原始キリスト教
原始キリスト教(げんしキリストきょう)は、最初期のキリスト教とその教団。
成立
イエスの直弟子(使徒)たちがユダヤやガリラヤの地において伝道活動(布教)を始めたことによってキリスト教の歴史は始まるが、聖書学者の佐藤研は、最初の福音書とされる『マルコ福音書』が成立した頃の西暦70年頃以前を、「ユダヤ教イエス派の運動」と呼ぶべきであると指摘している[1][注釈 1]。
新約聖書の主要な文書が成立したのは西暦150年頃までと考えられており、キリスト教が迫害を経てローマ帝国の領内で広まり、皇帝テオドシウス1世が380年に国教と定める以前に成立したキリスト教会を「初代教会」または「原始教会」「原始教団」と呼ぶことがある。
最初の教会、すなわち原始教団はエルサレムに成立したと考えられている[3]。ナザレのイエスが十字架にかけられて刑死したのち、その弟子や女性たちのあいだで存命時のイエスの強烈の人格的印象が語り継がれ、イエスの生前の予言通り復活した、その姿を見たという体験もまた一つの確信として共有された[3]。継続して集会する最初のキリスト教徒たちのグループが形成されたのはエルサレムであった[3]。そこでは、イエスによって説かれた数々の言葉が絶えず想い起され、彼を「キリスト」(救世主)、「神の子」として崇拝し、その再臨を祈り、待つ礼拝がおこなわれたものと考えられる[3]。そのなかには、ペトロ、ヨハネら12人の使徒、イエスの兄弟ヤコブらの姿もあったが、かれら自身は自分たちがユダヤ教徒であることをまったく疑っていなかっただろうと考えられる[3]。ユダヤの伝統をふまえて神殿にも詣でていた[3][注釈 2]。しだいに彼らは強固な共同体をつくり、祈りや聖餐の初期的な形式が整えられ、一定程度の共同生活も営まれ、また、共有財産の観念も生じて、さらに、集会を維持・継続させていくための決まりも定められていったものと考えられる[3]。
こうして形成された原始教団は、当初は原住のユダヤ人とギリシャ語を話すヘレニスト・ユダヤ人から成っていたが、しだいにユダヤ人以外(異邦人)にもひろがる一方、教団の拡大にともない、イエスを直接知らない信者のなかにも教団のなかで指導的な役割をになう者があらわれ、共同体の組織化がはかられた[3]。洗礼や癒し、悪霊払いなどに加えて、外部に対する施しや奉仕などもなされるようになり、こうした実務を担当する役割として「執事」の職が設けられた[3][注釈 3]。
そして、ディアスポラのユダヤ教徒によるエルサレム教会に対する迫害を契機として、執事ステファノのグループがサマリアやシリアに「福音」を伝える宣教の旅に出かけ、ステファノ殉教後はペトロやパウロも異邦人への伝道を精力的におこなって、イエスの教えはエーゲ海周縁の諸都市、さらに、西暦60年頃には帝国の都ローマに達したと考えられる[3]。
しかし、教義史(Dogmengeschichte)の理解によれば、
- ガリラヤ周辺にもキリスト教共同体が成立していた。
- エルサレムからユダヤ主義に傾くキリスト者がガラテヤ、ピリピ、コリントの諸教会に「異なる福音」をもたらし来た。
- イエスの言葉伝承を担った人々がパレスティナからシリアに入り、その一部が共同体を形成したことなどがパウロの手紙や福音書から想定できる。
- ローマのみならずアレクサンドリアにもペテロやパウロとは独立に教会が設立されていたことが『使徒行伝』から推定できる。
- 神秘主義やグノーシス主義の立場からキリスト仮現論を説く集団もいた。
このようなことから、原始教会におけるキリスト解釈は統一されているというにはほど遠く、それぞれの集団における教義も異なっていたとみる見解がある。
非神話化
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非神話化の理論によれば、原始教会の信仰内容は、次の二つに大別できる。
- ケリュグマ伝承 - 『神がイエスを死人の中からよみがえらせた』『イエスは主である』という信仰告白に基いたもので、次の二通りがある。
- キリストの死を人間の罪の贖いとして捉えつつ、その死と復活を旧約聖書における預言の成就として解釈するもの。
- キリストの死を神に対する従順の証しとみなしつつ、褒賞として神により天に挙げられたとするもの。
- イエス伝承 - イエスの奇跡行為と言葉が終末論的に解釈されたもの。
ユダヤ教との関係
キリスト教はユダヤ教を母体とし、ユダヤ教の一分派として始まった[4][5][6][7][注釈 4][注釈 5]。その始まりはユダヤ教内の地方的な宗教改革運動だった[8]。イエスをキリスト(救世主)と認めるか否かでユダヤ教の主流派とは決定的な相違があったものの、イエスが刑死した後も弟子たちはユダヤ教の祭儀に日々参加していた[9][注釈 2]。弟子たちはユダヤ人から熱心なユダヤ教徒として称賛されていた[10][11]。信者がキリスト者(クリスティアノイ、クリスチャン)と初めて呼ばれるようになったのは、パウロが中心となって初めてユダヤ人以外に伝道した地アンティオキアでのことで[12][注釈 6]、イエスの刑死から多分十数年後である[13]。そのころはキリスト者という呼称は一般人が使うあだ名にすぎなかった[14][注釈 7]。信者たちがみずからキリスト者と称するのは2世紀以降である[14]。ローマ帝国は3世紀なかば頃に至るまでキリスト教をユダヤ教の一派として見なしていた[15]。
現代のキリスト教との関係
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ほとんどのキリスト教を自称する宗教団体が原始キリスト教と同じ信仰であることを強調している。実際に原始キリスト教と同じ信仰であるかどうかは別としても、原始キリスト教を否定する立場はあまり見られない。要するに原始キリスト教と同じ信仰であることを主張する事で、自らが正統的である事を宣言している訳であるが、稀にそう自称しない団体もある。
原始キリスト教と同じ信仰を古代から変わらずを保持し続けているとする団体
上記の内、実際に原始キリスト教と歴史的に団体として連続性があるのはカトリック教会、正教会、非カルケドン派の伝統教会である。これを当人らは使徒継承と呼んでいる。異論も多いが、聖公会や一部のプロテスタント教団も使徒継承を自称する。それ以外のプロテスタント系団体に関しては「団体としての連続性よりも、“教え”自体が正統に受け継がれているかどうか」を主張する事が多い。
失われた原始キリスト教を現代に復興したと称する団体
- エホバの証人
- 末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)
- イエス之御霊教会
- その他、新興プロテスタントの幾つかの教派等の新宗教系
原始キリスト教の復興と自称する教団の多くは新宗教である。1世紀当時の正統なるキリスト教は、途中で堕落・背教し、2世紀から3世紀頃には正しいキリスト教とは呼べなくなったとし、現代においてそれを自らの団体が復興させたと主張しているわけである。これは「原始当初から常に同一性を保持してきた」と主張する伝統教会を排斥し、正統ではないと見なすのに等しい主張であるため、伝統教会側からは異端(キリスト教系新宗教)や、異教として退けられていることが多い。
エホバの証人は「三位一体はローマ帝国時代の背教者によって立てられた教義で、本来のキリスト教のものではない」と主張しており[注釈 8]、原始キリスト教時代後期に存在したアリウス派の考えに近い。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、教義で「初代教会へ戻れ」と主張している[16]。しかしキリスト教の「正統」的立場から見ると、その教理は異端的・非福音的で聖書解釈には誤りがあり、キリスト教とは「認め難い」[17]。
イエス之御霊教会は日本発祥の教団であるが、三位一体の理解の仕方が異なっており「唯一の神イエス・キリストの中に三位が存在する」と説いており「カトリックでもプロテスタントでもない、初代と同じ信仰」を主張する。
その他の新興プロテスタント勢は伝統教会と同じ基本信条を告白するため、異端とはされないものの、やはり伝統教団勢を堕落と見なすことが多い。結果として伝統教団とはあまり友好関係にはないことが多い。
原始キリスト教と異なっている点を認める団体(原始キリスト教の否定)
- 世界基督教統一神霊協会(統一教会)等
統一教会は例外的に「イエスによる救済は失敗」と説くように、原始キリスト教では不完全であると主張する。「失敗」というのは、磔刑で死亡したことを指す。伝統教会だけでなく、エホバの証人などの異端とされる多くの教団でも「磔刑による死」は“人類の救済の為であり贖いである”と考えるのに対して、逆に「救済に失敗して死んでしまった」と考えるのが非常に特徴的である。原始キリスト教では救いに繋がらなかったため、代わりに再臨のキリストとしてやってきて人類を救うのが当教団の開祖である文鮮明であり、文夫妻が全人類の新しい父と母であると説いている。
脚注
注釈
- ^ 同種の指摘として、神学博士の加藤隆は、ユダヤ教とキリスト教の決別が決定的となるのはユダヤ戦争後であり、それまでのキリスト教についてはあくまでもユダヤ教の一派であり、「ユダヤ教のナザレ派」などと呼ぶ方が誤解が無いかもしれないと述べている[2]。
- ^ a b 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」『使徒言行録』2章46節、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」『使徒言行録』3章1節(『新共同訳聖書』)。
- ^ 最初の執事はヘレニストであったといわれている。松本 (2009), p.24
- ^ 「ナザレ派」と呼ばれていた(手塚、2017年7月1日閲覧)。
- ^ 「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者」『使徒言行録』24章5節(『新共同訳聖書』)。
- ^ 訳語「キリスト者」を採用するのは『新共同訳聖書』。『口語訳聖書』では「クリスチャン」。
- ^ 当初は悪意なく使われたようだが、勢力伸張に伴い一般人にとって否定的な意味合いになった(「クリスチャン」『キリスト教大事典』 (1968), p. 349)。
- ^ 参照:“偽りの教え4: 神は三位一体である”. エホバの証人. 2017年6月30日閲覧。
出典
- ^ 佐藤 (2003)
- ^ 加藤 (2016), p. 67
- ^ a b c d e f g h i j 松本 (2009), pp. 23-25
- ^ バラクラフ (1993), p. 19
- ^ 高橋 (1980), p. 73, p. 76
- ^ 豊田 (2002), p. 878
- ^ 新田 (1980), p. 18
- ^ フレンド (1993), p. 66
- ^ 山谷 (1968), p. 391
- ^ ダニエルー (1980), p.36
- ^ 『使徒言行録』5章13節。
- ^ 『使徒言行録』11章26節。
- ^ ウォーカー (1984), p. 61参照。
- ^ a b ウォーカー (1984), p. 58
- ^ 黒川 (2002), p. 1139
- ^ 野村
- ^ 秋山、2017年7月1日閲覧。
参考文献
- 秋山昇「末日聖徒イエス・キリスト教会」『新カトリック大事典』研究社Online Dictionary。
- 荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』岩波書店、1971年、ISBN 4000004956。
- 荒井献『新約聖書とグノーシス主義』荒井献、岩波書店、1986年、ISBN 4000010247。
- ウィリストン・ウォーカー『キリスト教史 1 古代教会』竹内寛監修、菊池栄三・中澤宣夫訳、ヨルダン社、1984年。ISBN 4842800887。
- 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社<講談社学術文庫>、2016年11月。ISBN 978-4-06-292401-6。
- 黒川知文「ユダヤ教」『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年。ISBN 400080202X。
- 佐藤研『聖書時代史 新約篇』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2003年。ISBN 9784006000998。
- 高橋保行『ギリシャ正教』講談社〈講談社学術文庫〉、1980年。ISBN 4061585002。
- 田川建三『原始キリスト教史の一断面:福音書文学の成立』勁草書房、ISBN 4326100370。
- 田川建三『イエスという男:逆説的反抗者の生と死』三一書房、ISBN 4380802116。
- ジャン・ダニエルー『キリスト教史 第1巻 初代教会』上智大学中世思想研究所訳・監修、講談社、1980年。
- 手塚奈々子「ナザレ派」『新カトリック大事典』研究社Online Dictionary。
- 豊田浩志「迫害」『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年。ISBN 400080202X。
- 新田一郎『キリスト教とローマ皇帝』教育社〈教育社歴史新書〉、1980年。
- 野村文子. “モルモン教”. 日本大百科全書(ニッポニカ)、コトバンク. 小学館. 2017年7月1日閲覧。
- ジェフリー・バラクラフ「序章 キリスト教世界とは何か」『図説キリスト教文化史 I』ジェフリー・バラクラフ編、上智大学中世思想研究所監修、別宮貞徳訳、原書房、1993年。ISBN 4562023694。
- ウィリアム・H・C・フレンド「ローマ帝国におけるキリスト教」『図説キリスト教文化史 I』ジェフリー・バラクラフ編、上智大学中世思想研究所監修、別宮貞徳訳、原書房、1993年。ISBN 4562023694。
- 松本宣郎「第1章 1 原始キリスト教の成立」『キリスト教の歴史(I)』山川出版社〈宗教の世界史〉、2009年8月。ISBN 4-634-43138-6。
- 山谷省吾「原始キリスト教」『キリスト教大事典 改訂新版』教文館、1968年。ISBN 4764240025。
- ジェフリー・バートン・ラッセル『悪魔-古代から原始キリスト教まで』野村美紀子訳、ISBN 476427115X。
- 『キリスト教大事典 改訂新版』教文館、1968年。ISBN 4764240025。