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利用者:野村かどかわ/sandbox

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錦町楽天地

錦町楽天地(にしきちょうらくてんち)は、東京都立川市赤線。現在の錦町一丁目十五番。錦町楽天地は風俗街としての性質を担っており、戦前までは陸軍の郭所(遊郭)、戦後は米兵の赤線地帯として栄えた。

沿革

戦前

昭和5年より、軍部(立川飛行場 飛行第五大隊)の遊郭として栄え、市内の料亭旅館の要請により芸者を派遣するかたわら、指定地内で女郎屋も兼ねて、その数は全部で約30軒であった。

戦後

昭和21年1月のGHQによる 公娼制度廃止後には、遊郭から接待所へと、娼妓達は接待婦にと言い直された。 昭和21年11月には、日本政府が特殊飲街または赤線地帯認可をしたために、法制度上も復活する事となる。 (米軍に接取された錦町楽天地は、おもに白人が利用した。) 昭和31年8月調べで、錦町楽天地には、48業者、181従業員数を数えた。 昭和33年2月売春防止法施行により自主廃業となった。

立川市全体

立川市の赤線は、遊郭のように何人も遊女をかかえるのではなく、1軒で夫婦が女の子を2~3人かかえるというシステムのものであった。 基地周辺の立川駅北口(曙町高松町)にかけては、米兵相手のキャバレーバーパンパン宿、ホテル旅館が立ち並び、立川駅南口(錦町富士見町羽衣町柴崎町)の一部にも同様の施設が置かれた。 立川市の好景気により、赤線業者、パンパン業者達は、横須賀等の他の地区からも女の子を集め、昭和22年頃には、特殊女性の数は市内で600名を超えた。 朝鮮戦争時の昭和25~27年頃には、基地の存在による街娼達が5,000人を超えて、都下1番の規模となった。 進駐軍強姦が日常的におこなわれ、日本人女性は実に強姦しやすい。そう騒ぎもせず抵抗もしない」と米兵はのたまったが、女の子が抵抗をすれば殺され、日本人で助けようとする男がいれば、重労働10~15年の刑が処せられる状態であった。 なお、当時においては、厳重なプレスコードがあり、日本人が強姦の事実を口外しようものならば、占領政策違反、米軍非協力の罪を課され、重労働の刑に処せられた。この事は、米軍が、この事実を日本人に知られる事よりも、日本の新聞をとおして米国本土の兵士の母、妻、恋人に知られる事を恐れたためであった。

参考文献

  • p.123~125 上村敏彦、2008、『花街・色街・艶な街 色街編』、街と暮らし社
  • 西田稔、1956、『オンリーの貞操帯』、第二書房
  • p.23 p.26~27 p.135~137 p.215 西田稔、1953、『基地の女』、河出書房
  • p.197 神崎清、1974、『売春』、現代史出版会
  • 三田鶴吉、1987、『立川飛行場物語(下)』、けやき出版
  • 東京都民生局、1973、『東京都の婦人保護』、東京都民生局
  • p.86 p.156 中野隆右編集 (2007). 立川(昭和二十年から三十年代). ガイア出版. 
  • p.42~51 p.60~77 立川・女の暮らし聞き書きの会、1992、『つむぐ八号(占領下の暮らし)』、立川・女の暮らし聞き書きの会