支えた労働者で、中学を卒業した後、高等学校(昼間部または定時制高校)に進学せず(進学できないため)、すぐ企業に就職した若者労働者のことである。「金の卵」のように貴重だというたとえからこのように呼ばれた。低賃金で長期間働くブルーカラー製造業建設業)の労働者や高度な技量がある職人となり技術を習得してくれる、公立中学を卒業したばかりの15歳の若者中小企業経営者にとって貴重な戦力だった。

戦前の高等小学校(基本は2年制)が新制中学として義務教育となることで、公立中学を卒業後社会に出る若者が生まれた。彼らが金の卵と呼ばれた。

学力が高くても家庭の経済的理由で公立中学校卒業後に工場に働きながら定時制高校に進学したものもいて、さらに大学の夜間学部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(15%~22%の高確率で)やめるものもいた。[2]

要因

人口経済学的要因

戦後の高度経済成長で、大企業のサラリーマンや公務員は高卒者や大卒者を採用したが、その結果、都市部(東京都、特に足立区)などの町工場や個人商店は人手不足であった。また農村では農業を跡継ぎの長男のみが相続して、次男以降は長男の扶養家族として農業の手伝いをするという、農家の次男・三男の雇用問題・生活問題・結婚問題があった。農村は一家の兄弟数が6人以上と人口が過剰であり、人出不足の都市部と人口爆発の農村部の人口利害が一致した。

教育学的要因(進学率)

昭和30年代~40年代当時では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。

経済学的要因

農業林業漁業第一次産業が中心の社会で自営業が多かったこともある。伊藤忠治議員のように全日制高校に進学して勉強したくても家庭の事情で進学できない若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が井沢八郎の『あゝ上野駅』の歌に共感したことに象徴されるように東北地方九州地方から4大工業地帯を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。

集団就職者としての金の卵

九州東北地方沖縄県からくる若者を、当時は「集団就職」と呼んでいた。

集団就職は、一説には1955年(昭和30年)から始まったとされ、東北からは上野駅までの就職列車が運行された[1]。ただし、これには異説もあり、当時の労働省の指導で「集団就職列車」の名称の列車が運行された時期の起点である1963年(昭和38年)を起点と見ることもでき、逆に実態としては1954年(昭和29年)以前からそうした列車が運行されていたとする説もある[3]。上野駅などでは、中小企業経営者が駅に出向きにいき、各就職先にグループ分けられていた。また九州や沖縄県などの離島からはフェリーが運行された。

集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行なわれており、集団就職列車には、そうした組織の職員が同乗していることもよくあった。秋田県では、県職業安定課や各地の職業安定所の職員が列車に同乗していた[4] 秋田県は、1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)までは、毎年5月の連休前後に、東京日本青年館で、関東地方に就職した集団就職者を対象とした激励大会が催し、県知事が出向いて挨拶するなどしていた[3]

「金の卵」の終焉~高校全入時代へ

昭和40年代まで続いた高度経済成長期から安定成長期(昭和50年代)に移ると合理化の一環で工場のオートメーション化が進み、それまで単純労働力として持て囃されていた金の卵は必要とされなくなった。オートメション化のため導入された機器は工業高校卒業の知識が必要で中卒者には手に余るものとなり、製造業界は高卒者優遇の時代に突入した。[5]

1970年代以降は経済が安定し各家庭の所得が増えたことや、1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で高校の義務教育化を政治公約にした日本社会党[6]や、昭和50年代に日本教職員組合が実施した「15の春を泣かせるな運動」により、中卒者の90%以上が高等学校に進学することで、高校へはほぼ全入となり、中卒の就職者は1割未満となった。

新人類世代が進学する頃には高校はほぼ全入時代となった。一般的な家庭の子供では、

  • いじめやその他の著しい非行による内申点の影響で高校への進学を禁止された者
  • 低学力や不登校などの学習面において高校への進学が困難な場合
  • 病気や障害などで高校への進学が不可能ないし困難な場合
  • 授業料や教科書代などの費用を払いきれない場合[7]

などの特殊な事情がない限り中卒者の大半が高校生となり、中卒者が即戦力とされた技術職は工業高校などの高卒労働者や外国人労働者が担うようになった。

また18歳未満の労働者は年少者として扱われるため、(労働者の体力や意欲にかかわらず)危険な作業や免許の取得がほぼ不可能[8]であったり、また労働基準法(第6章)の規定で深夜労働や時間外労働ができないなどの制約があることと、オイルショックによって経済が低迷したことから、労働基準法などの制約が多い中卒者(正確には15歳~18歳未満の者)の採用を控え中小企業でも高卒以上を採用することが一般的となった。

1965年(昭和40年)には高校卒業の就職者が中卒者を上回った。昭和40年代に高校進学率が上昇したことで義務教育のみの中卒者は急減した。1975年(昭和50年)に最後の集団就職列車が運行され、1976年(昭和51年)には集団就職は沖縄県のみとなり、「金の卵たる中卒者」の(金の卵の世代・金の卵の中卒労働者の時代)は終焉する[1]

現在における中卒労働者

高校への全入運動が定着し、高校への進学率が90%を超えたことで、「高校も(事実上の)義務教育」と化するようになる。

大学全入時代も到来し、大学の進学率も2009年(平成21年)には50%を超え、現在の日本では高学歴化が進行するようになった。

平成初期までは理容師美容師も「中卒」でもなることはできたが、現在では中卒で美容師・理容師になることはできなくなり、専門学校卒か高校を卒業して美容学校に入学する方法に変更されるなど、中卒者にとっての就職は敷居が高くなった。

一方で、調理師や伝統工芸、鳶職などの職人相撲力士競馬騎手伝統芸能の役者などは個人の技量や意欲に依存されやすいことから若年者が優遇され、高い学力を要求されないことから現在でも中卒後に仕事を始める人もいる。

トヨタ自動車に中卒後に採用されるトヨタ工業学園認定職業訓練を実施する職業能力開発校)をはじめとする企業内学校の社員兼生徒や、自衛隊に中卒後に採用される陸上自衛隊少年工科学校陸上自衛隊生徒)など、満15歳の中学校卒業後に就職するものもいて、これらの労働者はかつての「金の卵」と同じような雇用形態である。

日本国外における金の卵に類似する労働者の事例

ドイツ

ドイツでは初等教育を4年間受けて、中等教育は複線型教育であり、職業人向け学校(基幹学校、実科学校)に行くコースと高等教育向けの学校であるギムナジウム(日本の中高一貫校に相当)に行くコースに厳格に分けられている教育課程で「マイスター制」と呼ばれていて、中等教育機関への進学率はギムナジウムが約20%、実科学校が約33%、基幹学校が約47%であり、基幹学校卒業生の多くは就職し、工員や職人などになる人もいて現在でも日本のような学歴社会ではないのでかつての日本のような「金の卵」に近い雇用形態が未だに根付いている。

参考文献

  • 加瀬和俊著 「集団就職の時代 -高度成長のにない手たち-」 1997年(平成9年)
  • 青少年問題研究会編 「流入青少年実態調査報告書 -東京都における青少年の流入状況とその後の生活環境・勤務条件について-」1964年(昭和39年)
  • 昭和史戦後編、(著作)半藤一利
  • 早分かり昭和史、時代の流れが図解でわかる、(著者)古川隆久日本大学文理学部史学科教授
  • 「「青年の社会的自立と教育」に関する社会史的研究 : 昭和30年代(1950年代後半から1960年代前半)の秋田県における集団就職に関する資料調査」『教育学研究室紀要「教育とジェンダー」研究』第6号、2005年、8-19頁。  NAID 110007129877

脚注

  1. ^ a b c 畑川剛毅 (2011年7月2日). “昭和史再訪 集団就職始まる 昭和30年3月 金の卵、上野駅に降り立った”. 朝日新聞・夕刊. http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html 2013--03-15閲覧。 
  2. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁下段14行目~145頁4行目
  3. ^ a b 橋本,2005,p.11.
  4. ^ 橋本,2005,pp.10-11.
  5. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久145頁8行目~13行目
  6. ^ 1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)
  7. ^ 但し奨学金があれば対応できる場合もある。
  8. ^ 免許や国家資格の取得に関しては、おおむね「年齢の下限」のみで制限し、学歴で制限するケースは少ないため、所定の年齢に達すれば中卒者でも取得できる免許や資格はある(自動車・自動二輪の運転免許証危険物取扱者など)。