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呂五十七型潜水艦

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呂五七型潜水艦(L3型)
呂58
艦級概観
艦種 二等潜水艦
艦名
前級 呂五三型潜水艦(L2型)
次級 呂六〇型潜水艦(L4型)
性能諸元
排水量 基準:889トン 常備:920.1トン
水中:1,102.7トン
全長 72.72m
全幅 7.16m
吃水 3.96m
機関 ヴィッカース式ディーゼル2基2軸
水上:2,400馬力
水中:1,600馬力
速力 水上:17.1kt
水中:9.1kt
航続距離 水上:10ktで5,500海里[1]
燃料 重油:98トン
乗員 46名
兵装 短8cm高角砲1門
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷8本
備考 安全潜航深度:60m

呂五七型潜水艦(ろごじゅうなながたせんすいかん)は日本海軍潜水艦の艦級。L3型とも。同型艦3隻。

概要

L2型潜水艦の改良版で、魚雷発射管が45cmから53cmのものに変えられたほか、凌波性向上のため乾舷が高められるなど、艦形に若干の変更が加えられた。また本型からKチューブ(水中聴音機)が装備されている。

全部で3隻が1922年(大正11年)から翌年にかけて竣工した。第二次世界大戦時にはまだ就役していたが、老齢であったため予備艦として扱われ、主に練習潜水艦として活用された。戦争終結後の1945年およびその翌年に米軍によって処分された。

同型艦

※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

呂57

1922年(大正11年)7月30日竣工(三菱神戸)。当初の艦名は第四六潜水艦1924年(大正13年)11月1日呂号第五七潜水艦に改称。終戦時、小豆島甲標的の訓練支援。戦後付近で海没処分。1945年(昭和20年)11月20日除籍。
艦長
(心得)荻野仲一郎 大尉:不詳 - 1922年12月1日[2]
荻野仲一郎 少佐:1922年12月1日[2] - 1923年12月1日[3]
渡部徳四郎 少佐:1923年12月1日[3] -
(心得)森野草六郎 大尉:1924年5月30日 - 1925年12月1日
森徳治 少佐:1925年12月1日 - 1928年12月10日
(兼)阿部信夫 少佐:1928年12月10日[4] - 1929年11月1日[5]
佐藤寅治郎 少佐:1929年11月1日 - 1931年9月10日
宮崎武治 少佐:1931年9月10日 - 1933年1月21日
藤井明義 大尉:1933年3月25日 - 1935年2月28日
(兼)七字恒雄 少佐:不詳 - 1935年11月15日[6]
小泉騏一 少佐:1935年11月15日[6] -
稲田洋 大尉:不詳 - 1936年12月1日[7]
(兼)楢原省吾 大佐:1943年5月18日 - 9月1日

呂58

1922年(大正11年)11月25日竣工(三菱神戸)。当初の艦名は第四七潜水艦。1924年(大正13年)11月1日呂号第五八潜水艦に改称。終戦時、横須賀で訓練艦。1945年(昭和20年)9月15日除籍。1945年(昭和20年)10月、清水付近で海没処分。
艦長
宮崎平 少佐:1922年12月1日[2] - 1923年12月1日[3]
若林清作 少佐:1923年12月1日 - 1925年12月1日
佐藤勉 少佐:1925年12月1日 - 1926年3月1日
阿部信夫 少佐:不詳 - 1929年11月1日[5]
藤谷安宅 少佐:不詳 - 1932年12月1日[8]
長井長太夫(宏明) 少佐:1932年12月1日[8] -
(兼)藤井明義 大尉:1933年9月1日 - 1933年12月1日
小林一 少佐:1933年12月1日 - 1934年7月5日
(兼)原田覚 中佐:1934年7月5日 - 7月16日
七字恒雄 少佐:不詳 - 1935年11月15日[6]
(兼)小泉騏一 少佐:1935年11月15日[6] -
(兼)稲田洋 大尉:不詳 - 1936年12月1日[7]
日下敏夫少佐:1940年7月 - 9月

呂59

1923年(大正12年)3月20日竣工(三菱神戸)。当初の艦名は第五七潜水艦。1924年(大正13年)11月1日呂号第五九潜水艦に改称。終戦時、大竹海軍潜水学校で訓練艦。1945年(昭和20年)11月20日除籍。1946年(昭和21年)5月、伊予灘で海没処分。
艤装員長
(心得)古宇田武郎 大尉:1922年12月1日 - 1923年3月20日
艦長
(心得)古宇田武郎 大尉:1923年3月20日 - 1923年5月15日
(心得)醍醐忠重 大尉:1923年5月15日 - 1924年5月10日
石崎昇 大尉:1923年10月20日 - 1926年12月1日
(心得)八代祐吉 大尉:1924年5月10日 - 10月20日
駒沢克己 少佐:1926年12月1日 - 1928年12月10日
(兼)阿部信夫 少佐:1928年12月10日[4] - 1929年11月1日[5]
(兼)佐藤寅治郎 少佐:1930年6月5日 - 6月30日
今里博 少佐:1930年6月30日 - 1931年7月5日
大山豊次郎 少佐:不詳 - 1931年12月1日[9]
太田信之輔 少佐:1931年12月1日 - 1932年8月24日
大山豊次郎 少佐:不詳 - 1933年11月15日[10]
(兼)藤井明義 少佐:1933年11月15日 - 12月1日
(兼)原田覚 中佐:1934年8月15日 - 10月22日
山本皓 大尉:1934年10月22日[11] -
(兼)七字恒雄 少佐:不詳 - 1935年11月15日[6]
(兼)小泉騏一 少佐:1935年11月15日[6] -
(兼)稲田洋 大尉:不詳 - 1936年12月1日[7]
木梨鷹一 少佐:1938年12月15日 - 1940年3月20日
(兼)岩上英寿 中佐:1941年3月4日 - 4月28日
(兼)楢原省吾 中佐:1942年8月26日 - 10月15日

脚注

  1. ^ 『写真 日本の軍艦 第12巻』による。水中航続力は不明。
  2. ^ a b c 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  3. ^ a b c 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
  4. ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  5. ^ a b c 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
  6. ^ a b c d e f 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  7. ^ a b c 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  8. ^ a b 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
  9. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  10. ^ 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
  11. ^ 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目