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チリ・クーデター

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チリ・クーデターとは、1973年9月11日チリで発生したクーデターの事。

サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合Unidad Popularは1970年自由選挙により政権を獲得した。しかし、反発した富裕層やに(そしてアメリカに)支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発し、遂には1973年陸軍のアウグスト・ピノチェト将軍、空軍のグスタボ・リー将軍らがクーデターを起こした。首都サンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共に大統領宮殿に篭城したアジェンデ大統領は最後のラジオ演説を行った後自殺(他殺または戦死説あり)した。

以後、軍事政府評議会による独裁政治が始まり、労働組合指導者などが監禁、拷問、殺害された。

1970年選挙

   候補者   得票数 %
アジェンデ 1,070,334  36.30% 
 アレッサンドリ  1,031,051 34.98%
トミッチ 821,000 27.84%
総計    2,922,385   

人民連合はアジェンデを、国民党は前大統領のアレッサンドリを擁立。キリスト教民主党はトミッチ。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。この間に、10月22日、陸軍総司令官であったレネ・シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。シュナイダー将軍が「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であり、アジェンデ排除のクーデターを画策する右派勢力にとって邪魔だったためだと言われる。陸軍のビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。

アジェンデ大統領の任期中

諸改革が行われ、当初は経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を越え、大統領選当時より大幅に支持を伸ばした。しかし、反共を掲げるテロ組織が次々に誕生するなど次第に政情が不安定化する。また、アメリカが経済制裁、右翼勢力に対する公然非公然の支援などによって政権打倒の動きを強める。特に、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことが、チリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。また、国有化政策や社会保障の拡大などの経済改革はインフレと物不足を引き起こし、その結果、政権末期には、チリ経済は極度の混乱状態に陥った。

しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。

1973年8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。

クーデター

1973年9月11日、ピノチェト将軍がクーデターを起こしホーカー・ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで大統領官邸(通称モネダ宮殿)は炎上した。アジェンデ大統領は降伏を拒否し、炎上するモネダ宮殿内で自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデ大統領に死因については自動小銃による自殺説が有力だが、反乱軍によって殺害されたという者もいる。

政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、多くの左翼系市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラもいた。彼が殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。

前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。

クーデター以後

多くの左翼系市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察DINAの爆弾テロによって暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月にはキリスト教民主党のフレイ前大統領の元で副大統領を務めていたベルナルド・レイトンが亡命先のイタリアで襲撃され、重傷を負う。

76年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエルが滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で爆殺される。この件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、カーター大統領が態度を硬化させ、一時関係が悪化する。その後、関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、東西冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは90年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。

これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、チリだけでなくブラジル・アルゼンチン・ボリビア・バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権が非公然に共同して互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦の一環だったことが、今日では知られている。

国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。もちろん、ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を、公表しようともしなかった。

ピノチェトの独裁政権は、1989年に民政移管し、キリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。尚、2005年9月、チリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられた。


参考文献

  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。
  • 増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史Ⅱ 南アメリカ』山川出版社、2000年。
  • ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。
  • 朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。
  • ジョアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。
  • アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。
  • J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。
  • 伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。
  • 高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。

チリ・クーデターとピノチェト軍事政権を題材にした作品

小説

日本

ラテンアメリカ

米国

  • トーマス・ハウザー/古藤晃訳『ミッシング』ダイナミック・セラーズ 1982年 ※下記映画の原作

映画

音楽

など

その他

関連項目

外部リンク