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羅生門 (1950年の映画)

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羅生門
Rashomon
監督 黒澤明
脚本 黒澤明
橋本忍
製作 箕浦甚吾
出演者 三船敏郎
森雅之
京マチ子
志村喬
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
編集 西田重雄
製作会社 大映京都撮影所
配給 日本の旗 大映
公開 日本の旗 1950年8月26日
イタリアの旗 1951年9月
アメリカ合衆国の旗 1951年12月26日
フランスの旗 1952年4月18日
上映時間 88分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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羅生門』(らしょうもん)は、1950年昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎京マチ子森雅之志村喬モノクロスタンダード、88分。

芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。

自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影[注釈 1]を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限に映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した[1]。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。

日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞アカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。

2008年(平成20年)から角川映画映画芸術科学アカデミー東京国立近代美術館フィルムセンターの3社によってデジタル復元が行われ、2010年(平成22年)に3社に対して全米映画批評家協会賞の映画遺産賞が贈られた[2][3]

あらすじ

平安時代。打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も乱れて荒れ果てた京の都。かつては壮麗だったであろう羅生門も荒れ果て崩壊寸前のありさま。そんな羅生門に、夕立に降りこめられた下人が雨宿りのため飛び込んでくる。そこには先客がいた。その2人、杣売り旅法師は放心状態で、「わからねぇ、さっぱりわからねぇ」「物知りで名高い清水寺の上人でも、おそらくこんな不思議な話はご存知あるまい」」と呟き続けている。下人がその訳を問うと、二人は恐ろしもく奇妙な事件を語り始める。

3日前、を取りに山に分け入った杣売りは、侍・金沢武弘の死体を発見する。杣売りは検非違使に届け出、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。同じ道を通りがかった旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された侍が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。

やがて、侍を殺した下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦にすれ違い、風で市女笠の布が舞い上がった瞬間に垣間見た妻の素顔に欲情したあまり、侍を騙して木に縛りつけ、女を手籠めにした顛末を語る。その後に女が「自分の恥を二人に見せたのは死ぬより辛いから、どちらか死んでくれ、生き残った方のものとなる」と言ったために侍と一対一の決闘をして勝った。しかし、その間に女は逃げてしまい、短刀の行方は知らないと語る。

しばらくして、生き残っていた武弘の妻・真砂が検非違使に連れて来られた。真砂は男に身体を許した後、男は夫を殺さずに逃げた。だが目前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、思わず我を忘れ、自分を殺すよう夫に訴えたが、余りの辛さに意識を失い、やがて気がついた時には夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。

最後に巫女が呼ばれ、武弘の霊を呼び出して証言を得る。夫・武弘の霊が訴えることには、妻・真砂は多襄丸に辱められた後、多襄丸に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように彼に言ったのだという。そして、これを聞いた多襄丸は激昂し、女を生かすか殺すか夫のお前が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したという。

それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿は、あまりにも無様で浅はかなものであった。

スタッフ

キャスト

多襄丸:三船敏郎
都の内外に悪名が轟く盗賊。女好きとしても有名。真砂の美貌や気性の激しさに惹かれ、金沢夫婦を襲う。
金沢武弘:森雅之 
旅をしている武士。言葉巧みに多襄丸に山奥まで連れて行かれ、木に縛られ、妻を手籠めにされる。
真砂:京マチ子
金沢の妻。一見、おとなしく貞淑な妻だが、内心では激しい気性を抱えている。
杣(そま)売り:志村喬
金沢の遺体の第一発見者。事件を目撃し、人間不信になるが、最後に人間らしさを取り戻し、捨て子を育てようと決心する。
旅法師:千秋実
生前の金沢を目撃していたため、検非違使に呼ばれる。杣売りの話を聞いて人間不信となるが、ラストの杣売りの行動に心を救われる。
下人:上田吉二郎
雨宿りの際に暇つぶしに杣売りの話を聞く。杣売りの偽善性を突き、人間のエゴイズムをさらけだす行動をラストにおこなう。
巫女:本間文子
巫女というより霊媒師。金沢の霊を呼び込み、証言をおこなう。
放免:加東大介
河原で倒れていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。

製作

製作経緯

伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であったが、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した[4]

当時黒澤は、東宝争議の影響で成瀬巳喜男山本嘉次郎本木荘二郎らと共に映画芸術協会を設立してフリーとなっていたが、同協会は大映と契約を結んでいたこともあり、同社で製作交渉を行った。しかし、大映はこの難解な作品の映画化に首をひねったため、黒澤は社長の永田雅一に「セット一杯で出来る」と説得してようやく企画が了承された[5]

撮影

撮影は大映京都撮影所で行われた。その撮影所前の広場に原寸大の「羅生門」のオープンセットを建設した。このセットは間口18間(約33メートル)、奥行12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた[6]。さらに門の右側を大きく崩し、荒廃した姿を再現した。完成された門はとても巨大なものになり、黒澤も「私もあんな大きなものを建てる気はなかった」[7]と語っている。大映重役の川口松太郎も「黒さんには一杯食わされたよ」と愚痴っている[7]。門の扁額は縦1メートル20センチ、横2メートル15センチの大きさで、字は書家の宇野正太郎によるもの[注釈 2]。この門以外に作られたセットは検非違使の白洲のみで、森のシーンは奈良奥山の原生林と光明寺の森でロケーション撮影された。

冒頭の雨のシーンでは、モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせたという。このやり方は『七人の侍』の豪雨の中の合戦シーンでも用いている。

出演者は黒澤映画常連の三船敏郎志村喬千秋実らに京マチ子森雅之上田吉二郎、端役に加東大介本間文子の8人のみである。ヒロインの真砂役は当初、原節子でいくつもりだったが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まったという。

完成間際の1950年(昭和25年)8月21日、アフレコ収録中に撮影所が出火し、オリジナルネガは無事だったが、一部の音ネガが消失。さらにその翌日には映写機でのテスト中に再び炎が上がり、フィルムから放出された毒ガスにより30人ほどのスタッフが病床につくというアクシデントが起きてしまう[8]。試写会は8月25日の予定だが、黒澤は残り2日間で録音作業を行い、なんとか試写会に間に合わせている。

公開

8月25日、大映本社4階で試写会が行われた。しかし、試写を見ていた永田社長は「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ってしまった。さらに永田は総務部長を北海道に左遷し、企画者の本木荘二郎をクビにさせている[9]。翌日8月26日に本作は公開されたが、難解な作品だということもあり、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベスト・テンでは第5位にランクインされる程度だった。興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。

同年末、ヴェネツィア国際映画祭カンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られた。先に行われるカンヌ国際映画祭の候補作を選ぶため、各映画会社からお勧めの作品を選ぶこととなり、大映からは吉村公三郎の『偽れる盛装』と『羅生門』を選出した[注釈 3]。その中から関係者による投票を行い、上位2作品『また逢う日まで』と『羅生門』が候補作として選ばれた。しかし、『また逢う日まで』は製作会社の東宝争議の影響で出品費用が捻出できないため辞退、『羅生門』が残るも、こちらも辞退してしまっている。そんな中、イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリは、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなったが、何本と候補作を見ているとその一本である『羅生門』を観て感激し出品作に決めたが、大映側がこれに反対。そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて映画祭に送った[10]

当時、大映の重役をはじめほとんどの人々が作品の受賞を期待していなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で上映されるや否や大絶賛され、1951年(昭和26年)9月10日金獅子賞を獲得したのである。しかし、日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかったため、急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりにトロフィーを受け取ることになった。この姿は写真報道され、この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの誤解を招いたこともあった。

永田は受賞の報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返し、「訳分からん」と批判していたにもかかわらず、手のひらを返したように大絶賛し始め、自分の手柄のように語った。人はそんな永田の態度を「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄した。黒澤も後年このことを回想し、「まるで『羅生門』の映画そのものだ」[7]と評している。その後の大映は娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、吉村公三郎の『源氏物語』、溝口健二の『雨月物語』『山椒大夫』、衣笠貞之助の『地獄門』といった同社作品が次々と海外映画祭で受賞している。

黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で初めて知ったという。後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしている。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど、「あれは まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ。」[10]

評価

前述の通り、日本では公開時は不評だったが、海外では高く評価され、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞した。日本映画として初めて海外映画祭でグランプリに輝き、世界における日本映画の評価が高まるきっかけとなった。また、第24回アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞、翌年の第25回アカデミー賞では美術監督賞(白黒部門)にノミネートされ、この授賞式には淀川長治が出席した。

『羅生門』のグランプリ受賞は、当時まだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた日本人に、古橋廣之進競泳で世界最高記録を樹立したことと、湯川秀樹ノーベル物理学賞を受賞したことと共に、現代では想像も出来ぬ程の希望と光明を与えた。この受賞により黒澤明監督と日本映画は世界で評価されていき、日本映画も黄金期へと入っていった。

英国映画協会(BFI)の『Sight&Sound』誌が10年ごとに発表している「史上最高の映画ベストテン(The Sight & Sound Poll of the Greatest Films of All Time)」では、1992年の映画監督が選ぶベストテンで第10位、2002年の同ベストテンで第9位にランキングされている。1999年に『ヴィレッジ・ヴォイス(The Village Voice)』誌が発表した「20世紀の映画リスト」では日本映画として最高位の第10位に選出されている[11]

受賞

部門 対象 結果
ブルーリボン賞 1950年 脚本賞 黒澤明橋本忍 受賞
毎日映画コンクール 1950年 女優演技賞 京マチ子 受賞
アカデミー賞 1951年 名誉賞 受賞
1952年 美術監督賞(白黒部門) 松山崇、松本春造 ノミネート
ヴェネツィア国際映画祭 1951年 金獅子賞 受賞
イタリア批評家賞 受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 1951年 監督賞 黒澤明 受賞
外国語映画賞 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 1951年 外国語映画賞 次点
全米映画評論委員会賞 1951年 監督賞 黒澤明 受賞
英国アカデミー賞 1952年 総合作品賞 ノミネート
全米監督協会賞 1953年 長編映画監督賞 黒澤明 ノミネート

ランキング

選考年 媒体・団体 部門 順位
1950年 キネマ旬報 キネマ旬報ベスト・テン 5位
1959年 日本映画60年を代表する最高作品ベスト・テン 12位
1979年 日本映画史上ベスト・テン 9位
1982年 英国映画協会『Sight&Sound』誌 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン 81位
1992年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン 66位
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン 10位
2002年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン 13位
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン 9位
2012年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン[12] 26位
映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン[13] 18位
1989年 キネマ旬報 日本映画史上ベスト・テン 15位
1989年 文藝春秋 大アンケートによる日本映画ベスト150 4位
1995年 キネマ旬報 日本映画 オールタイム・ベストテン 7位
世界映画 オールタイム・ベストテン 33位
1999年 オールタイム・ベスト100 日本映画編[14] 5位
2000年 ヴィレッジ・ヴォイス 20世紀の映画リスト 10位
2009年 キネマ旬報 オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇[15] 7位
2010年 エンパイア 史上最高の外国語映画100本[16] 22位
トロント国際映画祭 エッセンシャル100[17] 14位

エピソード

下人役の上田吉二郎は、本作のグランプリ受賞後、葉書半分大の大きな名刺を作り、「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷して話題をまいた[18]

リメイク

暴行The Outrage
アメリカ映画 1964年
オリジナル版『羅生門』の権利を正式に買い、この脚本を元に、舞台をメキシコに置き換えて再映画化された。
ウモーン・パー・ムアン-羅生門』(U Mong Pa Meung、อุโมงค์ผาเมือง、英題:The Outrage
タイ映画 2011年、オリジナル版『羅生門』の脚本をククリット・プラーモートが演劇用にタイ語に翻案した脚本を原作に、舞台を今から約500年前のタイに置き換えて映画化。
未完成版リメイク
1971年(昭和46年)に松竹で、当時俳優として売り出し中の三船史郎三船敏郎の長男)の主演で、リメイク版『羅生門』の制作が発表されたが、準備中のまま完成には至らなかった。配役は次の予定であった。

脚注

注釈
  1. ^ フィルムが焼けてしまうため、タブーとされていた
  2. ^ 東京国立近代美術館フィルムセンターHP フィルムセンター・ニュース「『羅生門』扁額の書家が判明」 同サイトによると、その扁額は現在宮川一夫の息子が所蔵している。
  3. ^ 東宝からは『また逢う日まで』と『愛と憎しみの彼方へ』、松竹からは『長崎の鐘』、東横映画からは『レ・ミゼラブル ああ無情』と『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、新東宝からは『暁の脱走』を選出
出典
  1. ^ 都築2010、p.177
  2. ^ 『羅生門』デジタル復元 全米映画批評家協会章受賞東京国立近代美術館フィルムセンター、2017年3月18日閲覧
  3. ^ 「羅生門復元プロジェクト」が“全米映画批評家協会遺産賞”を受賞しました!角川映画、2017年3月18日閲覧
  4. ^ 都築2010、p.174
  5. ^ 『昭和 二万日の全記録 (第9巻) 独立-冷戦の谷間で 昭和25年-27年』 講談社、1989年 ISBN 9784061943599 p.185
  6. ^ 都築2010、p.176
  7. ^ a b c 黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』
  8. ^ 映画保存協会 映画保存とは 第二章「映画フィルム」
  9. ^ 浜野保樹『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』 角川グループパブリッシング、2008年 ISBN 9784048839938 p.160
  10. ^ a b 都築2010、p.186
  11. ^ 100 Best Films - Village Voice,Filmsite,2017年3月18日閲覧
  12. ^ The 50 Greatest Films of All Time,英国映画協会,2017年3月18日閲覧
  13. ^ Directors’ top 100,英国映画協会,2017年3月18日閲覧
  14. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』、キネマ旬報社、2012年5月23日、p.588
  15. ^ 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開キネマ旬報映画データベース、2017年3月18日閲覧
  16. ^ 英エンパイア誌の「史上最高の外国語映画100本」 第1位に「七人の侍」、映画.com、2017年3月18日閲覧
  17. ^ The Toronto Film Festival’s Essential 100 Movies” (英語). Film (2010年2月7日). 2017年3月18日閲覧。
  18. ^ 稲垣浩『日本映画の若き日々』、毎日新聞社

参考文献

  • 『黒澤明 全作品と全生涯』、岩波書店、2010年。ISBN 9784487804344 

関連項目

外部リンク