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長福寺 (名古屋市中区)

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長福寺
七寺(長福寺)
所在地 愛知県名古屋市中区大須2丁目28-5
位置 北緯35度9分29.47秒 東経136度54分0.26秒 / 北緯35.1581861度 東経136.9000722度 / 35.1581861; 136.9000722座標: 北緯35度9分29.47秒 東経136度54分0.26秒 / 北緯35.1581861度 東経136.9000722度 / 35.1581861; 136.9000722
山号 稲園山
宗派 真言宗智山派
本尊 聖観世音菩薩
創建年 (伝)天平七年(735年)
開基 (伝)行基
正式名 稲園山 正覚院 長福寺
別称 七寺
札所等 東海三十六不動尊第九番霊場、名古屋二十一大師第二番霊場
文化財 観音菩薩・勢至菩薩像、七寺一切経
法人番号 3180005000306 ウィキデータを編集
長福寺 (名古屋市中区)の位置(愛知県内)
長福寺 (名古屋市中区)
長福寺 (名古屋市中区)の位置(名古屋市内)
長福寺 (名古屋市中区)
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長福寺(ちょうふくじ)は、愛知県名古屋市中区にある真言宗智山派の準別格本山寺院。山号は稲園山(とうえんざん)。七寺(ななつでら)とも称される。

沿革

寺伝によれば、天平7年(735年)、尾張国海東郡萱津(現在の愛知県あま市)に行基が開山。当時は正覚院と称した。

延暦6年(787年)、紀是広が7歳で亡くなった子を弔うために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を建立した事から、これに因んで七寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍は仁和3年(887年)の水害や天慶4年(941年)の兵火により荒廃したが、仁安2年(1167年)、勝幡城城主・尾張権守大中臣朝臣安長が娘の菩提を弔うため、婿であった豊後守親実と共に計らって寺を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、七堂伽藍と十二僧坊も再建した。

安長は安元元年(1175年)から治承2年(1178年)に掛けて一切経を書写させると共に、阿弥陀如来像と観音菩薩勢至菩薩像を奉納し、寺の名を稲園山長福寺と改めたが、安長が建立した寺塔のほとんどは建武年間の戦火で焼失した。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に寺を移して本堂を再建。

慶長16年(1611年)、徳川家康清洲越しの命によって現在地に移転されるに当たって本堂が清洲から移築。かつて失われた諸堂も再建された。元禄13年(1700年)には尾張藩二代藩主徳川光友により三重塔が再建され、享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となった。

名古屋大空襲の戦災前までは、境内には芝居小屋や茶店が建ち並び、他、多くの露店・出店なども建ち並び、縁日なども行われて、多くの人達で賑わっていたと言う。当時の大須界隈にあっては大須観音名古屋御坊(西本願寺)[1]を凌ぐ寺勢を誇ったとも伝わる。

近代

明治12年(1879年)、総本山智積院の末寺となった。明治34年(1892年)10月15日に七堂伽藍の境内に愛知教育博物館が開館された。しかし明治43年(1910年)に愛知教育博物館は取り壊され、愛知県商品陳列館が開設(愛知県商品陳列館は(昭和9年(1934年)に取り壊された)された。明治44年(1911年)には準別格本山に昇格したが、昭和20年(1945年)3月19日の名古屋大空襲本堂三重塔など経蔵以外の七堂伽藍全てを焼失。終戦後に大須観音などと共に大須の住民や関係者などから七寺の再建に期待があったが、資金難など様々な理由で七堂伽藍の再建が難しくなり、境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在では三重塔や芝居小屋などがあった場所は駐車場やビル等などの飲食店などがある建物が建っており、街中にある小さな寺の様相となっている。

年中行事

  • 1月1日 - 新春元朝護摩祈祷会
  • 旧2月初午 - 初午大祭大般若祈祷会
  • 春分の日 - 春季彼岸法要
  • 8月19日 - 孟蘭盆施餓鬼会
  • 秋分の日 - 秋季彼岸法要
  • 11月酉の日 - 大須酉の市
  • 毎月18日 - 観世音菩薩御縁日

文化財

重要文化財

  • 木造観音菩薩・勢至菩薩坐像[2]
平安時代後期作。もとの本堂本尊・阿弥陀如来坐像の両脇侍だったもの。「阿弥陀三尊像」として1904年(明治37年)に重要文化財(当時の国宝)に指定されたが、1945年3月19日の空襲で本堂(旧国宝)と本尊の阿弥陀如来像は焼失、かろうじて観音菩薩像・勢至菩薩像の本体と勢至菩薩像の光背のみが搬出されて焼失をまぬがれた。この時の空襲では本堂内にあった木造持国天・毘沙門天像(旧国宝)も焼失した。
  • 七寺一切経(ななつでらいっさいきょう)[3]
    • 一切経 3,398巻・1,556帖
    • 黒漆一切経唐櫃(中蓋・内箱共)30合

脚注

  1. ^ 名古屋御坊(西本願寺) - 現在の本願寺名古屋別院(西別院)
  2. ^ 文化財ナビ愛知
  3. ^ 文化財ナビ愛知

参考文献

  • 文化庁 編『戦災等による焼失文化財(増訂版)建造物編』便利堂、1983年。 
  • 文化庁 編『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』便利堂、1983年。 
  • 『尾張名所図会』 第一巻 七ツ寺、1844年

関連項目

外部リンク