コンテンツにスキップ

大江挙周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。英丸 (会話 | 投稿記録) による 2016年3月6日 (日) 14:08個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大江挙周(菊池容斎『前賢故実』)

大江 挙周(おおえ の たかちか、生年不詳 - 永承元年(1046年6月[1]は、平安時代貴族式部大輔大江匡衡の子。正四位下式部大輔

経歴

父匡衡と同様紀伝道に進み、方略試に及第[2]一条天皇東三条殿行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて蔵人に任ぜられた[3]文章博士・東宮学士を経て、後一条天皇侍読を務め式部大輔に至った。一方で地方官として、丹波三河守和泉守を歴任した。

逸話・説話

挙周の出世が伸び悩んでいる時に、母の赤染衛門藤原道長の妻倫子に歌を送った。

おもへきみかしらの雪をうちはらひ 消えぬさきにといそぐ心を
(頭にふりかかる雪を打ち払いながら、雪のように我が身が消えないうちにと急ぐ心を、どうぞお察し下さい)

頭の雪=自分の白髪とかけ、年老いつつも息子を案じる母の心を詠んだ歌であるという。

道長はこの歌を見て同情の心が湧き、挙周は和泉国国司に任じられた。だが挙周は国司赴任中に病にかかってしまった。挙周の病は重くなる一方であったので、赤染衛門は京から急いでかけつけ、住吉神社で息子の治癒を祈願した。御幣には一首の歌が添えられていた。

代はらむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲し
(息子の命と代えようと言う私の命は惜しくないけれども、そうして息子と別れるならばやはり悲しいことであるよ)

自分の命を捧げても惜しくはないので、息子だけは助けてほしいという歌であった。やがて挙周の病は全快したが、母の行動を伝え聞いた挙周は同じように住吉神社に赴き、「母が死んでは生きてはいけないので、母が捧げた命は自分の命で補ってほしい」と祈ったという。

以上の説話は『赤染衛門集』、『今昔物語集』巻第二十四に収められるほか、『十訓抄』巻十、『古今著聞集』巻五などの説話集にもとられて広く流布した。(本記事の歌は『今昔物語集』の本文による。)

系譜

脚注

  1. ^ 続本朝往生伝
  2. ^ 『権記』長保3年9月26日条。なお、『本朝文粋』巻3にはその際の答案が採録されている。
  3. ^ 『御堂関白記』寛弘3年3月4日条。『江吏部集』にも同様の趣旨の記述がある。

参考文献

脚注