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ロシア革命

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ロシア革命(ロシアかくめい)とは、1917年ロシア帝国で起きた2度の革命、特に史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命(十一月革命)を指す。 なお、"二月革命"、"十月革命"は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ"三月革命"、"十一月革命"となる。

防護巡洋艦アヴローラ
10月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献した。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争にも参加しており、バルチック艦隊の中でウラジオストク到着に成功した3隻のうちの一つである。現在はサンクトペテルブルクネヴァ川に保存されている。

経緯

前史

ロシアでは1861年農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じる事を怠っていた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。

日露戦争での苦戦が続く1905年には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市ででソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン(正式にはクニャースィ・ポチョームキン=タヴリーチェスキイ)のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ギェオールギイ・ポビェドノースィェツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。

これに対し皇帝ニコライ2世十月勅令ドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

その後ドゥーマが開設されると、首相ストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺や第一次世界大戦への参戦で改革の動きそのものが停滞してしまった。

一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いからウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍に対する苦戦が伝えられるとその党勢を拡大していった。

二月革命(三月革命)

詳細は二月革命参照

二月革命は食糧不足を原因に市民が帝政への不満の声を上げた散発的な抗議デモから始まった。市民の不満はロシアの第一次世界大戦への参戦継続にも向けられた。抗議デモが数日の内に全ペトログラードにまで拡大をとげると、様々な革命的政党が活動を始めた。三月前半には首都の連隊に所属する多くの兵士も反乱を起こし、多くの市民を巻き込んで抗議運動は猛烈なものとなった。これらの動きを見た政府や軍首脳は専制の継続を無理と判断し、ニコライ2世に退位を勧告し300年におよぶロマノフ朝は終わりをつげた。

二月革命から十月革命の間に、多数の無政府主義者および共産主義革命論者は革命の拡大を試みた。7月にペトログラードのボリシェヴィキは労働者階級および無政府主義者と共同して市民の蜂起を試みたが、この動きは臨時政府により鎮圧された。

臨時政府の成立と二重権力状態

ファイル:Soviet Union Lenin.jpg
1930年代スターリン時代の検閲により写真はカットされている
本来右半分にはトロツキーの姿があった

二月革命後にドゥーマ議員、特にカデットを中心として臨時政府が発足した。その一方で労働者や兵士の意見を代表するソヴィエト(この頃はメンシェヴィキ、社会革命党が中心であった)も発足しており、この両権力が連携して政権運営がなされた。

社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、従来の英・仏・露による同盟関係を尊重し、対ドイツ戦を継続する姿勢をとった。これにはソヴィエトも当初は同調していたが、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車に乗り帰国すると、"平和とパンの要求"(四月テーゼ)を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判した。しかしこの時点ではボリシェヴィキはソヴィエトにおける少数派にとどまっていた。

七月に入り臨時政府内部の対立が顕在化した。軍内部の革命勢力の一掃を求める最高司令官のコルニーロフ将軍と彼を任命したケレンスキー首相の対立が深まり、コルニーロフは反臨時政府のクーデタを引き起した。ケレンスキーは赤衛軍の助けを借りてこれを鎮圧したが、その中心となったボリシェヴィキはソヴィエト内での権威を高め、全ての権力をソヴィエトに集約すべきという見解も一般的になっていった。

十月革命(十一月革命)

十月革命は二月革命ほど散発的ではなく、慎重な計画の立案および各勢力活動の統合の結果発生した。1917年11月7日ユリウス暦10月25日)にボリシェヴィキ指導者ウラジーミル・レーニンはケレンスキー臨時政府に代わって、ほぼ流血無く権力を掌握した。

革命後の展開と影響

詳細はロシア内戦を参照

ファイル:Khristolyubov-Leaders of October.jpg
会談中のレーニン


ブレスト・リトフスク条約締結をきっかけに南ロシア、シベリアなどの都市で白軍が蜂起しボリシェヴィキ政権に反旗を翻した。列強諸国も黒海沿岸への部隊派遣、ポーランド・ソビエト戦争シベリア出兵などを通じて干渉を加え、それと同時にウクライナではアナーキスト民族主義者による独立の動きが見られ、白軍を撃ち破り、ボリシェヴィキを凌駕した。しかし自力にまさり優秀な指揮官を擁する赤軍は各地で白軍を破り、これをみた列強諸国は部隊を撤退させた。1922年ボリシェヴィキは全国ソビエト大会で国家樹立を宣言しソビエト連邦が成立した。

参考

文献

当事者による記録

  • レフ・トロツキー『ロシア革命史』全五巻 2000年 岩波書店 ISBN 4003412745
  • アレクサンドル・ケレンスキー『ケレンスキー回顧録』恒文社 1977年 ISBN 4770401353
  • ヴォーリン『1917年・裏切られた革命』林書店 1968年
  • アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』
  • サヴィンコフ『テロリスト群像』現代思潮社 
  • スタインペルグ『左翼エスエル戦闘史』鹿砦社 1970年

その他評論など

  • 梶川伸一『飢餓の革命』(名古屋大学出版会)
  • 猪木正道『ロシア革命史』(中公文庫
  • 猪木正道『共産主義の系譜』(角川書店
  • 尾鍋輝彦『ロシア革命』(中公新書
  • 長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社)
  • 菊池黒光『十月革命への挽歌』(情況出版)
  • ソールズベリー『黒い夜 白い雪』上下(時事通信社
  • パイプス『ロシア革命史』(成文社)
  • サーヴィス『ロシア革命 1900-1927』(岩波書店)
  • E.H.カー『ロシア革命』(岩波書店)
  • ジョン・リード『世界をゆるがした10日間』

映画

関連項目

思想

政党・組織

人物