東京拘置所
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東京拘置所(とうきょうこうちしょ)は、法務省東京矯正管区に属する拘置所。通称「東拘(とうこう)」、所在地である「小菅」と呼ばれることも多い。
全国に8箇所(東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡)ある拘置所の一つである。松戸拘置支所を所管する。
所在地
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dd/Tokyo_detention_center_1989_air.jpg/220px-Tokyo_detention_center_1989_air.jpg)
収容者
収容定員
- 約3000名
- 刑事被告人を収容する施設では、日本最大の規模を持つ。
沿革
小菅刑務所
かつてこの地には小菅監獄(1922年、小菅刑務所と改称)があった。第二次世界大戦後の1945年10月、巣鴨(当時。現在の豊島区東池袋)にあった東京拘置所の施設がGHQに接収された。このため一時期、小菅刑務所に東京拘置所が同居する状態となっていた(東京拘置所の職員が小菅刑務所の職員を兼務)。1958年5月にすべての戦犯が釈放され、東京拘置所は巣鴨に復元された。
首都圏整備計画の一環として、東京拘置所を巣鴨の地から移転させることが必要になったため、1971年(昭和46年)に小菅刑務所は栃木県那須郡黒羽町の黒羽刑務所に移転し、東京拘置所は再び小菅に移された。
- 1879年(明治12年):小菅に内務省直轄の東京集治監を設置。(銀座煉瓦街の煉瓦を焼いた煉瓦製造所を買い上げ、収容者が煉瓦製造に従事した)
- 1900年(明治33年):内務省から司法省の所管に移る。
- 1903年(明治36年)3月:小菅監獄と改称。(監獄官制)
- 1922年(大正11年):小菅刑務所と改称。
- 1923年(大正12年)9月:関東大震災で被害を受ける。
- 1929年(昭和4年):新庁舎が落成。(蒲原重雄設計。当時の管理棟が現存)
- 1945年(昭和20年):巣鴨の東京拘置所が接収を受けたため、東京拘置所が小菅に置かれる。
- 1958年(昭和33年):東京拘置所が巣鴨に復元される。
- 1971年(昭和46年):小菅刑務所が栃木県那須郡黒羽町に移転し、黒羽刑務所として供用開始。
東京拘置所
主に未決囚を収容する市谷刑務所が1937年に巣鴨(当時。現在の豊島区東池袋)に移転し、「東京拘置所」と改称した。1944年、ゾルゲ事件の被告リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実が処刑された。
巣鴨の施設はGHQの接収により巣鴨プリズンとなり、戦争犯罪人(容疑者)を収容した(極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯東條英機らの処刑も巣鴨プリズン内で行われた)。
- 1937年:市谷刑務所が巣鴨刑務所跡地に移転し、「東京拘置所」と改称。
- 1945年:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、東京拘置所は小菅刑務所(東京都葛飾区)の位置に置かれた。
- 1958年:東京拘置所が巣鴨に復元された[1]。
- 1971年3月20日:東京拘置所を葛飾区小菅に移転。
- 1997年:改築工事着工
- 1999年:「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選定。
- 2003年:中央管理棟・南収容棟完成
- 2006年:北収容棟完成
- 2013年5月16日:松戸拘置支所を所管とする[2]。
組織
所長の下に4部を持つ4部制施設である。
- 総務部(庶務課、会計課、用度課)
- 処遇部(処遇部門、指導部門)
- 分類部
- 医務部
- 総務部に調査官1名を置く。
構造
- 新舎房は地上12階、地下2階、高さ50mで中央部の中央管理棟と南北に両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟がつながる。延床面積80,239m2。南北収用棟の屋上は雑居房収容者用、独居房収容者用の各運動場になっている。
- 独居房・雑居房には窓が設置されているが、強化ガラスのため、ハンマーで思いっきり叩いてもガラスが割れない特殊仕様であるうえ、特殊な曇りガラスで窓から下の近隣住民の様子を見ることはできず、空しか見えない構造となっている。
- 新舎房での被収容者施設階への入退場は看守、施設職員のセキュリティICカード認証システムと指紋生体認証システムが採用されており、二つが一致しないと開錠されない。
- 中央管理棟屋上にはヘリポートが設置されている。
- 被収容者を検察庁または裁判所へ押送するための車両駐車場は地下1階にある。
- 旧舎房は南舎地上3階建て、北舎地上3階建て、新北舎地上4階建て
- 死刑を執行する施設(刑場・場所非公開)を地下に備えており、エレベーターで向かう。
- 医務部は「東京拘置所医務部病院」として医療法上の病院の指定を受けている。
確定死刑囚
詳細は「日本における収監中の死刑囚の一覧」を参照
最高裁上告中及び東京高裁控訴中の死刑判決事件被告人
- ※銀座資産家夫婦強盗殺人事件[3](1名)(2014年9月19日東京地裁で死刑判決、2016年3月16日東京高裁で被告人側控訴棄却。最高裁上告中)
- ※前橋市連続強盗殺傷事件(1名)[4](2016年7月20日前橋地裁で死刑判決。東京高裁控訴中、2017年9月6日控訴審初公判)
- ※伊東市干物店強盗殺人事件(1名)[5](2016年11月24日静岡地裁沼津支部で死刑判決。東京高裁控訴中、2017年11月17日控訴審初公判)
所在地の変遷
現在東京拘置所の置かれている当所は、下記の変遷を経て現在の東京拘置所となったものである。
- 江戸時代初期は関東郡代伊奈氏の郡代屋敷であり、江戸時代中期の徳川吉宗時代には一時将軍鷹狩りの休憩地「小菅御殿」であった。
- 明治維新後の1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領・旗本領の管轄のために明治政府によって設置された小菅県の県庁となる。
- 1871年(明治4年)第1次府県統合により東京府(第1次)および品川県と合併して東京府(第2次)となり、県庁は廃止される。
- 1872年(明治5年)県庁跡の一部で民間人により国内初煉瓦工場(小菅煉瓦製造所)が開かれる。
- 1878年(明治11年)煉瓦工場で囚人の苦役として煉瓦製造を行わせることができるとして県庁跡に小菅監獄を設置。翌1879年(明治12年)より囚治監で煉瓦製造を始める。
特記事項
- 新舎房2階が女区
- 旧舎房南1舎1階、南2舎3階は当所執行受刑者の舎房。南2舎2階、新北舎1階雑居は、移送待ち受刑者の舎房。南舎・北舎とも古い施設ではあるが、北舎は南舎に比べ若干新しい。
- 死刑場設備の改築で、東京拘置所に収監された死刑囚の死刑執行は一時期、宮城刑務所(宮城県仙台市若林区)で行われた。そのため通称「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。
- 『有栖川宮詐欺事件』を起こした男女2人(夫婦)が同拘置所に収監されていたが、2004年、夫らから同拘置所内の妻に送られてきた手紙を同拘置所が紛失。さらに、紛失した手紙が、週刊新潮に掲載された。このためこの夫婦は、2007年4月に、「精神的苦痛を受けた」として、法務省を相手取り、京都地裁に国家賠償訴訟を起こした。この裁判は、同地裁で2009年7月9日に、政府が手紙の流出を認め、妻に対し解決金150万円を支払い謝罪することで和解が成立した[6]。
- 2010年(平成22年)8月27日、法務大臣千葉景子の意向により、報道機関に死刑執行の刑場が初公開された[7]。
- 一般雑居房で「ビスケット」の購入願箋を提出すると、愛知県にある松永製菓の「しるこサンド」が届けられる。
脚注
- ^ 平和条約の発効(1952年)によりスガモプリズンは日本に移管され「巣鴨刑務所」となっていた(引き続き戦犯を収容)。1958年5月に最後の戦犯18名が釈放され、巣鴨刑務所は閉鎖された
- ^ 2013年(平成25年)5月16日法務省令第6号「刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規則の一部を改正する省令」
- ^ 2012年12月7日事件発生、2013年5月24日に強盗殺人容疑などで逮捕。
- ^ 2014年11月10日と同年11月16日に発生。2人を殺害し、1人を負傷させた。2015年1月15日に第2の事件の被害者男性に対する殺人容疑(後に強盗殺人容疑に切り替え)で、同年2月5日には第1の事件の夫婦に対する強盗殺人・同未遂容疑で逮捕、同日起訴。
- ^ 2012年12月18日に事件発生、2013年6月4日に強盗殺人容疑で逮捕。
- ^ 「有栖川宮」詐欺:拘置所から手紙流出、週刊誌掲載 国謝罪、150万円で和解 毎日新聞 2009年7月10日[リンク切れ]
- ^ 死刑の刑場、報道機関に初めて公開
外部リンク
座標: 北緯35度45分31.2秒 東経139度49分3.4秒 / 北緯35.758667度 東経139.817611度