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オウニー・マドゥン

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オウニー・マドゥン

オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン(Owney "The Killer" Madden、1891年12月18日 - 1964年4月24日)は、禁酒法の時代にアメリカで暗躍したアイルランド系のギャングスター。本名オーウェン・ヴィクター・マドゥン(Owen Victor Madden)。イギリスリーズ出身。

ストリートギャング

両親と共に職を求めてウィガン、そしてリバプールへ移り住んだ。1902年、前年に先に行った家族を追って渡米、アイルランド移民が多く住むニューヨークのヘルズ・キッチンに定住した。1910年代、地元のストリート・ギャングのひとつゴファー・ギャングの一員となり、ライバルギャングのハドソン・ダスターズと派手な抗争に明け暮れ、殺人等で数回投獄された。

1912年10月、ダスターズに襲われ8発の銃弾を浴びた。生き延びて復讐で相手方6人を殺した。

1914年、ダスターズ幹部パッチー・ドイル殺害の罪で9年の刑期で投獄された。

禁酒法時代

1923年出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ(ローレンス・フェイ)のタクシー会社が行っていたタクシーを使ったカナダ産ラム酒の密輸に加担した。間もなくダッチ・シュルツのヤミ酒取引に関わり、ハーレム地区でスピークイージー(闇酒場)やナイトクラブを運営した。有名ジャズハウス「クラブデラックス」をジャック・ジョンソン (ボクサー)から買取り、コットン・クラブをオープンした。人気音楽家のデューク・エリントンを友人のブー・ブー・ホフに頼みフィラデルフィアからニューヨークに呼び寄せて契約を結ばせた他、数多くの人気ジャズメンや歌手を引き抜き、客にヤミ酒を提供して繁盛した。コットン・クラブは1920年代のニューヨークのナイトライフのメッカとなった。1920年代]]にマドゥンと知り合いなら市長と知り合いなのと同じぐらいだと言われたほどの大物だった。

闇酒場の経営は、アイルランド系政治組織タマニーホールのジミーハインズの後ろ盾を得て警察の摘発から免れた。

密輸ビジネスの他、ランドリー業や石炭配送業も経営した。

ボクシング

1930年代に入ると密輸ビジネスをやめ、ボクシング興行に進出した。プロモーターとしてプリモ・カルネラの八百長試合などを手掛けた。後年ロッキー・マルシアノもプロモートしたと言われる。

1931年、5大ファミリーの再編と縄張り調整を終えたラッキー・ルチアーノに、アイルランド系ギャングの代表としてヘルズキッチンの縄張りを追認された。

ヴィンセント・コール

1931年7月、ダッチ・シュルツの元部下でシュルツと抗争していたヴィンセント・コールに仲間のディマンジを誘拐され、身代金に35000ドルを払った。

1932年、シュルツと共謀してコールの殺害を決めた。公衆電話から脅迫電話をかけてきたコールをマドゥンは引き止め、その間にコールはシュルツの刺客によりマシンガンで殺害された。たまたまコールを尾行していた警察が逃げるシュルツ一味の車を追いかけ、派手なカーチェイスを演じた。

同年、保釈の条件を破ったとして再び収監されたが、翌1933年に出所した。コール殺害関与を疑う警察から圧力を掛けられたため、1935年にニューヨークを去った。

ホットスプリングス

ニューヨークから逃亡後はアーカンソー州ホットスプリングスに居を構え、再婚した。同地で温泉カジノを備えた『ホテル・アーカンソー』を開き、全国の引退したギャングの世話をしたりしていた。1936年にはトーマス・デューイに追われたラッキー・ルチアーノを一時匿い、弁護士まで用意している。ホットスプリングス市長レオ・パトリック・マクラフリンに賄賂を贈り、八百長競馬など賭博・売春組織を運営した。慈善事業も行い、1943年にはアメリカ市民権を得て40年代は地元の名士として名が通った。

生涯を通じて豪奢な生活を好み、高価なスーツを身にまとい、複数の女性を引き連れた。若い頃に受けた体中の銃創で生涯苦しんだ。1930年代より当局にマークされており、1960年代前半マクレラン委員会の追及を受けたが、1965年肺気腫で死去し、300万ドルの資産を残した。

フランシス・フォード・コッポラの映画「コットンクラブ」でダッチ・シュルツらと共に実名で描かれた。

外部リンク