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国鉄スハ43系客車

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スハフ42形。車掌室は出入台の外側にある。写真の車両では、車掌室は奥の乗降扉の右側にある(仙台駅、1985年3月撮影)
オハ46形(高松駅付近、1984年撮影)

国鉄スハ43系客車(こくてつスハ43けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1951年から製造した客車の形式群である(用途の詳細については後述)。従来の客車と比較して、居住性を大幅に改善した画期的な客車であった。

本項では、関連性の高い特急用客車であるスハ44系客車についても記述する。

概要

国鉄が定めた正式な系列呼称ではなく、軽量客車と称された10系と従前のオハ35系との間に位置する、同一の設計思想によって製作された客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。スハ43形を代表としたスハ43系客車の呼称が一般的である。

具体的には、三等車スハ43形スハ44形スハ45形オハ46形、三等緩急車のスハフ42形スハフ43形スハフ44形オハフ45形、三等荷物合造車のスハニ35形特別二等車スロ53形スロ54形食堂車マシ35形マシ36形郵便車スユ41形スユ42形スユ43形、およびこれらの改造車が該当する。

また、1950年度に製造された特別二等車のスロ51形寝台車スロネ30形マイネ41形および郵便車のオユ40形についても、車体構造などに共通点が多いため、同じ系列に含めることが多い。

用途

本形式は急行列車への使用を主体とすることを前提に製造され[注 1]、その用途から書籍によっては急行形車両に分類されることもあるが[1]、一方で国鉄の現場などでは本形式を含めた10系以前の客車のことを一般形客車在来形客車旧型客車と独自に呼称していたが[2]、20系以降の新系列客車との対比で1両単位で管理されている従来の客車の呼称として便宜的に使われたものであり、本形式が製造された時点での規程上では存在しない正式な呼称ではない[注 2]。したがって、本形式を含めた10系以前の客車には「急行形」「一般形」などに分類される車両区分の概念は存在しない。

運用

本形式は前述のとおり車両上の区分を定めていないものの、優等列車用であるが、実際の運用では種別を問わず運用された。登場間もない頃は優等列車で使用され、急行列車だけでなく、特別急行列車にも使用され、1960年代以降は陳腐化に対処するため、室内灯の蛍光灯化・ドアの取り替え・内張りの取り替え及び塗りつぶし・窓のアルミサッシ化・扇風機の取り付けなどを行った近代化改造及び体質改善工事を施工した(1964年以降に施工された車両は区別のため、青15号に塗装された)車両のみが原則として急行列車に使用されていた[6]

1980年代初めまで、日本全国で急行列車に広く運用されたほか、急行列車への後継車の増備や置き換えにつれて捻出した車両は次第に普通列車にも運用されるようになっていた[7]。これは国鉄時代の客車に対する考え方にもよるが、10系以前の客車が製造された時代の客車には優等列車専用車両がほとんどなく、優等列車の性質上、新車の投入は優等列車が優先され、登場後しばらくは常に程度の良い車両を使用し、後継車両への増備や置き換えなどにつれて捻出した車両は普通列車にも使用する体裁を取っていたためである。

国鉄分割民営化直前まで定期運用され、JRへの移行後も少数の車両がイベント列車・観光列車で運用されている。

構造

戦前から戦後にかけて製作されたオハ35系の改良版として設計された。

外観

車体

鋼体化車両と称された、オハ60形(1949年)で採用された完全切妻形車体(連結面に後退角がない車体)を採用した。これにより客室の有効面積が広がり、わずかではあるが座席間隔も広くなった他、製造上も、デッキ部分の工数が減ってコストダウンにつながっている。

従来の緩急車は、出入り台と客室の間に車掌室を設けていたが、本系列ではオハ60系と同様、車掌室を車端部に移した。これは車掌の後方監視の改善に寄与している。

本車両の生産時期は、戦後復興が進展してきた時代であり、内外装の仕上げも、戦後の混乱期と比較して良好なものとなった。

台車

新型台車のTR47が採用された。これは、オハ35系のマイナーチェンジ版というべきスハ42形客車で採用された、ウイングばね式鋳鋼台車であるTR40の設計を基本としつつ、基礎ブレーキ装置を構成する連動てこ類の取り回しと枕ばね部分の設計を変更して乗り心地の改善を図ったものである。

TR47形台車(スハフ42形、大井川鐵道千頭駅

国鉄で戦前設計の在来形2軸ボギー客車に多用されていたTR23・34は、軸箱直上に圧縮コイルばねを置く軸ばね式台車であり、ばねの変位量を大きく設定することが困難で、かつ極端な過積載(400人程度)を想定していた[注 3]ため、枕ばねについて過大なばね定数が設定されており、乗り心地が悪かった。

これに対し、TR34の後継として側枠の一体鋳鋼化を実施したTR40では、基本設計に携わった扶桑金属工業がモハ63形用として国鉄に納入したTR37[注 4]で成功を収めた、ウィングばね式軸箱支持機構が採用された。枕ばねの設計こそ前世代のものが踏襲されたものの、軸ばねの変位量増大と2本のばねへの負荷分散にともなうばね定数の大幅引き下げ、それに揺れ枕吊りの延長による揺動周期の長周期化で、乗り心地が大きく改善されることが確認された。

本系列が設計された当時、優等客車は戦前以来の伝統でばね定数引き下げのために車軸数を増やし、3軸ボギー台車とするのが常識とされていた。しかし冷房装置などの追加にともない、床下機器搭載スペースの不足が問題となりつつあったことから、TR40での成果を受けて設計が見直され、本系列以後に新造される優等客車は、3軸ボギー台車ではなく通常の2軸ボギー台車を使用することが決定された。

この方針に従い、まず食堂車であるマシ35形・カシ36形用として、TR40の設計を基本としつつ緩衝ゴムの挿入や枕ばねのばね定数変更などを実施したTR46が、今後の標準台車試作の意味合いも込めて1950年に設計された。

更に、その枕ばねに用いる重ね板ばねを4列から2列に減らすなど、主として枕ばね周辺の設計を簡素化し、客車用標準型台車として設計されたのが、TR47である。

TR47は、より現実的に130人程度と見積もることでばね定数の大幅な引き下げを実現しており、これによりTR40と比較しても大幅な乗り心地の改善が実現した。ばねの適切な設定と、一体鋳鋼製側枠による高剛性によって振動が小さくなり、国鉄の旧型台車の中では格別に乗り心地の優れた台車の一つとなった。

しかし一方で、鋳鋼製の台車枠と軸箱守のため重量がかさむ上、ばね下重量が過大で軌道破壊が起きやすく軌道保守に負担を強いるという欠点があり、そのため後期形では側枠や軸箱守などの設計が変更され、軽量化が試みられている。

なお、このTR47はその優秀な性能を買われ、本系列群から捻出した他の用途への転用例も多く生じている[注 5]

車内設備

スハフ44形(近代化改装車)の内装。座席形状と通路側頭もたせが大きな特徴である
スハフ44形の座席側面に設けられた栓抜き。これが当初の形態であった
スハフ42形の座席テーブルに設けられた栓抜き

それまで、優等客車に比してアコモデーションが劣るのもやむを得ないとされてきた三等客車の接客設備であるが、43系ではこの面で著しい改善が見られた。設備自体の改善に加え、新しい着想による装備も追加して、旅客サービスの向上が図られている。

従来の客車では、車内照明は天井中央に1列で最小限であったが、43系では80系湘南電車と同様に2列配置とした。当時は、車載の蛍光灯照明は技術・コスト的に困難であり、まだ白熱灯照明ではあったが、照明数の倍増で、従来の客車に比べ車内は大幅に明るくなった[注 6]

座席は、背ずりの下半分の詰め物を厚くして腰への当たりを良くするとともに、スプリングも軟らかくされて座り心地が良くなり、長距離利用者に配慮したものとなった。シートピッチは15mm拡大され1470mmとされている。また、座席の通路側には固定式の頭もたせが付けられた。頭もたせは、特に夜行列車運用時には乗客に好評で、43系の後続形式である10系客車では窓側にも追加設置された。

客室とデッキを仕切る扉の戸車についても、従来は優等車に限って使用されていた防音戸車を採用し、車端座席の乗客の居住性改善を図っている。

便所は、80系湘南電車同様に便器を埋め込み式として、内装にタイルによるシーリングを行い、清掃をしやすくして清潔性を高めた。また、便所使用中に客室にその旨を知らせる表示灯も、この形式から採用された。客室端壁面に装備されたこの表示灯は、当初は赤ランプだったが、非常信号と紛らわしく乗客が不安になった事例があったため、後に橙色に変更された[注 7]

新製当初の初期形車では、乗客の利便性を考慮し、各座席下にくず物入れが設けられたが、運用してみると、清掃の手間がかかり過ぎるため、後に洗面所に大型のくず物入れを設ける方向に転換した。洗面所もしくはデッキへの大型くず物入れ設置は、以後の長距離用車両の標準装備となっている。

本系列群が登場した時代は、まだ市販の清涼飲料水は王冠で栓をした瓶に入って販売されているのが普通であり、栓抜きを忘れた乗客が、客車の窓枠や肘掛けに王冠を引っかけて瓶をこじ開けようとすることも珍しくなかった。このため、多くが木製内装だった当時の客車では、内装の損傷を招いた。

その対策として、本形式群の増備途中から、小さな金属板をコの字状に折り曲げた固定式栓抜きが装備されるようになった。王冠を栓抜きの下あごに掛け、瓶を手前に引き上げれば、栓抜きの上あごにより栓が抜ける仕掛けである。この単純だが実用的なアイデアが導入されたきっかけは、考案者である市井の一市民が、奇特にも国鉄に無償で使用権を寄付したことによるもので、当初は通路側肘掛け中央に装備された。のちには本系列群も含め、多くの国鉄長距離車両の窓側テーブル下に設置された。なお、本系列も後の近代化改造時に窓側に栓抜き付きのミニテーブルが取り付けられている。

形式別概説

基本形三等車

スハ43形

スハ43 2280。(松本駅、1977年)
0番台(スハ43 1 - スハ43 698、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
一般形として新製されたグループで、1951年から1955年にかけて新潟鉄工所、日本車輌、東急車輌、帝国車輌、日立製作所、川崎車輌、近畿車輌、汽車製造で合計698両が製造された。窓配置等の車体配置はスハ42形と同じであるが、車端部は同時期に改造されたオハ61形と同様に完全切妻形となっており、台車はTR40の基礎ブレーキ装置を電車と同じタイプとしたTR47に変更されている。スハ43 374以降のうち重量が軽い160両は 1956年にオハ46形に編入され、また オハネ17形およびオシ16形の改造時に改造種車のTR23(4両はTR34)と台車を振り替えた173両、オハネ17形を冷房化してスハネ16へ改造する際に、電気暖房車が装着していたTR23(2両はTR34)と台車を振り替えた158両がオハ47形となっている(そのうち、オハネ17形の電気暖房化改造の際に台車を振り替えた4両は元のスハ43形に復元)。さらに、1965年から1966年にかけて4両が車掌室などの緩急設備を取り付けてスハフ42形400番代に改造され、1973年から1977年の間に 北海道向けとして17両が500番代(後に700番代へ改番)または700番代に改造され、1978年から1981年の間には40両がスユニ50形に改造され、1979年に2両が保健車のスヤ42形に改造された。
700番台(スハ43 701 - スハ43 707)
北海道向けに改造されたグループで、1973年から1977年にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで17両改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。1973年から1976年の間に改造された11両は当初スハ43 501 - スハ43 511という車号であったが、オハ46に改番されずに残った500番代の車両と重複区分になっていたため、1976年に改めてスハ43 701 - スハ43 711に改番された。1978年に2両が緩急設備を取り付けスハフ42形500番代に改造され、1981年に1両が保健車スヤ42に改造された。

スハフ42形

スハフ42 2195。車掌室の側から見る。妻面に窓がある。(松本駅、1977年)
基本番台(スハフ42 1 - スハフ42 335、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スハ43形の緩急車版として製造された基本番台。車掌室は、従来車と異り乗降デッキの外側にあり、妻面には監視窓がある。
後に19両がスハフ42形500番台車に改造された。オールロングシート化され、オハフ41形(200番台)となったものや、軽量化改造を行いオハフ33形に編入された車両(スハフ42 18 → オハフ33 630)もある。1978年以降、一部の車両は郵便荷物車スユニ50形に台車などを流用された。
400番台(スハフ42 2401 - スハフ42 2404、全車電気暖房付き)
1965年から翌年にかけてスハ43形基本番台を緩急車改造して登場したもので、乗降デッキの内側に車掌室があることで、スハフ42新造車と区別できる。4両が改造された。4両とも電気暖房付きのため、車番は原番号に2000を足した番号である。
北海道向けのスハフ42形500番台に改造されたものが1両(スハフ42 519)ある。
500番台 (501 - 523)
スハフ42形の北海道向け改造車の番台であるが、種車が数車種ある。内訳として、スハフ42形0番台から改造されたものが19両(スハフ42 501 - スハフ42 518・スハフ42 520)、スハフ42形400番台から改造されたものが1両 (スハフ42 519)、スハ43形700番台から改造されたものが2両(スハフ42 521・スハフ42 522)、スハ42形の北海道向け改造車から改造されたものが1両(スハフ42 523) となっている。基本的にはスハフ42形の他番台と見た目は変わらないが、スハフ42 523は種車がオハ35形の最終製作グループと同一車体のスハ42形であったため、他の43系客車と異なりオハ35形と同様の妻面に後退角が付いた半切妻になっており、台車もTR40を装着していた。スハフ42 522は、オハ47形からスハ43形に復元された車両が種車である。なお、釧網本線で運用されていたスハフ42 520 - スハフ42 523は、車掌室部分の窓に住宅用の引き違い式アルミサッシを使用していた。

酷寒地形三等車

スハ45 13

北海道向けとして製造されたもので、客用窓が二重窓となっており、耐寒構造が強化されている。蓄電池は大型化され、車軸発電機も歯車駆動式が装備されている。

スハ45形

0番台(スハ45 1 - スハ45 53)
スハフ44形とともに北海道向けに製造された座席車で、1952年から1954年にかけて53両が製造された。車体の基本構成はスハ43形と同じであるが、客窓の二重窓化、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており、台車は歯車駆動方式の車軸発電機を使用している。外観はスハ43形に酷似している。後に5両が五稜郭工場で車掌室と緩急設備を取り付ける改造を施されスハフ44形に編入された。

スハフ44形

小樽市で保存されているスハフ44 7
0番台(スハフ44 1 - スハフ44 27)
スハ45形とともに北海道向けに製造された緩急設備付き座席車で、1952年から1954年にかけて日本車輌製造、川崎車輌、汽車製造で27両が製造された。車体の基本構成はスハフ42形と同じであるが、客窓の二重窓化、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており、台車は歯車駆動方式の車軸発電機を使用している。外観はスハフ42形に酷似している。定期運用の消滅に伴い、国鉄分割民営化までに大半が廃車されたものの、5両が保留車としてJR北海道に引き継がれてC62ニセコ号に使用され、1988年に1両がスハシ44形に改造されたものの、1995年(平成7年)の同列車の運用終了に伴い1996年(平成8年)に廃車[注 8]され、形式消滅した。
100番台(スハフ44 101 - スハフ44 105)
スハ45形に車掌室と緩急設備を取り付けスハフ44形に編入したグループで、1972年に五稜郭工場で5両改造された。前位側の座席1ボックス分を撤去して車掌室が設けられたため、出入台はスハフ44形0番代と異なり車体両端にある。

軽量形三等車

乗客にも現場にも好評だったスハ43系だが、積車重量が40トンの「ス」級であるため、長大編成を組む際には機関車に大きな負担となる問題があった。そこで、1955年には、各部の軽量化を図り重量を「オ」級に下げる改良を行った、オハ46形オハフ45形が製造された。車体構造や内装はスハ43系と同等であるが、屋根が鋼板製となったため、妻面のキャンバス押さえが省略され、雨樋も金属製となり、縦樋が円管状の細いものとなっていることなどが外観上の特徴である。台車はTR47であるが、側枠や軸箱守の素材に工夫を行う等により、軽量型となっている。

オハ46形

オハ46 13。オリジナル車で、鋼板製の屋根と屋根布押えのない妻面上部に注目。
基本番台(オハ46 1 - オハ46 60、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
軽量改良形として新製されたグループで、1955年に汽車製造、川崎車輌、日立製作所で60両製造された。基本構造はスハ43形と同じであるが、鋼板屋根化されているため妻面のキャンバス押さえが省略されており、雨樋も金属製の細いものとなっている。軽量化のため 内装の合板の薄板化、台車軸箱の薄肉化、連結器の材質なども変更されている。1965年から1967年にかけて11両が緩急設備を取り付けオハフ45形100番代に改造され、1981年から1983年の間に5両がスユニ50形に改造された。
スハ43形からの編入車(オハ46 374 - オハ46 398・オハ46 494 - オハ46 553・オハ46 599 - オハ46 628・オハ46 654 - オハ46 698、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スハ43 374以降のうち重量が軽く「オ」級に収まる車両をオハ46形に形式変更したグループで、1956年に160両が編入された。もともとスハ43形として製造されているため、外観上はスハ43形と全く同じである。1965年から1967年にかけて9両が緩急設備を取り付けオハフ45形200番代に改造され、1978年から1982年の間に9両がスユニ50形に改造された。

オハフ45形

基本番台(オハフ45 1 - オハフ45 25、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スハフ42形を設計変更し軽量化した車両である。1978年以降、一部の車両は郵便荷物車スユニ50形に台車などを流用された。
100番台(オハフ45 101 - オハフ45 111、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
オハ46形の基本番台に車掌室を追設し、緩急車に改造した車両である。種車の関係で車掌室は乗降デッキの内側に設けられている。
200番台(オハフ45 201 - オハフ45 209、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
オハ46形のうち、スハ43形から編入した車両を緩急車化改造した車両である。種車の関係で車掌室は乗降デッキの内側に設けられている。

スハフ42形は、元々スハ43形よりも自重が重く、計量しなおしても「オ」級になるものが存在しなかったため、スハフ42形からオハフ45形に編入された車両はない。

三等車(台車振り替え改造車)

オハ47形

オハ47 2261
オハ47 2266車内
0番台(オハ47 1 - オハ47 328、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スハ43形を種車として改造されたグループで、1961年から1969年にかけて盛岡、土崎、新津、大宮、長野、名古屋、松任、高砂、幡生、多度津、そして小倉の各国鉄工場で合計328両が改造された。オハネ17形またはオシ16形への改造(または電気暖房化、冷房化)に際して、種車の台車とスハ43形のTR47を交換しているためTR23を装着したが、一部の車両は台車の心皿、側受を改造したTR23F、または さらに円筒コロ軸受に改造したTR23Hを装着している。オハ47 164・オハ47 2168・オハ47 175・オハ47 2200・オハ47 2323の5両はTR34を装着するオハネ17形などと台車を交換したため、コロ軸受のTR34を装着している。1966年に4両がオハネ17形の電気暖房化に伴って再度TR47に台車交換したため元のスハ43形に復元され、さらに 1973年から1978年にかけて北海道向けとして8両がオハ47形500番代に改造され、1978年に1両が緩急設備を取り付けオハフ46形500番代に改造された。
500番台(オハ47 501 - オハ47 508)
オハ47形0番代を種車として北海道向けに改造されたグループで、1973年から1978年にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで8両が改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。1978年に1両が緩急設備を取り付けオハフ46形500番代に改造された。

オハフ46形

オハフ46 18
0番台(オハフ46 1 - オハフ46 30、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
オハ47形0番代(旧スハ43形)を種車として改造されたグループで、1965年から1974年にかけて大宮、長野、後藤、そして小倉の各国鉄工場で30両が改造された。スハ43形時代にTR47を他形式に供出しているため、TR23を装着しているが、一部の車両は台車の心皿、側受を改造したTR23F、または さらに円筒コロ軸受に改造したTR23Hとなっている。1973年から1977年にかけて北海道向けとして5両がオハフ46形500番代に改造された。
500番台(オハフ46 501 - オハフ46 507)
オハフ46形0番代・オハ47形を種車として北海道向けに改造されたグループで、1973年から1978年にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで8両が改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。オハフ46形0番代(旧オハ47形0番代←スハ43形)を改造したオハフ46 501 - オハフ46 505、オハ47形0番代(旧スハ43形)を改造したオハフ46 506、オハ47形500番代(旧オハ47形0番代←スハ43形)を改造したオハフ46 507の3タイプが存在する。
スハフ42形も、スハ43形と同様に台車交換を行いオハフ47形とする計画があったが、急行寝台列車の格上げによる特急寝台列車への移行が急速に進展しオハネ17形の製造が打ち切られたため、これは実現しなかった。

特別二等車(後のグリーン車

スロ51形

急行用として製造されたリクライニングシート付き特別2等車(特ロ、後の1等車→グリーン車)で、1950年に近畿車輌、帝国車輌、新潟鉄工所、日本車輌、東急車輌、川崎車輌、日立製作所で60両が製造された。基本設計は 1,100mmピッチのリクライニングシート付きのスロ50形と共通であるが、後の冷房化を考慮していなかったため、配電盤のスペースを省略し 専務車掌室と荷物保管室を若干狭くして定員を52名としている(スロ50形は48名)。台車はTR40の枕ばねを2連に変更したTR40Bを装着する。スロ51 5 - スロ51 10・スロ51 30・スロ51 31の8両は新製当初から北海道向け設備を装備していたため、1952年に別形式が付与されてスロ52形スロ52 1 - スロ52 8へ改番され、後になって北海道向け改造を行った11両についてもスロ52形スロ52 9 - スロ52 18へ改番された。全国の急行列車で使用されたが、1966年と1967年に4両がスロフ51形2両とスロフ52形2両へそれぞれ改造され、さらに1968年から1972年の間に2両が荷物車のマニ37形30番代、23両が全ロングシートの通勤形客車であるオハ41形350番代、1両が保健車のスヤ52形へそれぞれ格下げ改造され、残りの6両も1972年までに廃車となり形式消滅した。

スロ52形

北海道向けとしてとして新製されたスロ51形を改番した特別2等車(特ロ、後の1等車→グリーン車)で、1952年に8両が改番により登場した。窓配置等の車体配置はスロ51形と同じであるが、客窓の二重窓、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており(蓄電池箱は大型化されていない)、台車は歯車駆動方式の車軸発電機付きのTR40Bを装着する。1952年から1966年にかけて北海道へ転属したスロ51形8両についても旭川工場と五稜郭工場で同様な設備に改造されたため、スロ52 9 - スロ52 18として編入されている。なお、新しくスロ51から編入された8両は、最初に改造された8両とは車軸発電機の取付位置が違う。1968年と1969年に14両が全ロングシート車のオハ41形400番代に格下げ改造され、1969年に3両が保健車のスヤ52形に改造され、1両が廃車となり形式消滅した。

スロ53形

1951年に30両が製造された。座席間隔が1160mmに拡大され、現在につながるグリーン車の基本様式を確立した。

スロ60形・スロ50形・スロ51形の既存特ロ3形式における使用実績と乗客・乗務員の意見をもとに設計されたため、当時としては完成度の高い特別二等車とされるが、本形式で新採用したアメリカ流の鋼板製荷物棚は、忘れ物のトラブルが多発したため失敗と評価され、以降製造された国鉄の特急・優等座席車の荷物棚は長らくステンレスパイプ棚が採用された。

1957年から1958年にかけて、客車の近代化改装工事により側窓のアルミサッシ化と室内灯の蛍光灯化が実施され、1961年から1964年にかけて全車が緩急車化され、スロフ53形となった。本形式も冷房化改造を実施されなかったため、ロングシート化されてオハ41形・オハフ41形に、郵便車・荷物車に改造されてマニ37形・スユニ61形になったものがあるが、改造されなかったものは1975年までに廃車されて形式消滅となった。最後まで在籍したスロ53 2025(←スロ53 4)は、1971年に、松任工場で側廊下14畳敷に簡単な供食スペースを備え、側窓下にかつての三等車を意味する赤帯を巻いた「お座敷食堂車」に改造され、前年秋から運転されていた能登半島観光列車「ふるさと列車おくのと号」に連結されて1973年9月末の列車廃止まで運用に就いた。

スロ54形

スロ53に続いて特急用として製造されたリクライニングシート付き特別2等車(特ロ、後の1等車→グリーン車)で、1952年から1955年にかけて47両が製造された。

0番台
特急用として新製されたグループで、1952年から1955年にかけて近畿車輌、日本車輌、汽車製造で47両製造された。基本設計はスロ53形と変わらないが、新製時より室内灯に蛍光灯を採用したためスロ53形とは別形式となっている。スロ53形では荷物棚が鋼板製であったが、荷物の置き忘れが多いためステンレスパイプに変更されている。定員はスロ53形と同じ48名で、台車は防振ゴム付きのTR40Bを装着する。スハ43系としては唯一、冷房取付改造の対象形式となったため、1964年に2両が先行試作として床下冷房装置を取り付けマロ55形となった。残りの45両については 1966年と1967年に低屋根化して屋根上にAU13Aユニットクーラーを5台取り付け(電源はディーゼル発電機式)、重量増加を抑えるために台車をスハネ30形やスロ43形などのTR23DまたはTR23Eと交換した。床下冷房装置を取り付けた2両のマロ55形についてもスロ43形のTR23Eと振り替えて軽量化されたため、1965年にスロ54形に再編入された。さらに 1968年と1969年に11両が北海道向け改造を行いスロ54 501 - スロ54 511へ改造された。
500番台
北海道向けに改造されたグループで、1968年と1969年に五稜郭工場で11両が改造された。北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更された。

マロ55形

スロ54形の冷房化にあたり、先行試作として床下冷房装置を取り付け重量増加となり"ス"級から"マ"級となった1等車で、1964年に小倉工場で2両が改造された(番号はスロ54形時代の番号を踏襲)。改造では20系客車と同じAU21Cユニットクーラーとディーゼル発電機を床下に取り付け、ナロ20形と同様に座席部分の床下を100mmかさ上げして冷風ダクトを設けた。1965年に台車をスロ43形のTR23Dと交換して軽量化しスロ54形に再編入されたため、わずか1年で形式消滅となった。

一等緩急車(後のグリーン車)

スロフ51形

スロ51形を緩急車化改造した一等緩急車(後のグリーン緩急車)で、1966年と1967年に大船、高砂、小倉の各国鉄工場で8両改造された。改造では 専務車掌室に車掌弁を取り付け、出入台に手ブレーキを取り付けた程度である(6両は緩急車化改造と同時に電気暖房化も行われた)。改造後の番号はスロ51形時代の番号を踏襲したため飛番となっている。1970年に3両がオハフ41形に改造され、1970年と1971年に2両がオハ41形500番代に改造、さらに1972年に1両が保健車のスヤ52形に改造された。残る2両はそのまま廃車となり、形式消滅した。

スロフ52形

スロ51に緩急設備を取り付け さらに北海道向け改造を行った1等緩急車(後のグリーン緩急車)で、1966年に五稜郭工場で2両が改造された。改造では 車掌弁と手ブレーキを取り付け、北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造を施工しており、台車のベルト式発電機は歯車駆動方式の車軸発電機へ変更している。改造後の番号はスロ51形時代の番号と一致しない。1971年に1両が保健車のスヤ52形に改造され、残りの1両も同年廃車となり形式消滅した。

寝台車

マイネ41形

国鉄マロネ40形客車#マイネ41形(マロネ41形)参照。

スロネ30形

1951年に10両が製造された二等寝台車。前年に改造で登場したマロネ39形と同様、4人用のコンパートメント形式の寝室を8室設け、寝台は枕木方向に600mm幅の二段式寝台を設けた。のちのオハネ14形700番台に近い車内寝台配列であった。

寝台幅が在来のマロネ29形より狭く、区分室のため、見知らぬ客同士が同室になることへの抵抗感も手伝って、必ずしも評判は良くなかった。

マロネ29形が駐留軍輸送から返還され、より接客設備の良いオロネ10形が登場すると定期急行列車運用からはずされ、臨時急行や準急列車に使われたり、団体臨時列車に使われた。

冷房改造や二等寝台(二等級制時代の)への格下げ改造はされず、1970年までに余剰廃車またはマニ36形・マニ37形に改造されて姿を消した。

なお、1950年にGHQからの命令で進駐軍兵員輸送用寝台車として「マロネ31形・スハネ40形」を製造する計画もあったが、これは実現しなかった。

食堂車

マシ35形・カシ36形

カフェカー

スハシ44形

スハシ44 1

C62ニセコ号での運用の為、スハフ44 2を種車として改造された。内部は従来のシートから小テーブル付きのクロスシートに変更された上、カウンターが設置されている。 C62ニセコ号の運用終了に伴い他のスハフ44と共に廃車となったが、JR北海道のSLすずらん号運行の為、苗穂工場に運び込まれ再改造、再整備が行われ新たにだるまストーブが追加された。落成後はすぐSLすずらん号で運用されていたが、運行終了に伴い現在は、SL冬の湿原号の編成に使用されている。

郵便車

オユ40形

1951年に3両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。台車は電車用を改造したTR35Uを使用。1956年に締切郵袋室の拡大化改造(荷重8t化)を行い、スユ40形(0番台)に改称された。1972年までに全車が除籍された。

スユ41形

1952年に2両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。台車はTR23Aを使用。車内はオユ40形と同じで、新製時より室内灯に蛍光灯が採用されているため、通風器の配置がオユ40形と異なる。1965年に前位側荷物扉を両開き式に改造した。1972年までに全車が除籍された。

スユ42形

1953年から12両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。製造年次により形態の差異があり、1953年3月製造のスユ42 1 - スユ42 6は区分室採光窓が枠付の内傾式で、台車はTR23形を使用。同年11月製造のスユ42 11 - スユ42 13は同仕様の車体であるが、台車を防振ゴム付のTR40Bに変更。1954年以降製造のスユ42 14 - スユ42 16は区分室の窓をすべてHゴム固定式に変更し、作業環境改善のため床下に集塵機を設置、腰板部には通気口が設けられた。台車は変わらずTR40B。本形式の室内配置は後に製造されたオユ10形などの10系郵便車にも踏襲された。冷房は設置されず、1979年度までに全車が除籍された。

スユ43形

1956年に6両が製造された、国鉄郵便車初の護送便用郵便車。乗務員室が中央にあり、その前後に締切郵袋室、後位に車掌室がある。区分室はなく、その分荷重は13tに増加。東京駅 - 門司駅間の鉄道郵便路線(東門線)の輸送改善のために投入された。台車は全車とも防振ゴム付のTR23D。1両は火災のため1972年に廃車され、残存車もスユ15形などに置き換えられる形で1977年度までに全車が除籍された。

荷物車

マニ35形

200番台(マニ35 2201 - マニ35 2204、全車電気暖房付き)
元特急用のスハニ35形から改造された。台車はTR47を使用。
220番台(マニ35 2221・マニ35 2222、2両とも電気暖房付き)
オハニ40形から改造された。台車はTR23を使用。

200・220番台のいずれも両端に出入台を設け、前位には自転車置場、後位には便所、貴重品室、車掌室が配置されていた。後位にある種車の荷物室側の車掌室を再利用していたため、車掌室は、いずれも狭くなっていた。荷重は14t。

他に0・50番台が存在したが0番台はスハ32系、50番台はオハ35系に属する。

マニ36形

200番台(マニ36 212 - マニ36 216、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スハニ35形から改造された。台車はTR47を使用。スハニ35形時代に近代化改造工事を施工済みの車両は側窓がアルミサッシに更新されていた。
他の200番台はオハ35系に属する。
300番台(マニ36 332 - マニ36 337、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
スロネ30形から改造された。台車はTR40BからTR23に振り替えられている。荷物車化に際して後位に新たに出入台が設けられ、側窓は700mm幅に統一された。
他の300番台は60系に属する。

他に0番台が存在したがスハ32系オハ35系に属する。

マニ37形

パレットと一般荷物の輸送用として余剰座席車を改造した荷物車。新聞用A形ボックスパレットを積載するため、床は鋼板張りに改装され、パレット固定用のロープ掛けが装備されていた。荷重は14t。

30番台(マニ37 31・マニ37 32)
スロ51形から改造された。
60番台(マニ37 61 - マニ37 64、電気暖房付きは基本番号 + 2000)
スロフ53形から改造された。
100番台(マニ37 101 - マニ37 103)
スロネ30形から改造された。
200番台(マニ37 205)
マニ37 64から改造された。14系座席車と併結可能なようにブレーキ装置を変更した。
他の200番台は60系に属する。

30・60・100番台の各番台ともに台車はTR40BからTR23に振り替えられている。荷物車化の際、前位に新たに出入台が設けられた。

他に0・150番台が存在したが0番台は60系、150番台はスハ32系に属する。

救援車

スエ31形

0番台(スエ31 79・スエ31 182・スエ31 186)
1971年から1972年にかけてマニ35 2204・マニ35 2203・マニ35 2221から改造された。該当車両は1987年までに全車除籍された。
他の0番台はスハ32系オハ35系に、他の100番台はオハ35系にそれぞれ属する。

オエ61形

600番台(オエ61 602)
マニ37 102を1981年に幡生工場で改造した救援車で、外部色は青15号からぶどう色2号に変更された。
改造後は広島運転所(広ヒロ)に配置され、1987年に除籍された。
他の600番台は60系とスハ32系に属する。他に0・300の各番台が存在したが、0番台は60系に属し、300番台はスハ32系とオハ35系と60系に属する車両が混在する。

職用車

スヤ42形

2次形(スヤ42 2 - スヤ42 4)
スハ43形を改造した保健車。国鉄職員の健康診断を行うための巡回車両で、車内にレントゲン室、暗室、聴力検査室、診察室などを設けた。駅構内での留置状態で用いられることが多いため、その間の暖房用として温気暖房装置を搭載している。北海道内で用いられたが1986年までに全車が除籍された。
なお、スヤ42形は他に1両が存在したが、マロネ40形を改造した車両である。

スヤ52形

保健車の増備のため、スヤ52 1はスロフ52形、スヤ52 2 - スヤ52 4はスロ52形、スヤ52 5はスロフ51形、スヤ52 6はスロ51形からそれぞれ改造された。外観は一部窓が埋められているがほぼ原形を保っていた。スヤ52 2・スヤ52 5は単独で使用されるため両デッキ式に改造され、それぞれに入口、出口の表示があった。スヤ52 3・スヤ52 6は機器搬入出用の増設扉が特徴である。床下には独立した温気暖房装置を備え、構内に長時間留置中でも自車で暖房が可能である。スヤ52 1・スヤ52 6は2両1組で使用された。1986年までに全車が除籍された。

スハ44系

スハフ43 3(琴平駅、1985年)
スハフ43 19(1981年)

1951年に特急列車のサービス改善を目的として、戦前のスハ34形に相当する専用三等客車が設計された。

基本構造はスハ43形に準ずるが、デッキは特別二等車並みに片側のみとされ、車内は、2列配置の一方向き固定クロスシート[注 9]がシートピッチ835mmで通路の左右に配置されるなど、まだ戦災復旧車の70系や、窮屈な60系鋼体化客車が当たり前に使われていた当時の一般向け三等客車とは比較にならない、高水準なアコモデーションを備えていた。

このグループとしては、基幹形式であるスハ44形(スハ44 1 - スハ44 34)、緩急車として車掌室や手ブレーキ装置を持つスハフ43形(スハフ43 1 - スハフ43 3)、それに緩急車としての機能に加えて荷物室を持つスハニ35形(スハニ35 1 - スハニ35 12)の3形式49両が製造されている。

新造後は当初の計画通り、東海道本線特急「つばめ」・「はと」東北本線特急「はつかり」などの特急列車を中心に使用されたが、昼行特急はスピードアップのために電車化あるいは気動車化され、夜行特急は20系車両を使用した寝台車主体の寝台特急、いわゆる「ブルートレイン」に移行したため、冷房化されることもなく一般形車両に格下げ運用された。なお、この格下げに際して回転クロスシートに改修しているが、シートピッチの関係で向かい合わせ使用は不可能であった。また、スハニ35形は後に近代化改造工事で回転シートになった3両を除き、特急時代の一方向固定式のままであった。

1960から1961年にかけてスハ44形14両(スハ44 9 - スハ44 22)が緩急車へ改造され、スハフ43形10番台(スハフ43 11 - スハフ43 24)となった。また、1962年にはスハニ35形2両(スハニ35 2・スハニ35 3)がオシ16形改造の際、改造種車のTR23とTR47の振り替え対象となり、背摺りを木製で垂直のものに交換して、オハニ40形(同一番号)となったが、これらを含めてスハニ35形は全車、1965年以降荷物車であるマニ35形・マニ36形や教習車オヤ33形に改造され、1970年までに消滅している。

近代化工事

特急列車の相次ぐ電車・気動車化で余剰となったスハ44系について、観光団体専用列車や急行列車などへの転用が実施されることになった際、一つの問題が生じた。

それは、本系列の座席が終端駅での編成全体の方向転換を前提とする一方向固定式クロスシートであり、そのような運用が困難な団体列車や急行列車での使用に適さなかったこと[注 10]であった。

そこで団体・急行列車に転用される車両について各車の回転式クロスシートへの交換工事が実施されることとなったが、これにあわせ、10系客車などと比較して陳腐化が目立ち始めていた、内装の近代化改修もあわせて実施することとなった。

このスハ44系の近代化工事は時期により窓枠の構造が変更されたため、2種に大別される。

  • スハ44 1 - スハ44 8・スハフ43 11 - スハフ43 24・スハニ35 4 - スハニ35 6
    • 最初の近代化工事施工車。1960年度に施工され、客室窓枠のアルミサッシへの変更、照明の蛍光灯化、座席の回転クロスシート化、内張りの木材からメラミン樹脂化粧板への張り替え、客用扉の交換などである。このため無塗装のアルミサッシ窓枠に10系客車に準じた客用扉を備え、塗装も青15号を基本に車体裾部にクリーム色の帯を巻いた当時の観光団体列車専用塗装に変更されたため、新造時とは見違えるような近代的な外観となった。
  • スハ44 23 - スハ44 34・スハフ43 1 - スハフ43 3
    • 改造コスト削減のため、窓枠のアルミサッシ化と内張りの変更が見送られ、客用ドアの交換も行っていない。但し、後にドアを交換した車両は幾つか存在する。
    • 照明は、最初の近代化工事施工グループが直管の蛍光灯を使用しているのに対し、このグループは従来の灯具位置に設置可能な円環型の蛍光灯を使用している。客室内張りは、コストダウンのため従来のベニヤ板を塗りつぶす形となった。これも上記のグループが淡緑色系なのに対し、このグループは暖色系になっている。但し、1975年に四国総局に転属したスハフ43 2・スハフ43 3は1976年・1977年に多度津工場で体質改善工事を施工されている。このうち、スハフ43 3はトイレ、洗面所の窓がHゴム支持の固定窓となり、ウインドヘッダーも窓の上で切れている。
    • なお、本グループは当初車体色がぶどう色2号で出場している。

これらの近代化改造工事を施工されたグループは、当初は観光団体列車にオハネ17形などとともに運用されていたが、1964年の東海道新幹線開業後は、幹線系統の急行列車の普通指定席車に充当されるようになり、「瀬戸」・「明星」・「銀河」・「日南」・「つくし」・「さんべ」などの東海道山陽線夜行急行を主体に使用された。

その後は1970年代以降格上げによる特急列車への種別変更と、1975年の山陽新幹線博多開業で急行列車が激減し、また車両そのものの老朽化も進行したことから、最後まで本系列を使用していた急行「銀河」へ20系客車への置き換えが決定され、1976年をもってスハ44形の全車廃車と本系列の急行運用消滅となった。

もっとも、老朽化していたとはいえ60系よりは格段に良好なコンディションであったためか、車掌台付きのスハフ43形についてはその大半が当時大量の60系客車を抱えていた四国総局へ転属の手配がとられ、体質改善工事などの大がかりな更新修繕工事を実施の上で、国鉄分割民営化直前まで使用され続けた。

その後、1986年に日本ナショナルトラストの活動によりスハフ43 2・スハフ43 3の2両[注 11]が同団体に払い下げられ、現在も大井川鐵道で動態保存されている。

私鉄の同形車両

紀勢本線への乗り入れ列車を運行していた南海電気鉄道が、その専用客車としてスハ43形をベースとしたサハ4801形客車を保有していた。

現状

後に登場した10系軽量客車グループは車体構造などの問題から劣化が進行し早期に大量廃車となったが、本系統車両群は頑丈且つ丁寧な造りから、21世紀の現在でも本線上で運行される車両がある。

稼動車両

  • 東日本旅客鉄道(JR東日本):スハフ42 2173・2234・オハ47 2246・2261・2266
    高崎車両センターにスハフ42形が2両配置されオハニ36 11およびスハフ32 2357とともにイベント列車等で運用される。
    スハフ42形2両は、近年デジタル無線取り付け工事も施工され車掌室側妻面上部にデジタル無線用アンテナが追加装備された。
    2011年には全車両を対象に以下の整備工事が同年早春に同センター内で施工された。
    JR北海道所有車と同じ方式の集中鎖錠装置を搭載し乗降ドアを半自動化(電磁石により固定された全てのドアを磁力解放時にクローザーの引力を利用して閉めた状態でスイッチ操作によりロックを行う)。
    オハ47形のトイレを従来の線路垂れ流し和式から汚物処理装置を備えた洋式に改造(それ以前はスハフ42 2173が現存する旧形客車で唯一汚物処理装置を備えたトイレが使用可能な車両であり、他の車両のトイレは整備されておらず「使用停止」措置が採られていた。この工事と引き換えにスハフ42 2173はトイレ室を機械室に変更。
    バッテリーの再整備を実施し、スハフ42 2173・2234は尾灯のLED化を施工。
    工事完了後初の営業運転は2011年4月29日運転の「ELレトロ横川号」からで、蒸気暖房装置は同年初冬に整備が行われ2012年2月に運転された「SL内房100周年記念号」から使用が再開された。また同年9月にはスハフ42 2173を皮切りに室内灯を従来の蛍光灯から白熱灯風の雰囲気を模したLED灯に交換する工事が施工された。

静態保存車

店舗として利用

ライダーハウスとして利用

  • スハ45 26:北海道穂別町「富内鉄道公園」
  • スハ45 37・スハフ42 519:北海道平取町「振内鉄道公園」
  • スヤ52 2:北海道上川郡美瑛町「ライダーハウス蜂の宿」

休憩施設などに利用

保存・転用後に解体された車両

  • スハフ42 510:北海道網走市湧網線能取駅ホーム跡(2006年に解体)
  • スハ45 2:函館本線大麻駅レストラン「時館」(2009年に解体)
  • スハ45 19・48・49・51:北海道室蘭市の「ウインズ室蘭(2013年5月26日閉鎖)」(2012年までに解体)
  • スハ45 40:北海道余市郡余市町のラーメン店「ソーラン号ラーメン列車」(2014年6月頃解体)
  • オハ47 2079・2235:石川県白山市「松任青少年宿泊研修センター」(2014年12月解体)
  • スハフ44 4:北海道北見市で「とれいん喫茶 ゆうもう線」(2006年解体)
  • オハフ46 2008・2009・2027:浜松工場(2013年9月解体)
  • オハフ46 2029:金華山やまぼうし高原(福井県武生市)(2007年頃解体)
  • オハフ46 506:上士幌町鉄道公園(旧士幌線上士幌駅跡)(2010年解体)

脚注

注釈

  1. ^ 本形式に限らず、10系以前の客車は戦災復旧車である70系と鋼体化改造車であるオハニ63形(後のオハニ36形)以外の60系の普通車を除いて長距離優等列車で使用することを前提に設計され、三等車(普通車)についてはそのほとんどがデッキ付きの2ドアクロスシートで製造されており、独立した便所と洗面所も備える。
  2. ^ なお、国鉄では「客室に出入口を有し、横型(ロングシート)及び縦型腰掛(クロスシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のもの」を一般形に定義しているが、この概念を採用した客車は50系客車のみであり、10系以前の客車には国鉄が定義した一般形の区分を当てはめるには難があり、一部を除いて必ずしも通勤輸送にも適した車両とは言い難かった。岡田誠一は10系以前の客車には正式な意味で急行形[3]や一般形に分類されるものではないことを言及している[4][5]
  3. ^ ラッシュアワーのすし詰め状態となる通勤電車(TR23系台車は電車付随車にも使用された)を除けば、平常ではあり得ない過大荷重である。
  4. ^ 社内呼称FS-1、後のDT14。
  5. ^ 旧形客車改造の軽量寝台車オハネ17形制作時には、乗り心地改善のために大量に捻出転用され(この結果、新形式のオハ47形・オハフ46形が出現した)、更に、はるか後年のオリエント急行日本運行(1988年)に際しては、搭載車の自重が「マ」級以上となることからばね定数の変更を実施し、オリエント急行用客車の日本国内運行用台車に流用された。
  6. ^ 1960年代以降、近代化改造工事に併せてサークライン型の蛍光灯に交換されている。
  7. ^ 現代の車両では乳白色のものが採用されている。
  8. ^ 4両全てが保存・再利用されている。
  9. ^ 当時の特急列車では、終端駅で編成単位での方向転換を実施し、展望車が最後尾となるようにするのが常識であり、本系列の一方向固定クロスシートの採用も、その常識が前提であった。
  10. ^ これは本来の用途である特急でも問題となった。京都駅 - 博多駅間運行であった特急「かもめ」では、京都方では、梅小路のデルタ線使用で極めて短時間での方向転換が可能であったものの、博多方での編成の方向転換に博多駅→吉塚駅志免駅酒殿駅香椎駅→吉塚駅→博多駅、と福岡近郊の路線群を引き回す必要があった。その作業には実に1時間43分もの時間が浪費され、費用面でも深刻な問題であったため、早期に10系客車への置き換えが実施されている。
  11. ^ 当初はスハ44形の面影を留めるスハフ43 11 - スハフ43 24の譲受を希望していたが、交渉の段階で既に最後の1両が飲食店に払い下げられており、やむなくこれら2両の譲受となったという。
  12. ^ 2011年10月31日に西日本旅客鉄道(JR西日本)宮原総合運転所(現・網干総合車両所宮原支所を除籍廃車。
  13. ^ カットされ保存されている。
  14. ^ この2両はC62ニセコ号で運用された車両である。
  15. ^ 元々は船の科学館フローティングパビリオン羊蹄丸」船内で展示されていたが、同船の展示廃止解体により同車がオークションにかけられ真岡鐵道が落札入手した。
  16. ^ この2両はC62ニセコ号で運用された車両である。
  17. ^ 店舗として使用。
  18. ^ レストランとして使用。
  19. ^ 道の駅てっくいランド大成で飲食店として使用後、同町内の「バーベキューハウスメーメー」に移設し店舗として使用。
  20. ^ カラオケルームとして使用。
  21. ^ 休憩室として利用。
  22. ^ 展示室として使用。
  23. ^ 客車劇場・客車文庫として使用。

出典

  1. ^ グランプリ出版 塚本雅啓『戦後日本の鉄道車両』p.88
  2. ^ イカロス出版『J-train』vol25 p.41
  3. ^ 交友社『鉄道ファン』No.413 p.50
  4. ^ ネコ・パブリッシング『Rail Magazine』No.336 p.9
  5. ^ JTBパブリッシング 岡田誠一『国鉄鋼製客車Ⅰ』 p.239
  6. ^ イカロス出版『J-train』vol.25 p.27
  7. ^ グランプリ出版 塚本雅啓『戦後日本の鉄道車両』p.90
  8. ^ 『鉄道ファン』2012年7月号 交友社
  9. ^ 真岡駅「SLキューロク館」がオープン - 鉄道ファン・railf.jp(2013年4月29日)2013年9月10日閲覧。
  10. ^ スハフ44 25が真岡駅構内に到着 鉄道ファン・railf.jp 2012年7月11日

参考文献

  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2002年6・7月号 No.718・719 特集:スハ43系 I・II
  • グランプリ出版 塚本雅啓『戦後日本の鉄道車両』

関連項目

  1. ^ 地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。