コンテンツにスキップ

錦町楽天地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。野村かどかわ (会話 | 投稿記録) による 2017年5月23日 (火) 12:22個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: 「thumb|250px|「錦町楽天地」の入口 (2017) File:錦町003.jpg|thumb|250px|昔からと思われる飲み屋が左に1軒、...」)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
「錦町楽天地」の入口 (2017)
昔からと思われる飲み屋が左に1軒、右に4軒 (2017)
現地に残る英文の看板 (2017)
右上のNTTの新プレートは「楽天地」、左下の電電公社の旧プレートは「無門庵」 (2017)
入口左からパン屋と床屋 (2017)

錦町楽天地(にしきちょうらくてんち)は、東京都立川市赤線。現在の錦町一丁目十五番。錦町楽天地は風俗街としての性質を担っており、戦前までは陸軍の郭所(遊郭)、戦後は米兵の赤線地帯として栄えた[1]郵便番号は190-0022[2]

錦町楽天地の沿革

戦前

そもそもの始まりは立川飛行場にありか、1922年(大正11年)飛行第五連隊が立川飛行場に移駐したのが全ての始まり。軍の要請ありきと推測される立川市芸妓三業組合の1925年(大正14年)設立となり、広大な桑畑の中にいきなり芸者置屋設置、つまりは、立川はいきなり「軍事都市」となり、立川は軍によってもたらされた「女の子の需要」があり、「軍には若い男の子の大集団」[3]、お察し頂けるものと考察いたします。

ゆえに、1930年(昭和5年)より、軍部(立川飛行場 飛行第五大隊)の遊郭として栄え、市内の料亭旅館の要請により芸者を派遣するかたわら、指定地内で女郎屋も兼ねて、その数は全部で約30軒であった[4][5]

戦後

1946年(昭和21年)1月のGHQによる 公娼制度廃止後には、遊郭から接待所へと、娼妓達は接待婦にと言い直された[6]

1946年(昭和21年)11月には、日本政府が特殊飲街または赤線地帯認可をしたために、法制度上も復活する事となる[7]。 (米軍に接取された錦町楽天地は、おもに白人が利用した)[8]

1956年(昭和31年)8月調べで、錦町楽天地には、48業者、181従業員数を数えた。[9]

1958年(昭和33年)2月売春防止法施行により自主廃業となった[10]

ここで、赤線廃止の任に当時38歳の婦人相談員が尽力する事となる。「無事に赤線を廃業させる事と、その従業婦の身の振り方の相談に乗る」の使命を胸に、婦人相談員は走る。その当時の模様を1958年(昭和33年)2月27日付け読売新聞を読もう、「立川の赤線、きのう完全廃業」の見出し有り、婦人相談員は語る、当時の錦町特飲組合の組会長の生家は代々洲崎で遊郭を営んでいたが、彼は府立一中卒後区役所勤め、ところが、軍の要請で錦町の一画に場所を提供され、家業を継がなければならない。廃業に彼は「お上の命令で区役所辞めさせられて、今度はまた、お前ら廃業だって言う、お上って何て勝手」と溜息、そんな組合長の力も大きく、様々な人間ドラマの末に赤線の灯は消える。1959年(昭和34年)2月15日付け毎日新聞を読もう、錦町では転職で、バー・酒場が17軒、貸間が5軒、旅館2軒、金融業2軒、自動車運転手・時計店・そば屋・医院が各1軒。他の土地へだと、料理店3軒、製本業・菓子屋・料亭・食堂・野球のバット製造業・貸し家が各1軒。みんな苦労したんだよとの事。そして女の子の転職やいかにである。東北出身の女の子が多く、親が借りた前借金に縛られている、婦人相談員の言だと「帰郷する子は少ない、女の子も帰郷を望まない、結婚する子も随分いて救われた、結婚がベスト」だけど立川市内のバーに残った女の子は十余人いた[11]

立川・女の暮らし聞き書きの会は、『つむぐ八号(占領下の暮らし)』(1992)中の「項目 再生への祈り(立川赤線廃止の日をめぐって)」文末で、公的な売春地区はなくなったが、売春自体はなくなっていないとし、さらに売春は人間の尊厳を侵すものとして、これがいまだ許容されている日本の現代社会について問題を投げかけている。

当時の立川市の売春事情と錦町楽天地

立川市の赤線は、遊郭のように何人も遊女をかかえるのではなく、1軒で夫婦が女の子を2 - 3人かかえるというシステムのものであった[12]

基地周辺の立川駅北口(曙町高松町)にかけては、米兵相手のキャバレーバーパンパン宿、ホテル旅館が立ち並び、立川駅南口(錦町富士見町羽衣町柴崎町)の一部にも同様の施設が置かれた[13]

立川市の好景気により、赤線業者、パンパン業者達は、横須賀等の他の地区からも女の子を集め、1947年(昭和22年)頃には、特殊女性の数は市内で600名を超えた[14]

朝鮮戦争時の1950 - 1952年(昭和25 - 27年)頃には、基地の存在による街娼達が5,000人を超えて、都下1番の規模となった[15]

進駐軍強姦が日常的におこなわれ、「日本人女性は実に強姦しやすい。そう騒ぎもせず抵抗もしない」と米兵はのたまったが、女の子が抵抗をすれば殺され、日本人で助けようとする男がいれば、重労働10 - 15年の刑が処せられる状態であった。兵隊の場合は集団での輪姦であり、人間尊厳を冒とくする神への嘲笑であった[16]

なお、当時においては、厳重なプレスコードがあり、日本人が強姦の事実を口外しようものならば、占領政策違反、米軍非協力の罪を課され、重労働の刑に処せられた。この事は、米軍が、この事実を日本人に知られる事よりも、日本の新聞をとおして米国本土の兵士の母、妻、恋人に知られる事を恐れたためであった[17]

また、進駐軍といえばカッコいい米兵と、ところがである、残虐無残、人間の皮を剥ぎ、獣となった米兵の実態が明るみに出され、米兵の巻き添えとなった女の子たちの悲惨な一生が胸を打つ。確かに善良な進駐軍、立派な紳士もいたに違いない。昭和や戦争が見直されている今日も、我々は、当時米兵の毒牙にかかった女の子たちを見捨て置き去りにしている[18]

つまりは、戦争の荒廃と暴力を一身の肉体であがない、「パンパン」とさげすまれ自滅していったタチカワの女の子たち、生者が死者の上に生きるのであれば、われわれの空虚な繁栄は、女の子たちの屍の上に築かれている[19]

出典

  1. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  2. ^ 日本郵便 郵便番号検索
  3. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  4. ^ 上村 (2008) p. 123 - 125
  5. ^ 中野 (2007) p. 86
  6. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  7. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  8. ^ 中野 (2007) p. 86
  9. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  10. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  11. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  12. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 42 - 55
  13. ^ 上村 (2008) p. 123 - 125
  14. ^ 上村 (2008) p. 123 - 125
  15. ^ 上村 (2008) p. 123 - 125
  16. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 56 - 92
  17. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 56 - 92
  18. ^ 置き去りにされたマリア|荻原葉子|読売新聞社
  19. ^ 立川・女の暮らし聞き書きの会 (1992) p. 56 - 92

参考文献

  • 上村敏彦、2008、『花街・色街・艶な街 色街編』、街と暮らし社 p.123 - 125
  • 西田稔、1956、『オンリーの貞操帯』、第二書房
  • 西田稔、1953、『基地の女』、河出書房 p.23 p.26 - 27 p.135 - 137 p.215
  • 神崎清、1974、『売春』、現代史出版会 p.197
  • 三田鶴吉、1987、『立川飛行場物語(下)』、けやき出版
  • 東京都民生局、1973、『東京都の婦人保護』、東京都民生局
  • 中野隆右編集、2007、『立川(昭和二十年から三十年代)』、ガイア出版 p.86 p.156
  • 立川・女の暮らし聞き書きの会、1992、『つむぐ八号(占領下の暮らし)』、立川・女の暮らし聞き書きの会 p.42 - 55 p.56 - 70 p.71 - 92

関連項目