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神武天皇

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神武天皇
月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」。
明治時代初期の版画。

在位期間
神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日

誕生 庚午年1月1日
陵所 畝傍山東北陵
彦火火出見
別称 神日本磐余彦天皇(紀)
神倭伊波礼毘古命(記)
称号 狭野尊
父親 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)
富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売(記)
子女 手研耳命
岐須美美命
日子八井命
神八井耳命
神渟名川耳尊(綏靖天皇
皇居 橿原宮
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神武天皇(じんむてんのう、庚午1月1日 - 神武天皇76年3月11日[1][2])は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物[3](在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[1][2])。

和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。

名称

漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[4]

和風諡号である「かんやまと-いわれひこ」のうち、「いわれ」は地名(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯)[3]

そのほかに史書では次の別名が記載される[3]

  • 狭野尊(さののみこと) - 『日本書紀』での幼名。
  • 彦火火出見(ひこほほでみ) - 『日本書紀』での
  • 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』での美称。
  • 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』。
  • 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』。
  • 磐余彦尊(いわれひこのみこと) - 『日本書紀』第二の一書。
  • 神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれひこほほでみのみこと) - 『日本書紀』第三の一書。
  • 磐余彦火火出見尊(いわれひこほほでみのみこと) - 『日本書紀』第四の一書。
  • 磐余彦帝(いわれひこのみかど)

生涯

以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡であるが、その内容が神話的で、歴史学では、神武天皇の実在も含めて、筋書きそのままが事実であるかは不明である。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。

東征の開始

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

長髄彦との戦いと苦難

太歳甲寅日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。

11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。船団を出して速吸之門に来た時、国津神珍彦(うづひこ)(宇豆毘古命)、後の椎根津彦(日本書紀古事記では槁根津彦)を水先案内とした。

戊午年の2月、後の摂津国の難波 (なにわ) に至り、上町台地に難波大社 (なにわのおおやしろ) ・ 生国魂神社 (いくくにたまじんじゃ) を創建。3月、後の河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

5月、磐余彦は船を出したが、五瀬命は山城水門で矢傷が重くなり、紀伊国竈山で死去した。

名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

八咫烏の道案内と勝利

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。

8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した。

10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。

己未年2月、磐余彦は従わない新城戸畔居勢祝猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申年、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

即位

辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。

神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。

神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。

神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。

神武天皇76年、127歳崩御

系譜

徳島県徳島市眉山にある神武天皇像

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。

古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では第四子とし、『日本書紀』第三の一書のみ第三男子とする。兄に五瀬命稲飯命御毛沼命がいる。

妻子は次の通り。

系図

                           
 
 
 
天照大神(アマテラス)
 
 
 
 
 
 
須佐之男命(スサノオ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天忍穂耳命(アメノ オシホ ミミ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栲幡千千姫(タクハタチヂ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
邇邇芸命(ニニギ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木花之佐久夜毘売(コノハナノ サクヤ ビメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火遠理命(ホオリ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊玉姫(トヨタマ ヒメ、アマテラスの姪)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鸕鶿草葺不合命(ウガヤ フキアエズ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
玉依姫(タマヨリ ヒメ、トヨタマヒメの妹)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若御毛沼命(ワカミケヌ、神武天皇、四男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ タタラ イスズ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦五瀬命(ヒコイツセ、長男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲飯命(イナイ、二男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三毛入野命(ミケイリノ、三男)
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命(ホスソリ)- - - 隼人
 
 
 
 
 
 
 
火明命(ホアカリ) - - - 尾張氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命(アメノ ホヒ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天甕津日女神(アメノ ミカツ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出雲氏
 
 


宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『古事記』では「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』では「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」[5]。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。

明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある[6][7]

またこの時期、第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))

なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。

陵・霊廟

神武天皇 畝傍山東北陵
奈良県橿原市

神武天皇の(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている(北緯34度29分51秒 東経135度47分16.5秒[8][9][10][11]。公式形式は円丘。考古学名・俗称は「ミサンザイ」。

『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。

延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照

神武天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

考証

歴史的位置づけについて

神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期にあたる。

明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、「歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだ」という原則が広く承認されるようになった。こうした近代歴史学の原則を日本古代史に当てはめると、記紀の記述も、他の史料や考古学的知見などに照らして、客観的、批判的視点で厳密に検証される必要が生じる。その作業を経て尚残った記述のみが「史実」として認識されるのであるが、これにより、明治政府により広く国民に顕示されたところの「皇室の歴史」を疑う議論も生まれかねない。このため、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。

それでも早くから、初期の天皇が異常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は1897年、「上世年紀考」で『日本書紀』の記述を批判して、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が始まり、王朝が代わり、同時に正しい大改革も行われるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は、「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その前回の辛酉、つまり紀元601年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。

大正期になると津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。

戦後になって不敬など皇室のタブーが解かれると、津田の学説はおむね妥当な推論であるとして支持されるようになり、以降、今日に至るまで、記紀の記述を多角的な観点から検証した様々な学術的推論が提起されるようになる[12]

なお、津田左右吉は当時、神武天皇を認めつつも次の第二代目天皇の綏靖天皇から第十四代の仲哀天皇までの実在性に疑義をとなえていたが(欠史十三代)、戦後の歴史学の研究成果により、実在可能性に乏しいのは第九代の開化天皇までであり、第十代の崇神天皇からは実在の人物であるとする考え方(欠史八代)が、現代の歴史学会において主流となっている。

こうした経緯から、現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。そのため古代史研究者の間では、神武天皇の説話は、弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて記紀編纂時に創作されたものとする、「モデル論」が盛んである。神武天皇の「モデル」とされた人物としては、学術上、実在の可能性が認められる初めての天皇とされる崇神天皇を筆頭に、応神天皇継体天皇、さらには記紀編纂時期の天皇である天武天皇などが指摘されている。

一方で、心理学者で古代史研究家の安本美典のように、神武天皇を実在とする論者もいる。神武東征物語は、邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。また古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。

なおギネス世界記録では、神武天皇の伝承を元に、日本の皇室を世界最古の王朝としているが、「現実的には4世紀」としている。

即位年月日について

神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。

日本書紀』においては、年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は辛酉年春正月庚辰とある。

太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算[13]すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。また、この日を以って皇紀元年とする暦が主に明治・大正期から終戦まで用いられた。

なお、『日本書紀』は「庚辰」が「」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日[14]は天文上のに当たる。

脚注

  1. ^ a b 『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p. 356。
  2. ^ a b 『皇室事典』 角川学芸出版、2009年、p. 629。
  3. ^ a b c 神武天皇(古代氏族) & 2010年.
  4. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  5. ^ 畝傍橿原宮(国史).
  6. ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室
  7. ^ 樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年
  8. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。
  9. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  10. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  11. ^ 畝傍山東北陵(国史).
  12. ^ 例えば、三品彰英は神武東征説話の骨子と高句麗の開国説話が類似していると主張した
  13. ^ 干支年は、後漢建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。
  14. ^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。

参考文献

  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 植村清二 「神武天皇」中村一郎 「畝傍山東北陵」(神武天皇項目内)岡田隆夫 「畝傍橿原宮」上田正昭 「はつくにしらすすめらみこと」
  • 「神武天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 

関連項目

外部リンク