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南方開発金庫

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南方開発金庫 (なんぽうかいはつきんこ英語: Southern Development Bank) とは、南洋開発金庫法に基づいて1942年 (昭和17年) 4月に発足し、GHQによって活動中止を指示される1945年(昭和20年) 9月まで、現在のフィリピンからミャンマーにかけての南方方面で金融業務を行った特殊法人。現地の日本企業に対して融資や送金業務を行ったほか、南方開発金庫券の発行、日本軍への貸付など、当地にて実質的な中央銀行としての役割をはたしていた。

新聞などで使用された略称は南発南発金庫南方金庫など。

誕生まで

南方経済懇談会

かねてより南方に対して関心をもち、ビジネス展開していた企業や業界団体は、それぞれ南方に関する団体を組織しており、これらが並立している状態にあった。しかしこうした状態では、それぞれが持つ能力やリソースを分散させてしまっていた[1]。そこで、こられが一つにまとまり組織を作ることによって、南方経済開発を担う企業の連絡・連携を図り、またこれらを代表して政府との調整を行うことが期待された[2]

日本商工会議所 (日商) を中心として南方経済開発に取り組む組織作りが行われることになったが、まずその前段階として、1941年 (昭和16年) 7月11日、東京の東京商工会議所を会場として、南方経済に関する懇談会が開催された[1]。この懇談会では、日商の藤山愛一郎会長以下、各業界団体幹部が30名ほど集まった。この会合の中で、南方経済懇談会の設立と設立要綱が承認された[1]。 この承認を受け、南方経済懇談会の組織化が進められた。9月19日には、同懇談会の発起人として、日本経済聯盟会郷誠之助会長以下102名が、藤山愛一郎の下で選ばれ[3][4]、同月25日に帝国ホテルにて創立総会が開催された。この総会において、藤山愛一郎が会長に選出、同懇談会就任した[5][6]

財界が南方開発のために結集した南方経済懇談会は、その後政府や軍部に対して主に経済的視点から建議を行うことが度々あった。これらにおいては、現地開発を行う同懇談会参加企業の意志を政府に伝えるとともに、政府・軍部による現地の経済・金融運営に対して慎重さを求めるものまで、内容は多岐にわたった。

南方方面に関する業界のまとめ役であり、政府・軍部との交渉役を担った南方経済懇談会であったが、南方以外の外地の経済団体である社団法人東亜経済懇談会 (会長:石渡荘太郎) と合流するため、1942年 (昭和17年) 5月28日に解散した[7] [8]

南方開発金庫法

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が勃発した。日本軍による南方方面への軍事展開によって統治下に治めていったが、日本は必然的に現地の行政や経済運営を担うこととなった。このうち金融分野においては、現地の中央銀行機能をはたす政府機関が必要となった。そこで、この役割を担う機関を設立するための根拠法となる南方開発金庫法案の衆議院提出を1942年 (昭和17年) 1月6日に閣議決定した後、実際に同月22日に提出された。太平洋戦争勃発から1カ月たらずで進攻先に中央銀行設置を決定したのは、かつて満州事変支那事変発生から中国大陸各地での金融統治が実施されるまで長い月日を要してしまったため、このことを教訓として南方方面では速やかな関係機関の設置と統治を目指したものであった[9]

政府による南方開発金庫法案の提出を受け、衆議院側は同法案の重要性を考慮、通常の委員会ではなく36名からなる南方開発金庫法委員会を設置し、他の法案から独立した専門委員会で集中審議を行った[10]。この結果、同年1月30日に同委員会にて同法案が全会一致で原案通り可決し[11]、翌31日には衆議院で可決成立した[12]

展開

設立

1942年 (昭和17年) 1月31日に南方開発金庫法案が衆議院にて可決成立したのを受け、南方開発金庫を立ち上げるための具体的な作業が行われた。

法制面においては、同法は3月1日に施行[13]、またこれに伴う施行令が3月7日に公布された[14]。組織作りについては、3月20日に賀屋興宣大蔵大臣を委員長とする南方開発金庫設立委員会が発足[15]、3月中に幹部職の人選が行われた。また、部課長級の任命は4月に行われた[16]。資金面については、政府が資本金として1億円を拠出した。 このような経緯をへて、南洋開発金庫は同年4月に業務を開始した。

経営陣

南方開発金庫のトップである総裁には、大蔵省出身で南満州鉄道副総裁を務めた佐々木謙一郎が初代総裁として就任した[17]。副総裁は、日銀理事で大阪支店長の武井理三郎が任命された。理事には、陸軍海軍大蔵省といった官公庁、横浜正金銀行台湾銀行などの政府系金融機関、および日本製鉄など民間企業出身者が就いた。この中には、弁護士や貴族院議員を兼務している者もいた[18]

支店展開

南方開発金庫は、東京に本金庫 (本店) を設置する一方、南方各地に6つの支金庫 (支店) を展開した。支金庫の名称・所在地と設置年月は以下の通り。

  • 比島支金庫 所在地:マニラ市ビノンド地区、開設:1942年7月1日。
  • ジャワ支金庫 所在地:ジャワ島バタビヤ (現ジャカルタ) バタビヤ駅前、開設:1942年7月1日。
  • マライ支金庫 所在地:昭南島 (現シンガポール) 、開設:1942年7月1日。
  • ビルマ支金庫 所在地:ラングーン、開設:1943年6月14日。

業務

南方開発金庫法第1章2条によれば、南方開発金庫は「南方地域に於ける資源の開発及び利用に必要なる資金を供給し併せて通貨及び金融の調整を図ること」を目的としていたが、具体的な業務は政府の南方開発政策と密接に関係していた。

政府の南方経済政策

南方を統治下に置いた日本政府にとって、大東亜共栄圏の構築とそのための戦争遂行、現地統治は優先事項であった。とりわけ日本企業に対しては、南方方面での自由主義に基づくビジネス展開を認めなかった[19]、具体的には、現地で生産された天然資源等のリソースは、民間企業よりも日本軍が優先して使用すること、企業が現地の経済開発によって上げた利益は内地の本社ではなく現地社会に還元するなど、現地の民間企業による日本政府への協力を当然のものとした[20]

業務内容

南方開発金庫法案が提出さる際に閣議決定された南方開発金庫法案要綱によれば、この時点で想定していた南方開発金庫の業務・役割の内容は、以下のようなものであった[21]

  • 投資、融資、預金、通貨の交換、為替売買など、一般的な銀行業務を実施する
  • 民間企業も含め、南方資源の開発に用いられる一切の資金は同金庫が一元的に供給する
  • 投資や融資において損失が出た場合は、政府が損失補てんを行う
  • 資金は、内地の円や独自に発行した通貨ではなく現地通貨を用いる

現地の金融機関との関係においては、同金庫が親銀行の役割を果たすとする[22]一方で、現地で流通させる通貨や軍票等の発券機能を同金庫には持たせないとしていた[23]

発券銀行化

南方開発金庫は、設立当初は発券機能を有していなかったが、戦況の変化によって変化が生じた。

1943年 (昭和18年) 、戦費が政府財政を逼迫し始めたため、南方で展開する日本軍の予算については、南方開発金庫券という現地でのみ流通する紙幣を発行し、それを日本軍に貸し付けることで賄うこととなった。通常、政府の予算はそれに見合った税収や国債等によって賄われるが、この措置は政府からの独立性が高いはずの通貨発行機関からの借り入れという形で、紙幣を大量に発行させるものであった。現地経済の実態にそぐわない不換紙幣の大量発行は、著しいインフレーションを呼び起こすものである。

同年2月、賀屋大蔵大臣は国会で日本軍への貸し付けのための南方開発金庫による金庫券の発券を明言した[24]。また同月、衆議院の委員会審議において青木一男大東亜大臣は、南方開発金庫券は南方の現地の人びとに対する長期公債のようなものであり、インフレが発生しないよう注意しつつ南方開発金庫が発券、日本軍が現地にて物資調達のために支払いを行えば現地経済が活性化する、と答弁した[25]

また、南洋開発金庫券の発券に伴う現地社会でのインフレ発生や長期公債化に対しては、大東亜共栄圏建設のための現地社会の人びとによる経済面での役割分担であるとして、これを肯定する見解が、当時の日本側から示されていた[26]

このような議論の末、昭和18年度の臨時軍事費特別会計予算270億円のうち、33億円分を南方開発金庫から借り入れることが決定、同年4月より現地にて南洋開発金庫券の発行が開始された[27]。さらに翌19年度においては同じ予算枠組みで、70億円が南洋開発金庫券の発券を通じて南方開発金庫から現地日本行政機関に貸し付けられた[28]

南方開発金庫券

蘭領インドシナで使用された10グルデン軍票(1942年)

戦後

1945年 (昭和20年) 8月の終戦に基づくGHQの占領政策において、南方開発金庫と南方開発金庫券は戦後処理の対象となった。

GHQと大蔵省声明

9月16日、大蔵省は内外の通貨について声明を発表した。この中で大蔵省は、日銀が発行する通常の円と連合国が発行するB号円表示補助通貨を法定通貨とする一方 (同一、二)、「日本政府及陸海軍の発行せる一切の軍票及占領地通貨は無効且無価値とし一切の取引において之が授受を禁止す」 (同四) とし、南方開発金庫券は日本国内外において価値のない存在となった[29]

続いてGHQは9月30日、日本政府に対し、「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖に関する覚書」を交付した。この中でGHQは、南方開発金庫をはじめ、戦時金融金庫朝鮮銀行台湾銀行など21の銀行・金融機関を閉鎖機関に指定、即時閉鎖を命じた[30]

引揚者と軍票収用

終戦とともに、南方方面を含め内地以外で暮らしていた日本人が引揚者として国内に戻る動きが起きた。その中には、南方開発金庫券を含めた (元) 紙幣・通貨や通帳、証券類を所有していた者もいたが、GHQはこれらが持ち込まれることによって国内でインフレが発生するのを懸念した。そこで各地の税関や領事館は、これらの持ち込みの上限を一般人は1,000円、軍人は200 - 500円に設定、これを超える金額については預かり証を発行して預かった[31]。預かり制度は返還が始まる1953年 (昭和28年) 8月まで続いたが、この時点で44万3,000人分の約134万9,000点の資産等が留め置かれた[32]

残された法律

南方開発金庫は、GHQによって1945年 (昭和20年) 9月30日に業務停止を命じられて以降、そのまま消滅していった。これに対して同金庫の根拠法である南方開発金庫法は、実行性は喪失しているものの現存している。なお、関連法規の改正に伴い1946年 (昭和21年) と1953年 (昭和28年) に二度改正されたことがある[33]。同法が施行されて50年を経過した1993年に、実効性を失っている法律の一つとして話題となった[34]

南洋開発金庫券の返還

税関等が預かっている軍票等は、1953年 (昭和28年) 8月に外為法が改正されたのを受けて返還が始まったが、返還事業は現在まで続いている[35]。2012年現在、全国の税関で合計27万人分の資産が、いまだに引き取り手が現れぬまま税関の事務所に留め置かれている[31]

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c “南方経済懇談会(仮称)”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1941年7月12日) 
  2. ^ “透視板/南方経済団体の結束”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1941年7月12日) 
  3. ^ “設立発起人、決る 南方経済懇談会”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1941年9月20日) 
  4. ^ “南方経済懇談会発起人決定”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): pp. 2. (1941年9月20日) 
  5. ^ “南方経済懇談会創立 きょう発起人会”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1941年9月26日) 
  6. ^ “南方経済懇談会創立総会 会長に藤山氏”. 読売新聞 夕刊 (読売新聞社): pp. 1. (1941年9月26日) 
  7. ^ “南方経済懇談会の解散総会”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): pp. 2. (1942年5月29日) 
  8. ^ “南方経済懇談会、解散と決定 東亜経済懇談会に合流”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年5月29日) 
  9. ^ “社説/南方開発金庫の設置”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年1月7日) 
  10. ^ “独立委員会へ 南方金庫法案”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1942年1月23日) 
  11. ^ “南方金庫法案委員会可決”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年1月31日) 
  12. ^ “衆院本会議”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1941年7月12日) 
  13. ^ ““南方金庫法”来月1日施行”. 読売新聞 夕刊 (読売新聞社): pp. 1. (1942-0-25) 
  14. ^ “南方金庫法施行令あす公布”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): pp. 2. (1942年3月6日) 
  15. ^ “南方開発金庫設立委員”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年3月18日) 
  16. ^ “南方金庫の機構本極り▽戦時金融金庫の陣容”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): pp. 2. (1942年5月1日) 
  17. ^ “小倉前蔵相起用 戦時金融金庫初代総裁 ほか”. 読売新聞 夕刊 (読売新聞社): pp. 1. (1942年3月25日) 
  18. ^ “南方金庫副総裁 武井理三郎氏に決定”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年3月31日) 
  19. ^ “南方開発金庫設置 金融部面より高度統制/臨時軍事費から開発資金を貸付 資本金1億円政府出資 南方開発金庫案要綱”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年1月7日) 
  20. ^ “[大東亜経済建設の指標]=1 南方開発金庫=A 開発は軍需材優先”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): pp. 2. (1942年2月18日) 
  21. ^ “南方開発金庫法案 要綱決定”. 読売新聞 夕刊 (読売新聞社): pp. 1. (1942年1月7日) 
  22. ^ “南方開発金庫 現地既存機関との関係”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1942年1月25日) 
  23. ^ “南方開発金庫 現地の通貨を利用 発券は行わず 活動範囲は占領地域”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 2. (1942年1月25日) 
  24. ^ “南発券、軍票に代替 現地軍費も金庫が融資 蔵相言明”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1943年2月9日) 
  25. ^ “南発からの借入れ、長期公債に類似 原住民には物資で裏附け”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1943年2月26日) 
  26. ^ “決戦財政の確立 議会論議に見る18年度予算 増税になお弾力 共栄圏の協同を具現”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1943年2月17日) 
  27. ^ “南方開発金庫あすから発券 2支金庫増設”. 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1943年4月1日) 
  28. ^ “臨軍特別会計歳出入の内訳<表>”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1944年1月25日) 
  29. ^ “B号円表示補助通貨 進んで受領 大蔵省声明 等価で無制限交換”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1945年9月17日) 
  30. ^ “満鉄、鮮銀、台銀など、即時閉鎖を指令 最高司令官、役員の罷免も命令/建物立入りも禁止”. 朝日新聞 朝刊 (東京: 朝日新聞社): pp. 1. (1945年10月1日) 
  31. ^ a b “[戦災の記憶](1)保管財産 13万人の思い 返し続ける(連載)=神奈川”. 読売新聞  (東京, 横浜: 読売新聞社): pp. 23. (2012年8月13日) 
  32. ^ “引き揚げの記憶 倉敷市役所で展示 相談呼びかけ 税関保管 紙幣や軍票=岡山”. 読売新聞  (大阪, 岡山: 読売新聞社): pp. 29. (2015年2月3日) 
  33. ^ 【法令沿革一覧】南方開発金庫法”. 国立国会図書館 日本法令索引. 2015年8月12日閲覧。
  34. ^ “効力ない法律197件も 総務庁「スクラップにも手間かかります」”. 毎日新聞 東京夕刊 (毎日新聞社): pp. 2. (1993年1月26日) 
  35. ^ 保管証券返還のご案内”. 大阪税関. 2015年8月12日閲覧。