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カンボジアのイスラム教

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プノンペンのモスク

本項目ではカンボジアイスラム教について記述する。

概要

総人口の4%に当たる約40万人の[1]チャム族クメール系ムスリムとも)の大部分と、少数民族マレー人が信仰する宗教である。ピュー研究所2009年、総人口の1.6%に当たる236000がムスリムと推定している[2]

歴史

カンボジア付近は13世紀後半から14世紀以降、マレー系チャム族の王国であるチャンパ交易によりイスラム化が進展[3]。交易活動を通じて、マレー半島とも紐帯を築く。しかし、15世紀後半に入るとベトナム北部の大越の南下に伴い、チャンパが衰微を余儀無くされる[3]

フランスがインドシナ半島を統治していた時代には、チャム系ムスリムが居住する地域は厚遇を受け、自治的な扱いで対処[3]。一方、マレー半島との接触が希薄となった上、イギリスの支配下に置かれたマレー半島、緩衝国タイ、そしてフランスの勢力圏となったインドシナ半島という、分割的な体制に移行したため、チャム系ムスリムは急速に孤立化の道を歩んでゆく[3]

20世紀後半は、原始共産主義を旗印に粛清弾圧を行ったポル・ポト政権1975年 - 1985年)下で、ムスリムが激しい迫害に遭うこととなる[3]。このため、同政権時代にカンボジアから脱出したチャム系ムスリムの中には、隣国ラオスに身を潜めた者もいるという[1]

初期イスラムの背景

チャム系ムスリムは預言者ムハンマドの岳父の1人である[4]ザイナブ・ビント・ジャーシュを祖とするジャーシュ家の血を引く[5]。同家は617年から618年にかけて、アビシニアから海路を経由してインドシナ半島に到着したサバハ家の起こりであった[6]

チャム族の生活誌

チャム族には独自のモスクがあり、1962年には国内に約100ものモスクがあったという。カンボジアのムスリムは19世紀末、ムプティ、トゥク・カリフ、ラヤ・カリクそしてトヴァン・パケという、4人の宗教権威の下で共同体を形成することとなる。

チャム族のにある名士の寄り合いは、長老1人と博学者数人から構成。4人の高位聖職者と長老には免税特権があり、宮廷での主要国家的行事にも招かれている。カンボジアが独立を果たすと、他のムスリム系住民と共に、5名の議会の統制下に置かれた。なお、どのムスリム系住民の地域にも、地域やモスクを指導する長老や礼拝を先導するイマーム、そして日々の礼拝に忠誠を誓う者が存在。

プノンペン付近のチュロイチャングバー半島はチャム族の信仰の中心地とされ、数名のムスリム系高官が同地に居住している。チャム族の中には毎年、マレーシアクランタン州コーランを学びに行ったり、メッカ巡礼する者もいる。1950年代末の統計によると、チャム族の約7%が巡礼を完了し、その証としてフェズターバンを身に付けていたという。

一方、伝統的なチャム族は多くの古代ムスリムか、ムスリム以前の伝統儀式を固守。アッラーを全知全能のとしているものの、他の非イスラム的慣行も認めているのである。多くの点において、他のムスリムよりもベトナム沿岸部のチャム族に近いと言って良かろう。

伝統的なチャム族(とベトナムの同族)の宗教的権威は純を身に纏い、を剃髪。メッカへの巡礼や日に5回行う礼拝にあまり興味を示さないが、伝統的なチャム族は多くのイスラム教のや儀式を祝う。

正統派チャム族(チャム・ジュバ)は、14世紀から15世紀にかけてカンボジアに移住してきたジャワ人やマレー人との混血のため、マレー系住民と近しい関係にある[7]。実際、マレー系の習慣家族形態を取り入れ、マレー語を話す者も多い。メッカへの巡礼を行い、イスラム教の国際会議にも出席する。

伝統派と正統派によるチャム族同士の紛争が、1954年から1975年にかけて発生。例えば両者が村を二分、各集団がそれぞれ独自のモスクを有し、最終的には宗教組織を分離させるに至った。

なおチャム系ムスリムは、メコン川トンレサップ湖漁業に従事している関係上、河中にモスクを建てたり、浮船のスラウを中心に水上生活を営む[7]

迫害

クメール・ルージュ政権下における犠牲者の頭蓋骨

チャム族からの情報によると、132ものモスクがクメール・ルージュ政権下で破却され、ムスリムは信仰すら許されなかったという。カンプチア人民共和国政権以降、イスラム教は仏教と同様の自由が与えられることとなる。

ヴィックリーは1980年代半ばにチャム族が約158000人住んでおり、モスクの数が1975年以前とほぼ同じ水準になったとしている。1988年初にはプノンペン地域にモスクが6カ所、各県にも「相当数」あったが、かつては113人いたチャム族の高位聖職者のうち、20人しかクメール・ルージュ政権を生き延びていなかったという[8]

現況

通常の宗教活動が可能。これはイスラム教に仏教(カンボジア人の大部分が信仰する公認宗教)と同じ自由が与えられた、カンプチア人民共和国時代に始まったことである。チャム族も参政権と共に、全カンボジア国民と同様の民主的な諸権利を享受しているのである。

関連項目

脚注

  1. ^ a b エッセー/アジア カンボジアからの電子メール(2) カンボジアのムスリム チャム人とは 日本学術振興会特別研究員 笹川秀夫GEO GLOBAL
  2. ^ Miller, Tracy, ed. (October 2009) (PDF), Mapping the Global Muslim Population: A Report on the Size and Distribution of the World’s Muslim Population, Pew Research Center, p. 31, http://pewforum.org/newassets/images/reports/Muslimpopulation/Muslimpopulation.pdf 2009年10月8日閲覧。 
  3. ^ a b c d e 東南アジアの非イスラム地域におけるイスラム-東南アジア及び北東アジアのイスラム化とタイ及びベトナム等の交易圏の歴史的・地理的概観、並びにその考察- 北村歳治アジア太平洋討究
  4. ^ T.W.Arnold, 1913/1997, The Preaching of Islam, Delhi: L.P. Publications, p. 294 n.2.
  5. ^ en.wikipedia.org/wiki/Pangal accessed on 27 Nov.2010; en.wikipedia.org/wiki/Sa%60d_ibn_Abi_Waqqas ,accessed on 27 Nov.2010;en.wikipedia.org/wiki/Islam_in_China accessed on 27 Nov.2010.
  6. ^ en.wikipedia.org/wiki/Sa%60d_ibn_Abi_Waqqas ,accessed on 27 Nov.2010.
  7. ^ a b 今永清二「東北タイ・ラオス・カンボジアのムスリム社会の学術調査」
  8. ^ http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,428133,00.html
  • パブリックドメイン この記事にはパブリックドメインである、米国議会図書館各国研究が作成した次の文書本文を含む。Library of Congress Country Studies.
  • De Féo, Agnès (2005). Le royaume bouddhique face au renouveau islamique. Cahiers de l'Orient n°78, Paris 
  • De Féo, Agnès (2005). Les Chams Sot, dissidence de l'islam cambodgien. Cahiers de l'Orient n°78, Paris