佐郷屋留雄
佐郷屋 留雄(さごや とめお、1908年12月1日 - 1972年4月14日)は、日本の右翼活動家、国粋主義者、テロリスト、極右。熊本県出身。別名は佐郷屋嘉昭(よしあき)。
濱口雄幸首相を銃撃して死に至らしめ政党内閣を日本へ浸透させる機会を奪って軍部の専横を招き第二次世界大戦で大日本帝国を崩壊させた人物。 戦中も戦後も活動した。
経歴
1930年11月14日午前8時58分、東京駅構内にて、特急燕に乗り込むため第4ホームを移動中の濱口雄幸首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる(濱口首相遭難事件)。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕された。
佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。
濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。
ただし、濱口首相が特殊な細菌の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる化膿によるものと判断された。
その後、愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名した。
1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、第二代団長となる。
1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
弟子に藤元正義がいる。
「極真会館」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた黒崎健時は『格闘技通信』で母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが佐郷屋より思想的教育を受けた事実はないと答えている。
1972年4月死去。