イラン航空655便撃墜事件
![]() イラン航空の所有する同型機 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1988年7月3日 |
概要 | 誤認による撃墜 |
現場 | ペルシャ湾 |
乗客数 | 275 |
乗員数 | 15 |
負傷者数 | 0 |
死者数 | 290(全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | エアバスA300B2-203 |
運用者 | イラン航空 |
機体記号 | EP-IBU |
出発地 | バンダレ・アッバース国際空港 |
目的地 | ドバイ国際空港 |
イラン航空655便撃墜事件 (イランこうくう655びんげきついじけん、英語:Iran Air Flight 655) は、1988年7月3日にホルムズ海峡に停泊していたアメリカ海軍のミサイル巡洋艦「ヴィンセンス」がバンダレ・アッバース発ドバイ行きのイラン航空のエアバスA300B2(機体記号EP-IBU、1982年製造)を撃墜した事件である。子供66人を含む6カ国あわせて290人の乗員乗客が全員死亡した。「ヴィンセンス」は、攻撃してきたイラン小型砲艦を追ってイラン領海内4kmにいた。後、アメリカ側は非を認め遺族に賠償金を支払った。
イラン航空は、事故後も犠牲者の祈念として、テヘラン―ドバイ間に655便の名を使い続けている。
概要
背景
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/US_Navy_050415-N-8157F-106_The_guided-missile_cruiser_USS_Vincennes_%28CG_49%29_heads_toward_the_entrance_of_Pearl_Harbor.jpg/220px-US_Navy_050415-N-8157F-106_The_guided-missile_cruiser_USS_Vincennes_%28CG_49%29_heads_toward_the_entrance_of_Pearl_Harbor.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Iran_Air_655_Strait_of_hormuz_80.jpg/220px-Iran_Air_655_Strait_of_hormuz_80.jpg)
当時続いていたイラン・イラク戦争では、ホルムズ海峡を航行する対戦国以外の民間タンカーも攻撃の対象となったため、アメリカ海軍はその警護も兼ねてホルムズ海峡近郊で海軍の軍事演習を実施していた。それに対して、隣接する海域に位置するイランは挑発的な監視行動をとり、イラン空軍のF-14が連日発進した。
その上、事件に先立つ1987年にはアメリカ海軍のミサイルフリゲート「スターク」がイラク空軍機に誤射されて乗員37名が死亡する事件も起きており、両国の間には緊張状態が続いていた。
経緯
事件当時、「ヴィンセンス」は、中東機動部隊司令官であるレス少将(バーレーンに停泊中の「コロナド」に座乗)の命令により、「サイズ」(FFG-14) および「エルマー・モンゴメリー」(FF-1082) の2隻のフリゲートを戦術統制し、水上戦闘群の指揮艦として行動していた。当日早朝より、北東50マイルを航行するパキスタン商船が、イラン海軍の戦闘艇13隻の追尾・威嚇を受けていたことから、救援のために「エルマー・モンゴメリー」を派遣した[1]。
以後、時系列順に列挙する。
- 6時33分
- 「モンゴメリー」を支援するため、「ヴィンセンス」搭載のSH-60B LAMPSヘリコプターを派遣[1]。
- 9時15分
- 「ヴィンセンス」より派遣したSH-60Bがイラン軍戦闘艇より射撃を受けたため、「ヴィンセンス」は現場に急行、「サイズ」も近隣に移動[1]。
- 9時41分
- 中東機動部隊司令官の許可を得て、「モンゴメリー」および「ヴィンセンス」は、艦砲によりイラン軍戦闘艇との交戦を開始。イラン軍戦闘艇は反撃しつつ、北方のイラン領海に向けて後退[1]。
- 9時47分
- イラン航空655便、バンダレ・アッバース国際空港をドバイへ向けて離陸(定刻より30分遅れ)。
- バンダレ・アッバースは軍民共用空港であり、アメリカ軍はこの空港にイラン空軍のF-14が配備されていることを事前に察知していた。「ヴィンセンス」のレーダーはバンダレ・アッバース空港から655便が離陸した直後から機影を捉えていた。655便は民間旅客機の信号(ATCトランスポンダの反応電波)を出していたが、偶然にも「ヴィンセンス」は655便が離陸した前後にバンダレ・アッバース空港で待機していたF-14の信号を受信してしまう。このことが後に問題となる。655便は管制官からの指示通りにATCトランスポンダのモード3にセットして飛行していた。「ヴィンセンス」はスコークコードで民間機の可能性もあることを認識していたが、655便がバンダレ・アッバース空港離陸直後に受信したイラン空軍機のIFFコードも655便のIFFコードとしてそのまま追跡を続けており、接近してくる655便が軍用機である可能性も否定できないと判断した[1]。
- 9時50分
- 「ヴィンセンス」の51番砲(艦首側)が装弾不良。以後、艦尾側の52番砲の射界を確保するため、全力航走しつつ急激転舵を繰り返す。これにより、戦闘指揮所内は物品や資料が散乱し、大混乱に陥った。オペレーターは操作への習熟が不十分であり、コンソール・キーの誤操作回数は計23回に及んでいた。また交戦中に、同艦はイラン領海に侵入しており、これを根拠としたイラン軍からの攻撃を受けると懸念した[1]。
- 9時51分
- 「ヴィンセンス」の艦長は、中東機動部隊司令官に対して「イラン軍F-14戦闘機」(実際はイラン航空655便)の接近を報告。この時点で距離28マイル、距離20マイルまで接近した場合は攻撃する旨報告し、司令官もこれを了承[1]。
- 以後、「ヴィンセンス」は、655便に軍事遭難信号 (MAD) と国際航空遭難信号 (IAD) により警告したが、民間機であるイラン航空機にはMAD受信機は装備されておらず、パイロットはIADをモニターしていなかったか、モニターしていたとしても、警告の内容は針路、対地速度、飛行高度程度の情報のみで、便名や航空会社名すら含まれない漠然とした警告であり、655便が自機に対するものであると受け止めていなかった可能性が考えられている[1]。ただし、ブラックボックスは両方とも回収できなかったため詳細は今も不明である[2]。
- 「ヴィンセンス」は、高速で接近しつつある655便が民間機であるか、それとも警備艇をおとりとした共同作戦に参加する軍用機であるか判断がつきかねる状況に陥っていった。事実、警備艇との交戦中にヴィンセンスはイランの領海に侵入しており、領海侵犯を理由とした攻撃を受けかねない状況下にあった。「ヴィンセンス」の西方160海里付近にはイラン空軍のロッキードP-3哨戒機が遊弋し洋上偵察任務を続けていたこともあり、同艦の首脳部は、「戦闘艇と『イラン軍F-14戦闘機』、P-3哨戒機が連携した空海共同作戦である」との思い込みを元にした誤ったシナリオを信ずるに至った。「モンゴメリー」および「サイズ」では目標を民間機と識別していたが、イージスシステム搭載の「ヴィンセンス」は両艦よりも良質の情報を得ているものと判断してしまった[1]。
- 9時53分
- 「ヴィンセンス」よりイラン航空に対する最後の警告が行われたが、応答はなかった[1]。
- 同艦の戦闘指揮所 (CIC) 内が情報の錯綜に見舞われる中、655便は国際航空路上を速度を上げ、上昇を続けていた。しかしヴィンセンスはこれを加速しながら、降下し、攻撃体勢を整えていると誤って判断してしまった[1]。
- 9時54分
- 距離10マイル、高度13,500フィートの「目標」に対し、SM-2ブロックII艦対空ミサイルを2発発射、このうち少なくとも1発が命中し、これを撃墜した[1]。間もなくヴィンセンスは撃墜した「目標」が民間機だと気付いたが手遅れだった。
犠牲者
国際司法裁判所へイラン当局が提出した資料によると、655便に搭乗していたのは乗客274名、乗員16名。そのうちイラン人254名(乗員全員を含む)、アラブ首長国連邦人13名、インド人10名、パキスタン人6名、ユーゴスラビア人6名、そしてイタリア人が1名であった[3]。
事件後の反応
- 報道
- 事件後、自国民間機の公海上での撃墜(ヴィンセンスはイラン領海内に4km入っていた)に激怒したイラン当局はアメリカを含む各国の報道陣(日本からはTBSの筑紫哲也がレポートを行っている)を墜落現場の海域まで案内して遺体まで撮影させ、切手を発行するなど激怒した。なお、撃墜の模様はヴィンセンスに乗り合わせていたテレビカメラにより撮影されており、エアバスの機影をイラン空軍の戦闘機F-14だと上層部が判断して撃墜する様子が撮影されていた。この映像はその後公開された。しかし通常の民間旅客機と、レーダー反射面積が大幅に少ない戦闘機を間違う可能性は低く疑問が出されている。
- 補償
- 1996年2月22日、アメリカは撃墜によるイラン人犠牲者248人に対する補償6180万ドルの支払いに同意し、事実上自国軍の非を認めた形となった。ただし3,000万ドル以上と見積もられる航空機自体の補償は現在に至るまでなされていない。
この事件を扱った作品
メーデー!:航空機事故の真実と真相第3シーズン第6話「誤認」
関連項目
参考文献・外部リンク
- ^ a b c d e f g h i j k l 大熊康之「第4章 スプルーアンス提督のストレス状況下における意思決定」『戦略・ドクトリン統合防衛革命』かや書房、2011年、119-150頁。ISBN 978-4-906124-70-1。
- ^ Shooting Down Iran Air Flight 655、Iran Chamber Society, 2004年、2014年9月27日閲覧
- ^ Islamic Republic of Iran. Memorial of the Islamic Republic of Iran in the Case Concerning the Aerial Incident of 3 July 1988 (Islamic Republic of Iran v. United States of America). p. 15. 24 July 1990.