味噌田楽
味噌田楽(みそでんがく)は、豆腐やこんにゃく、茄子や里芋などを串に刺し、砂糖や味醂を配合し、柚子や木の芽などで香りをつけた味噌を塗りつけて焼いた料理である。魚も同様に調理する事があり、これは『魚田(ぎょでん)』とも呼ぶ。「田」は田楽の略である。
歴史
平安時代末期に中国より豆腐が伝来し、拍子木型に切った豆腐を串刺しにして焼いた料理が生まれた。その後室町時代になると調味技術が進歩し、すり鉢の登場によって味噌がすり潰されて調味料として使われるようになり、永禄年間(1558年-1570年)頃には焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行、はじめは唐辛子味噌だったものがのち調味味噌となる[1]。その料理の、棒の上に白い豆腐が乗っている様子が、田植えの時に田の神を祀る田楽の、一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ている為に「田楽」の名が付いたと言われる[2]。「田楽」という呼び名の始めを、貞和6年(1350年)の祇園神社の記録とする説、永享9年(1437年)の『蔭涼軒日録』 が初見とする説、興福寺と東大寺の僧語とする説があり[1]、江戸時代初期の笑話集『醒酔笑』には、田楽法師が下に白袴をつけ、上に色ある物をうちかけ、鷺足に乗って踊る姿が、白い豆腐に味噌を塗る形に似ているという具体的な叙述が見られる。また江戸時代には以下の川柳が詠まれ、豆腐に味噌をつけて焼く田楽の語源を伝えている[3]。
- 田楽は 昔は目で見 今は食ひ
寒さをしのぐ冬の食べ物であったが、寛永年間(1624年-1645年)の頃には腰掛茶屋の菜飯につきものとなり、京都では祇園豆腐に木の芽味噌を塗り、春の訪れを知らせる木の芽田楽が評判になる[1]。江戸では、「上燗おでん」の振売が「おでん 辛いの」と呼びながら売り歩いた。浅草寺門前の田楽、千住真崎稲荷の真崎田楽が知られ、宝暦7年(1757年)頃には真崎稲荷の境内に、8軒並んで田楽茶屋があって繁盛していたという。なお、天明2年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』よると豆腐料理のうち、30パーセント近くは田楽である[1]。また江戸では、外で手軽に食べる料理が発達しており、味噌田楽は花見の時にも人気の食品であった。
- 短冊の 豆腐も売れる 花の山
各地の味噌田楽
近世に豆腐料理は人気でありさかんに料理技法の研究が行われ、加賀・越中・能登地方において、豆腐を串にさして囲炉裏で炙り焼いたものを田楽と呼ぶようになったほか、同様にして今宮地方の沙田楽(みなとでんがく)も田楽の古製とされる[4]。
また、元来は豆腐料理であり、ナスに味噌を塗って焼く料理は江戸ではしぎ焼きと呼ばれていたが、京阪などではこれを田楽といい[5]、コンニャク、サトイモ、シイタケなどの様々な物を素材として食べる料理となっていった。山間部などではサトイモや川魚を主体にした串焼きに近い田楽が供されている地域も多い。
愛知県豊橋市の「菜飯田楽」は、赤味噌の豆腐の田楽と菜飯をセットにしたものである。この「菜飯田楽」は東海道五十三次の吉田宿(豊橋市)の名物料理のひとつであったと言う。
同じ愛知県の津島市には、尾張地方中南部の名物でもある生麩を揚げて赤味噌を塗った「麩田楽」がある。
沖縄県では、タイモを茹でて搗き潰し、砂糖を加えて練り上げた「芋きんとん」のような料理を「でんがく」(リンガク)と呼ぶ。そのため、本土から来た観光客が居酒屋で「味噌田楽」のつもりで「でんがく」を注文し、出てきたそれに戸惑うことがあるという。
煮込み田楽
江戸時代には煮込み田楽が登場し、素材を出汁の中で温めてから甘味噌を付けて食べるようになった。
おでんの誕生
江戸では、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになっており、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘い汁で煮込むようになり、「おでん」が登場した。
江戸っ子は気が短いので、屋台で注文してから焼くことはもちろん味噌を付けることも待っていられず、また「ミソを付ける」に通じてゲンが悪いので、おでんは屋台で売られるなど大いに流行しながら各地へ広がっていった。
脚注
参考文献
- 岡田 哲 『たべもの起源事典』 東京堂出版、2003年、ISBN 4-490-10616-5
- 松下 幸子 『江戸料理事典』 柏書房、1996年、ISBN 4-7601-1243-X
- 興津 要 『食辞林』 双葉社、1997年、ISBN 4-575-15233-1