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日本とイランの関係

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日本とイランの関係
IranとJapanの位置を示した地図

イラン

日本

日本とイランの関係ペルシア語: روابط ایران و ژاپن‎、英語: Iran–Japan relations)とは、日本イランの外交関係であり、公式に樹立されたのはパフラヴィー朝ペルシャ時代の1926年であった[1]第二次世界大戦中を例外とすれば、歴史を通して両国は比較的友好的かつ強く戦略的な関係を維持してきた。

日本のイランとの外交政策投資は、歴史的に安全が保障されたエネルギーの供給への要望に著しく影響されていた。イランは日本にとって、サウジアラビアアラブ首長国連邦に続ぐ三番目に重要な石油供給国である[2]。また、日本とイランはアフガニスタン再建やイスラエル=パレスチナ紛争などの中東の地域的な外交関係において協調している[3]。日本とイランの貿易収支はイランに重大な比重があり、日本は自動車や電気製品、重要な石油製品や石油化学製品を輸出している。

両国の比較

イランの旗 イラン 日本の旗 日本 両国の差
人口 7910万人(2015年)[4] 1億2711万人(2015年)[5] 日本はイランの約1.6倍
国土面積 164万8195 km²[4] 37万7972 km²[6] イランは日本の約4.4倍
首都 テヘラン 東京
最大都市 テヘラン 東京
政体 イスラム共和制[7] 議院内閣制[8]
公用語 ペルシア語[9] 日本語事実上
国教 イスラム教シーア派ジャアファル法学派十二イマーム派[10] なし
GDP(名目) 3969億1500万米ドル(2015年)[11] 4兆1162億4200万米ドル(2015年)[11] 日本はイランの約10.4倍
防衛費 102億6500万米ドル(2015年)[12] 409億米ドル(2015年)[12] 日本はイランの約4.0倍

歴史

明治維新以前(~1868年)

ペルシャ風水差し正倉院宝物の『漆胡瓶』[13]

地理的に離れていた日本とイラン(ペルシャ)は、有史以来19世紀まで全くと言っていいほど直接の交流を持っていない。明治維新以前の両国は、シルクロードを経由して、イランの影響を受けた美術品が日本にもたらされる程度の関係でしかなかった。

数少ない例外として、奈良時代天平年間に日本を訪問したペルシャ人のことが、勅撰史書『続日本紀』に記載されている。736年(天平8年)、ペルシャでは後に第6代イマームとなるジャアファル・サーディクが信徒の精神的支柱となっていた時期、日本では藤原四子政権晩期に相当する時期に、遣唐副使中臣名代唐人3人と波斯人(ペルシャ人)1人を伴って日本に帰国し、聖武天皇に会った[14]李密翳という中国名で記録されたこのペルシャ人には位が授けられている[15]が、その後の消息は不明である[16]。平城宮跡から出土した木簡の解読により破斯清通という大学寮の官吏(765年当時)がいたことが2016年に判明したが、破斯(波斯)はペルシャを意味する名であり、李密翳もしくはその関連人物ではないかと推測されている[17][18]

明治維新から第二次大戦終結まで(1868~1945年)

1878年ロシア帝国に向かった日本の使節、榎本武揚サンクトペテルブルクガージャール朝ペルシャの国王ナーセロッディーン・シャーと公式に謁見した。また1880年には外務省御用掛の吉田正春を正使とする使節団が記録に残る日本人として初めてペルシャの地を踏み、テヘランでナーセロッディーン・シャーに謁見し通商の許可を得ている。しかしながら、公式な外交関係はパフラヴィー朝成立後の1926年まで樹立されなかった。1935年、パフラヴィー朝は国号をペルシャからイランに改めた。日本とイランの友好条約が調印されたのは1939年で、国王のレザー・シャーが親ドイツであったこともあり、第二次世界大戦で中立を保っていたスペインスウェーデンスイスなどと同様に、日本との間で誠実な関係が築かれていた。太平洋戦争勃発後のイランは中立を宣言したが、既にイギリスソビエト連邦から露骨な内政干渉を受けていたイランが中立を守り抜くことは困難を極めた。

タブリーズを我が物顔で闊歩する赤軍T-26軽戦車と軍人たち

さかのぼる1941年8~9月、英ソ両国の軍隊がイランの国土を蹂躙して親ドイツ派で政治手腕に長けていたレザー・シャーを強引に廃位させて、若年で扱いやすいモハンマド皇太子を新しい君主に据えるなど、英ソ両国によるイランへの内政干渉は止まることを知らなかった。こうした外交圧力の成果もあって、1942年4月にイランは日本との国交を断絶、1945年2月28日には日本を含む枢軸国に対して宣戦布告するに至った[19]。その後、日本とイランは国交を回復することがないまま、1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。

第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)

日本とイランの間で公式な外交関係が復活したのは、サンフランシスコ講和条約が調印された後の1953年だった[20]

1953年日章丸事件が起こる。この事件が、イラン人が親日的である理由の一つと指摘されることがある。

1955年、パフラヴィー朝イラン帝国とイギリス、トルコパキスタンイラク王国の5ヶ国で中東条約機構(METO)を結成した。加盟国のうちイギリスを除く4ヶ国は全てソビエト連邦と国境を接しており、中東版の北大西洋条約機構(NATO)、日米安保体制に位置づけられる反共ブロックであった。本部をイラクの首都バグダードに置いていたので、バグダード条約機構とも称された。同じ反共陣営の君主国同士として、正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものであった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている。(詳細は日本とイランの関係#パフラヴィー朝時代(1925~1979年)を参照。)

1958年にはイランの隣国イラクで王政打倒のクーデターが起こり、親米反共のイラク王国が崩壊。翌1959年には、ソビエト連邦との結び付きを深めたイラクが中東条約機構から脱退した。これにより、中東条約機構は中央条約機構(CENTO)に改称され、本部は東側陣営に寝返ったイラクの首都バグダードからNATO加盟国でもあるトルコの首都アンカラに移転した。引き続き反共陣営に留まったイランは、以後20年近くに渡って反共の親米国であり続け、相対的に中東における重要性を増して行った。パフラヴィー朝イラン帝国は秘密警察サヴァクペルシア語版英語版」が共産分子や宗教分子を取り締まる独裁国のような一面も持っていたが、同時代に親米の独裁体制を敷いていた韓国1993年まで軍事政権)や台湾1987年まで戒厳令下の国民党一党独裁)、フィリピン1986年まで戒厳令下の独裁体制)、南ベトナム1975年の滅亡まで軍事政権)などとの良好な関係と同様、日米安保体制を主軸とする日本にとってイランは友好国であり続けた。

1974年、日本とイランはビザ免除の観光協定に調印し、両国の国民はビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になった[21]。日本とイランの友好関係は頂点に達したと言えよう。

イラン革命以後(1979年~)

しかし1979年2月、イランで革命が起こってパフラヴィー朝が崩壊し、同年11月には首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取った。これは宣戦布告同然の行為であり、本来であればイラン当局は暴徒を取り締まるべき立場にあったが、どういうわけかイラン当局は静観を決め込んで、アメリカ人の人質解放に積極的に動かなかった。1980年4月、業を煮やしたアメリカはイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。この事件を解決できなかったアメリカジミー・カーター大統領は威信を大いに傷つけられ、大統領選での再選も叶わず、ロナルド・レーガンへの政権交代を許す一因となった。イランのアメリカ大使館人質事件はレーガン大統領が就任してすぐに解決したが、この事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪化させた。

上記のアメリカ大使館人質事件に加えて、重要な親米国群である湾岸諸国をイランによる王制転覆から守る意味合いからも、1980年代は、イラン・イラク戦争(レーガン政権の時期とほぼ重なる)でアメリカがイランの敵イラクを支援するという構図が出来上がった。アメリカの外交政策の影響で、日本もイランとの関係を縮小させるように圧力がかけられ、一方で日本とイラクの関係が深まる結果となった。以降、日本は「アメリカの顔色を窺いながら、可能な範囲でイランとの関係を維持、強化する」という図式が定着している。

1992年4月、観光目的で入国したにも関わらず不法滞在する在日イラン人の増加を理由に、革命前に締結されて継承もされていたビザ免除の観光協定が停止された[21]2004年から日本はイラン最大のアーザーデガーン油田の開発事業を行っている[22]

2010年2月23日、イランのアリー・ラーリージャーニー国会議長衆議院の招待で来日した[23]。議長は、同月24日に岡田克也外務大臣と会談し[24]、同月27日には長崎市を初めて訪れ、長崎原爆資料館を見学した。議長は記者団に「世界に一つでも原爆が存在すれば人類への脅威だ。人々は、核のない世界に向けて立ち上がるべきだ」と感想を述べた。見学後、田上富久長崎市長らと共に、資料館近くの爆心地公園にある原爆落下中心地碑に献花した[23]

2011年12月9日、日本は「国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について」に基づき、イランの原子力開発に関わる銀行3行(累次の決議及び昨年の付随措置との合計20行)、銀行以外の者106団体・1個人(累次の決議及び昨年の付随措置との合計267団体・66個人)に対する支払等及び指定された者との間の資本取引等を許可制とし、銀行とのコルレス関係を停止した。また、金融活動作業部会(FATF)の声明を受け、金融機関等に対し、顧客の本人確認義務、疑わしい取引の届出義務及び外国為替取引に係る通知義務の履行を徹底するよう要請した。


2005年ハータミー大統領が退陣してからは、長らく日本とイランの首脳会談は行われていなかった。しかし、2012年12月の衆院選の結果を受けて日本で安倍晋三内閣総理大臣に返り咲き、イランでは強硬派のマフムード・アフマディーネジャード大統領が最長任期を満了して迎えた2013年6月の大統領選の結果を受けて同年8月からハサン・ロウハーニーが大統領に就任すると、両国の首脳は急速に関係を改善させた。安倍首相は、いち早くロウハーニー大統領の就任に対して祝辞を述べ、翌9月には首相の親書を携えた高村正彦総理特使をイランに派遣してロウハーニー大統領らと会談を行った[25]。1979年のイラン革命後、未だ日本の現役首相がイランを公式訪問した実績はないものの、ニューヨークで毎年開催される国連総会など第三国の国際会議に参加する機会を捉えて安倍首相とロウハーニー大統領が会談することが慣例となっている。具体的には、2013年9月26日(現地時間、以下同)に国連総会開催中のニューヨークでロウハーニー大統領が就任してから初の首脳会談が実現し[26]、翌2014年9月23日には同じく国連総会開催中のニューヨークで二度目の首脳会談を行った[27]。また、2015年は、9月27日に国連総会開催中のニューヨークで定例となった首脳会談を行っただけではなく[28]、遡る4月22日にも60周年記念を迎えたアジア・アフリカ会議を開催中のジャカルタで首脳会談の場を設けた[29]2016年9月、国連総会開催中のニューヨークで、同地では4度目、通算で5度目となる安倍・ロウハーニー首脳会談が行われた[30]。尚、2016年8月には、革命直前のイランを訪問した福田赳夫首相以来38年ぶりとなる日本の現役首相のイラン訪問が予定されていたが、急遽、日本側の都合により安倍首相のイラン訪問の中止が決定された。政府筋によると、安倍首相はアメリカ大統領選の実施を待ち、その後にイラン訪問の是非を再検討する意向とのこと[31]

2017年1月8日の夜(現地時間)、ホメイニー師の弟子でありイラン革命の成就と防衛に生涯を捧げた、イラン公益評議会議長にして元大統領ハーシェミー・ラフサンジャーニーが心臓発作によりテヘラン市内の病院で逝去、82歳であった[32]。翌9日、岸田文雄外務大臣が哀悼のメッセージを発出、10日には安倍首相がラフサンジャーニー元大統領の功績を偲びつつ、心からの哀悼の意を伝えるメッセージを発出した[33]。また、この訃報を受けて、鈴鹿光次駐アフガニスタン日本大使が在アフガニスタン・イラン大使館を訪問してバフラーミー駐アフガニスタン・イラン大使ペルシア語版と会談、テヘランでラフサンジャーニー元大統領と何度か会って話したことがある旨を挙げて故人を回想しつつ、得意のペルシャ語で「ラフサンジャーニー師の死去に際して、深い追悼の意を表明する。/同師とのすばらしい思いでとともに/2017年1月10日/鈴鹿光次・駐アフガニスタン日本大使」と記帳した[34]

2017年5月19日、イランで大統領選挙ペルシア語版英語版が行われ、翌20日に現職のロウハーニー大統領の再選が発表されたことを受けて、同日中に安倍首相および岸田外相がロウハーニー大統領に宛てて当選を寿ぐ祝辞を送った[35][36]

要人往来

パフラヴィー朝時代(1925~1979年)

1957年6月、イランの皇妹ファーテメ・パフラヴィーペルシア語版英語版と同夫君が訪日。1958年5月、皇弟ゴラームレザー・パフラヴィーペルシア語版英語版が訪日し、その後、皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが国賓待遇で訪日した[37]。その後、皇族が訪日することなく1979年に王政が打倒されたので、王政復古が起こらない限りは、これが史上最後のイラン皇族の訪日となる。また、これまでイランの最高指導者が訪日した例はないので、現時点では、1958年の皇帝来日がイラン国家元首の最後の訪日となっている。(後にハータミー大統領が訪日するが、イランの国家元首は最高指導者であり、大統領は首脳ではあるが国家元首ではない。)

1971年10月、三笠宮崇仁親王同妃殿下が、ペルシャ帝国建国2500年式典参列のためイランを訪問[38]。以後、日本の皇族がイランを訪問したことはないので、これが日本の皇族がイランを訪問した最後の例になっている。

1978年9月、福田赳夫内閣総理大臣がイランを訪問[4]。革命後に日本の現役首相がイランを訪問した例はないので、これが日本の現役首相としては最後のイラン訪問となっている。(現役首相ではなく首相経験者であれば、橋本龍太郎鳩山由紀夫の両名が首相を辞任した後にイランを訪問したことはある[4]。)

イラン・イスラム共和国時代(1979年~)

1979年10月、江崎真澄通商産業大臣が日本の現役閣僚として初めて革命後のイランを訪問[4]1983年8月、安倍晋太郎外務大臣が日本の現役外相として初めて革命後のイランを訪問[4]1984年4月、アリーアクバル・ヴェラーヤティー外務大臣が革命後のイランの現役閣僚として初めて訪日[4]

1989年は、1月に昭和天皇が崩御し、6月にホメイニー師が逝去するという、日本とイランの両国において大きな悲しみが襲った年であった。同年2月、モスタファー・ミールサリームペルシア語版英語版副大統領が大喪の礼弔問使節として訪日[4]。同年7月、前月に亡くなった最高指導者ホメイニー師の弔問使節として、藤尾正行自民党政調会長がイランを訪問[4]。また、翌1990年今上天皇即位の礼に際して、モアエリ大統領顧問が訪日している[4]

2000年10月、イランの大統領モハンマド・ハータミーが日本を訪問。これは革命後のイラン首脳としては初の訪日で、パフラヴィー朝時代を含めると、1958年の皇帝来日以来の実に42年ぶりとなるイラン首脳の訪日となった。

2004年8月、橋本龍太郎元総理大臣が日本の首相経験者として初めて革命後のイランを訪問[4]2012年4月、鳩山由紀夫元総理大臣がイランを訪問[4]

文化交流

日本におけるペルシア語教育

1925年大阪外国語学校印度語部の研修語として日本初のペルシア語が開講[39]1961年、大阪外国語学校の流れを汲む大阪外国語大学がペルシア語学科を設置。イラン革命以前の日本においては、大阪外国語大学のみが常設のペルシア語学科を持っている大学であった。2007年には大阪外国語大学が大阪大学に統合されたが、大阪大学外国語学部外国語学科に所属する形でペルシア語専攻が存続している[39]

イラン革命が起こった翌年の1980年東京外国語大学が日本の大学で二番目となるペルシア語学科を開設[40]1993年、東京外国語大学のペルシア語学科は中東語学科ペルシア語専攻に改組され、1995年には南・西アジア課程ペルシア語専攻となった[40]

イランにおける日本語教育

イランにおける日本語教育は、テヘラン大学を中心に行われている。テヘラン大学の日本語・日本文学学科は、1994年に設立された。ここでは、国際交流基金の協力のもと、試行錯誤を重ねながら日本語教育が施されてきた。1999年にはカリキュラムが改訂され、それにより初級・中級レベルの学習に関わる単位数・授業時間数が大幅に増えることになった。その後も修正を加ながら、日本語の基礎的運用能力の確実な習得を重視する教育が現在行われている[41]

日本人のシーア派ムスリム(イスラム教徒)

日本人シーア派ムスリムとして最も高名なのは、[エブラヒム澤田達一師である。シーア派学問の中心地であるゴムイスラム法学院で神学法学論理学解釈学政治学を学び、日本人として初のシーア派聖職者となり、1998年に日本へ帰国[42]。イランの宗教大学アルムスタファー国際大学ペルシア語版英語版在日事務所の研究教務部長を務めるほか[43]クルアーン日本語訳も出版している[44]

外交使節

駐イラン日本全権大使・公使

駐イラン日本全権公使

※1942~1955年は、イランへの駐箚なし

駐イラン日本全権大使

駐日イラン大使・公使

駐日イラン全権公使
駐日イラン・イスラム共和国大使館(東京都港区南麻布)

※1942~1955年は、イランから日本への駐箚なし

駐日イラン全権大使

※1979~1982年は、イランから日本への駐箚なし

脚注

  1. ^ Japan-Iran relations”. Ministry of Foreign Affairs, Japan (2007年7月). 2007年8月7日閲覧。
  2. ^ “Japan Strives to Balance Energy Needs with World Politics”. Wharton School of Business, University of Pennsylvania. (2006年11月26日). http://knowledge.wharton.upenn.edu/article.cfm?articleid=1615&CFID=32052905&CFTOKEN=39775290&jsessionid=9a30d4c02e6c7831342b 2007年8月8日閲覧。 
  3. ^ “Iran, Japan Ready to Cooperate in Afghan, Palestinian Issues”. People's Daily. (2002年5月5日). http://english.peopledaily.com.cn/200205/05/eng20020505_95173.shtml 2007年8月7日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l イラン基礎データ | 外務省
  5. ^ 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要 - 2016年2月26日
  6. ^ 日本の統計2016 第1章~第29章 | 総務省統計局
  7. ^ イラン・イスラーム共和国憲法第1条で明確に定められている。
  8. ^ 日本国憲法で明確に定められている。
  9. ^ イラン・イスラーム共和国憲法第15条で明確に定められている。
  10. ^ イラン・イスラーム共和国憲法第12条で明確に定められている。
  11. ^ a b Report for Selected Countries and Subjects | International Monetary Fund (英語)
  12. ^ a b SIPRI Fact Sheet, April 2016 Archived 2016年4月20日, at the Wayback Machine. (英語) - 2016年4月
  13. ^ “正倉院展あす開幕 「漆胡瓶」など64件 奈良国立博物館”. 産経新聞. (2016年10月21日). http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/161021/lif16102116080008-n1.html 2016年10月25日閲覧。 
  14. ^ 『続日本紀』巻第十二 天平八年八月庚午条。
  15. ^ 『続日本紀』巻第十二 天平八年十一月戊寅(11月3日)条。「波斯人李密翳等ニハ位ヲ授クルコト、差アリ」
  16. ^ 李密翳は、松本清張歴史小説眩人』のモデルにもなった。
  17. ^ “奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前”. 読売新聞. (2016年10月5日). http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161004-OYT1T50163.html 2016年10月8日閲覧。 
  18. ^ “平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家”. 産経新聞. (2016年10月5日). http://www.sankei.com/west/news/161005/wst1610050057-n1.html 2016年10月8日閲覧。 
  19. ^ 昭和戦前期のイランとの親善関係”. 外交史料館 特別展示「日本とペルシャ・イラン」. 外務省 (2015年5月18日). 2015年5月21日閲覧。
  20. ^ Kodansha Encyclopedia of Japan, pp.623
  21. ^ a b "Chapter III, Section 6: The Middle East". Diplomatic Bluebook: Japan's Diplomatic Activities. Ministry of Foreign Affairs, Japan. 1992. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月7日閲覧 {{cite conference}}: 不明な引数|deadlinkdate=は無視されます。 (説明)
  22. ^ “Japan ready for talks with Iran on lucrative Azadegan oil venture”. Islamic Republic News Agency. (2006年9月15日). オリジナルの2007年9月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070930235416/http://www.irna.ir/en/news/view/line-18/0609159288125734.htm 2007年8月7日閲覧。 
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  27. ^ 日・イラン首脳会談(概要) | 外務省 - 2014年9月23日
  28. ^ 日・イラン首脳会談 | 外務省 - 2015年9月28日
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  33. ^ ラフサンジャニ・イラン公益評議会議長の逝去を受けた安倍総理大臣による弔意メッセージ | 外務省 - 2017年1月10日
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  35. ^ 安倍晋三内閣総理大臣発ローハニ・イラン大統領宛祝辞 | 外務省 - 2017年5月20日
  36. ^ 岸田外務大臣発ローハニ・イラン大統領宛祝辞 | 外務省 - 2017年5月20日
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関連項目

外部リンク

参考文献

岡田恵美子他編『イランを知るための65章』、明石書店、2004年。ISBN 4-7503-1980-5