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ファイブ・ポインツ・ギャング

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ファイブ・ポインツ・ギャングは1890年代から1910年代にかけてニューヨークロウアー・イースト・サイド界隈にいたイタリア系のストリートギャング。リーダーはポール・ケリー。賭博・売春・組織的なスリ・略奪、また政治組織タマニーホールの政治闘争の下請けを行っていた。1900年代初頭にはバワリーのニューブリトンを拠点に最大勢力1500人を誇り、ユダヤ系ギャングのイーストマンズと抗争した(1903年9月のリヴィングトンの銃撃戦など)。バワリーの東部を支配したイーストマンズと縄張りが近接し 境界が決まっていなかったため争いが頻繁に起きた。

組織型犯罪の走りだったが、1900年代半ばタマニーホールが政策変更して選挙戦での武力行使を控えるようになり、1910年代ジョニー・トーリオフランキー・イェールら有力メンバーが別々の道を歩み始めると組織の連帯力を失い、禁酒法時代の幕開けとなる1920年頃までに自然消滅した。

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