山城丸
山城丸(やましろまる)とは
初代
船歴(初代) | |
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竣工 | 1884年5月 |
その後 | 1910年9月1日解体 |
主要目(初代) | |
総トン数 | 2,528トン |
垂線間長 | 92.03 m |
型幅 | 11.48 m |
型深 | 9.36 m |
吃水 | 6.51 m |
主機 | レシプロ 1基 |
出力 | 2,200馬力(最大) 2,000馬力(計画) |
航海速力 | 12.0ノット |
最高速力 | 13.0ノット |
元々は、共同運輸会社がイギリスのアームストロング・ミッチェル社に発注して就航させた船。共同運輸では、有事の際には軍艦代用としても使えるような優秀船舶を揃える方針を採っており[1]、「山城丸」は、姉妹船の「近江丸」とともにそのような資格を備えた船舶として発注された[1]。当初は「武蔵丸」、「大和丸」と命名される予定であったが、海軍省の指導により「山城丸」、「近江丸」に変更された[1]。「山城丸」は竣工後に日本に回航され、1884年(明治17年)7月9日に横浜港に到着した[1]。
就航の翌1885年(明治18年)6月、日本初の移民船として井上勝之助率いる移民団を乗せてハワイ航路に、「近江丸」とともに就航[2]。同じ年の10月、共同運輸が郵便汽船三菱会社と合併したことから日本郵船の所有となる。1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると水雷母艦や陸軍軍用船として徴用された。1896年(明治29年)10月3日からは、新設された横浜-メルボルン間の航路に就航し、1898年(明治31年)に「春日丸」(3,938トン)が同航路に就航するまで活躍した。1904年(明治37年)からの日露戦争でも陸海軍の軍用船として徴用された。船歴の最後では神戸-大連航路に就航[3]。1910年(明治43年)に売却され、大阪でスクラップとなった[4]。
艦長
2代目
船歴(二代) | |
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竣工 | 1912年11月9日 |
その後 | 1943年9月23日沈没 |
主要目(二代) | |
総トン数 | 3,606トン |
垂線間長 | 105.16 m |
型幅 | 14.02 m |
型深 | 8.53 m |
吃水 | 6.80 m |
主機 | レシプロ 1基 |
出力 | 3,265/3,541[7]馬力(最大) |
航海速力 | 10.3ノット |
最高速力 | 15.4ノット |
日本郵船は1875年(明治8年)以来、政府の命令航路の一つとして上海航路を開設していた[8]。日露戦争後、同航路の船質改善のために二代目の「近江丸」(4,555トン)がイギリスで建造された。その「近江丸」の姉妹船として建造されたのが、同じく二代目の「山城丸」であった。「山城丸」は「近江丸」と違って、川崎造船所で建造された。
第一次世界大戦後の1920年(大正9年)、日本郵船は長崎を発着する新たな上海航路を開設するに及んで[9]、「山城丸」と「近江丸」は同航路から撤退。その頃、1917年(大正6年)に開設された南洋諸島方面への航路を拡充する事となり、「山城丸」は「近江丸」とともに投入される事となった。南洋諸島方面の航路は、南洋諸島の範囲内のほかセレベス島マナドにも寄港し[10]、諸島内の生活や開発に欠かせない航路となっていた[11]。幾度かの航路の修正が行われたが、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争勃発後、航路は翌1942年(昭和17年)に設立された船舶運営会に「山城丸」や「近江丸」、「サイパン丸」(5,533トン)など使用船舶ともども移管され、運航は不定期になって[12]輸送船団を構成することが義務付けられたものの[13]、航路は従前どおり維持された。しかし、1942年8月5日に「パラオ丸」(4,495トン)が、12月28日に姉妹船「近江丸」がそれぞれ戦渦により沈没していた。これより先の1941年7月10日から8月29日の間には、日本陸軍に傭船された[14]。
1943年(昭和18年)9月16日、「山城丸」は横浜を出港して父島二見港に向かった[15]。9月21日、「山城丸」は輸送船「両徳丸」(大家商事、3,483トン)とともに3916船団を構成し、特設掃海艇「第二文丸」(西大洋漁業、297トン)[16]の護衛を得て二見港を出港してサイパン島に向かった。しかし、2日後の9月23日朝、北緯20度45分 東経142度05分 / 北緯20.750度 東経142.083度の地点にさしかかった3916船団はアメリカ海軍潜水艦トラウト (USS Trout, SS-202) の攻撃を受ける。当時、「山城丸」の船内では攻撃を受けたときに備えて、朝に退船訓練を実施していた[17]。8時30分、「両徳丸」の船尾にトラウトからの魚雷が命中。151名の乗客は「両徳丸」被雷の光景を見て動揺したものの、すぐに訓練どおりの行動に移った[17]。間もなく「山城丸」にも魚雷が向かってきたので回避行動に入ったものの、魚雷は「山城丸」の中央部に命中[17]。魚雷が命中した「山城丸」、「両徳丸」ともに操舵が困難となって、一時は衝突しそうになった[17]。「山城丸」は左に大きく傾いた後、8時48分に船尾から沈没していった。「山城丸」と「両徳丸」の乗員乗客は「第二文丸」や別の哨戒艇に大部分が救助され、サイパン島行きを希望した遭難者は「第二文丸」でサイパン島に向かい、残りは父島に戻った[14]。山城丸の乗員は、当直の機関士4名が殉職した以外は日本に全員生還した[14]。
3代目
船歴(三代) | |
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竣工 | 1963年11月19日 |
その後 | 1973年10月11日に被弾後、1975年に売却 |
主要目(三代) | |
総トン数 | 10,467トン |
垂線間長 | 150.00 m |
型幅 | 23.00 m |
型深 | 12.80 m |
吃水 | |
主機 | ディーゼル機関 1基 |
出力 | 13,000馬力(最大) |
航海速力 | 19.5ノット |
最高速力 | 22.45ノット |
1963年(昭和38年)11月19日竣工。10,467総トン。1960年代に計画、建造されたY型高速貨物船4隻の内の1隻で、1962年(昭和37年)10月竣工の「山梨丸」に続いて建造された船である。「山梨丸」の機関が17,500馬力であったのに対し、「山城丸」ではその低減が図られ13,500馬力となったが、球状船首(バルバス・バウ)の採用などにより「山梨丸」とほぼ同じ速力を発揮できた。
「山城丸」は日本・ヨーロッパ間の航路に就航した。1973年(昭和48年)10月4日、キプロスのファマグスタを出港した「山城丸」は、同日夜にシリアのラタキアに到着した。6日に岸壁に着岸して積荷を降ろし始めたが、この日に第4次中東戦争が勃発した。8日には積荷を降ろし終えたが出港が禁止されていたため「山城丸」は港に留まっていた。11日、港の沖でイスラエル海軍とシリア海軍の艦艇が戦闘を始め(ラタキア港襲撃作戦)、この日の午後に港の堤防の沖約2kmに停泊していた「山城丸」にミサイルが命中して火災が発生した。消火に失敗し「山城丸」は放棄された。乗組員には被害はなく、17日に全員が日本に戻った(なおこの時船医として乗り組んでいたのが女優・市毛良枝の父である)。「山城丸」の復旧は断念され、1975年(昭和50年)にギリシャのファニー・シッピング社に売却された後[18]、スクラップとして解体された。
脚注
- ^ a b c d 山高, 71ページ
- ^ 『布哇国派遣井上勝之助復命書』pp.3 、山高, 71ページ
- ^ 『山城丸外航資格変更ノ件』pp.5
- ^ 山高, 72ページ
- ^ 『日本海軍史』第10巻、510頁。
- ^ 『日本海軍史』第10巻、190頁。
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』348ページ
- ^ 山高, 52ページ。郵便汽船三菱会社による開設
- ^ 山高, 182ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』366ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』105ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』366ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』294ページ
- ^ a b c 『日本郵船戦時船史 上』354ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』349ページ
- ^ 『第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』pp.18
- ^ a b c d 『日本郵船戦時船史 上』351ページ
- ^ 『日本郵船船舶100年史』397ページ
参考文献
- 外務卿伯爵 井上馨『布哇国派遣井上勝之助復命書』 アジア歴史資料センター レファレンスコード:A03023615600
- 『山城丸外航資格変更ノ件』(山城丸内外航路資格変更の件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04014300200
- 連合艦隊第四艦隊 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年4月30日 第4根拠地隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030251100
- 『日本郵船戦時船史 上』日本郵船、1971年
- 山高五郎『図説 日の丸船隊史話』至誠堂(図説日本海事史話叢書4)、1981年
- 船舶技術協会『船の科学』1981年3月号 第34巻第3号
- 木津重俊編『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
- 野間恒、山田廸生編『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年、ISBN 4-905551-38-2
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。