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インテリ

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インテリまたはその原語であるインテリゲンチャロシア語: интеллигенцияインテリゲンツィヤ英語: Intelligentsia, Intelligentzia)とは、知識階級を指す言葉。なおそのような立場にある個人知識人ともいう。

概要

知識階級とも表現されるこの社会的な階層は、主に学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供したり、その知識によって発見発明された成果物を提供することによって、社会から対価を得て生活する。具体的には、政治家経営者として社会や経済を知識によって先導し、また芸術家クリエイターとして、文化的な創作活動によって、社会に新しい価値観を育んだり、学者として各々の分野を深く探求したり、または教師として教育の場で他を指導する立場を担い、その一方で報道関係者や評論家として道徳やモラルに関する警告を発して社会を律したりする者たちである。その一方で単にインテリと略されている場合は、単に高学歴であるというだけの意味にも使われるケースもある。

歴史

<ロシア語の「インテリゲンチャ」に関係する歴史>

19世紀の帝政ロシア時代には、皇帝と虐げられる農奴という封建社会身分制社会が形成されていた。 国民は皇帝の為に働き、国民の自由はほとんど無かった。

これは、「知識」を行使することについても同様で自由は無く、「皇帝や帝政を維持するためにのみ知識は使われるべきだ」というのが大前提の状態だった。 次第に、知識形成の過程も結果も歪められるようになっていき、こういった事を、教化(インドクトリネーション(en:indoctrination))という。

以下、少し読みづらいが原因が、「インテリゲンチャ」であるのか?「教化(インドクトリネーション)」であるのか?を主語を明確にして箇条書きで、「教化(インドクトリネーション)」の時代の説明を書く。

・教化(インドクトリネーション)というのは、帝政ロシア時代に始まったことではなく、もっと古い時代、多くの国や、主に宗教において使われてきた手法である。

・教化(インドクトリネーション)と、教育、学術との大きく決定的な違いは、教化(インドクトリネーション)においては、「書かれている事について、ある特定の思想、信条、価値観を強制的に正しいものとして信じ込ませる事。批判は絶対にしてはいけない状態で刷り込む事」である。(<関連>洗脳)

・教化(インドクトリネーション)によって作られた宗教体制を原理主義という。

・教化(インドクトリネーション)によって作られた国家体制の例では、ナチズムファシズムなどである。

・教化(インドクトリネーション)によって作られた人々や国民は、予定調和ハイブマインドを形成する。

・教化(インドクトリネーション)が行われている場合には、言論統制によって、現在のインターネット社会のように、都合の悪い記述が削除されるような状態である。

・教化(インドクトリネーション)の行われている社会の場合には、「出典(ソース)」という概念は崩壊してしまい、帝政や特定の宗教にとって良い記述を書けば、「お墨付き」を与えて、良い「出典(ソース)」元として保護して残し、都合の悪い記述は、跡形も無く削除されるので、結果的に、「出典(ソース)」元は全て、教化(インドクトリネーション)済みの領域しか見る事ができないようにしてあるので真相真実がわからないようにされている事が多い。

学術的に、真の価値のある記述が可能となるのは、教化(インドクトリネーション)によらず、自由な知的答弁環境を確保してから後である。

・教化(インドクトリネーション)の行われている社会で、支配者側に都合の悪い情報が削除された「お墨付き」を与えられた、良い「出典(ソース)」元のみでガチガチに構成された社会では、そこで形成される論理が、非常に小さなの中に閉じ込められた小さい思考になる事が多く、真実から目を背け続けた結果、次第に社会が破綻していき、まわりの地域から数百年、数千年も文明の進歩具合が遅れる事となる。(ちょうど、天動説地動説の時代のように)

これは、教化(インドクトリネーション)の行われていない側の外の世界にいる人々からは、この「教化(インドクトリネーション)の行われている箱庭」の様子は、全体をよく見る事ができ、「俯瞰」視と呼ばれる。

教化(インドクトリネーション)の行われている社会の中で暮らす人物の持つ非常に視野の狭い視点を「先入観」、「固定観念」、「ステレオタイプ」という。

教化(インドクトリネーション)によって作られるねじ曲げられた論理を「曲解」という。

教化(インドクトリネーション)の有無に関わらず、1個人の持つ視点を「主観」といい、自分ではない場所からの視点を想定して見る視点を「客観」という。

社会全体を上空から観察するようにして、全体の様子を視覚的に捉える事を「鳥瞰」という。

外側から見れば、全体の様子はよくわかりやすいわけだが、一方で、教化(インドクトリネーション)が行われている中で暮らしている人にとっては、一般人も支配者側も「論理や思考を俯瞰して見る事ができない」。

ロシア語の「インテリゲンチャ」という言葉が出だした帝政ロシア時代では、当時の知識人達は、精神的な矛盾を抱えていて、学者がどんなに頑張っても、真実の学術論理に沿った答弁はできずに、何もかも、「皇帝と帝政維持の為に」という社会体制の中で、知識形成の過程と結果の両方が歪められていき、知識が正常に利用されず機能しなくなっていく時代背景に悲観していた。

そのような帝政ロシアの時代背景の中で、次第に、「インテリゲンチャ」と呼ばれる「真に知的活動を楽しみ、自由な知識に対しての討論(批判も含めて)を楽しむ」人々が現れた。

「インテリゲンチャ」と呼ばれる知識人達は、次第に、帝政ロシアという社会制度によって農奴が虐げられる現状を「純粋な知的学術論理として」批判するようになり、身分制の廃止による国民の自由解放を訴えてロシア革命へと進む道筋を作った。

この時期の「インテリゲンチャ」と呼ばれる知識人達は、もう1つの特徴である、「知識人は社会を治め、様々な学術を駆使して、世の中に存在する問題を解決していく義務がある」といった精神性が形成される事となった。

この同じような時期に、世界では、市民革命(フランス革命など)が次々と起こり、大きく時代を変革する時期となった。 しかし、こうやって作られたのは、農奴を社会階級の1つとして持ち上げる事だった。

次の時代にきたのは、プロレタリアート(労働者階級)とブルジョワジー(少し裕福な市民から出た中産階級)による市民階級という社会制度だった。 ブルジョワジーの階級は、自らが農奴より少し裕福な事を理由として、自らが所有する畑や産業工場などで、プロレタリアート(労働者階級)を働かせて私服を肥やすような社会制度になっていった。

このようにして作られた市民階級という制度では、市民が階級に加わったという証を示す(帝政時代の皇帝階級や貴族階級のようにヒエラルキーがある)必要があり、ブルジョワジーと呼ばれる人々の特徴の1つに、「過度に着飾り、過度に贅沢をする」という行動パターンを取ることによって、自らが階級に所属していることをアピールするようになった。

このような歴史過程から、「インテリゲンチャ」という単語のニュアンスを正確に翻訳すれば、「知識階層」、「知識階級」、「批判的知識人」といったニュアンスになる。

現在の世界の多くの国は、市民革命以降なので、国民に自由な意思や活動が認められてはいるものの、国家や産業にとって扱いやすい国民を育てるように、教化(インドクトリネーション)は少なからず残っており、学校教育という子供の囲い込みとなっている。

日本では、教化(インドクトリネーション)の影響の事を「協調性」と呼んでいる。

教化(インドクトリネーション)が真の教育や学術に悪い影響をもたらすのは、日本では、「協調性」からはみ出した子供や人がいた場合には、それがどんなに正しい事であっても、「協調性こそが正しい行いである」と教化(インドクトリネーション)されている為に、「ハブる」、「干される」などの、いじめが発生する事である。

現在の状態は、帝政ロシア時代の「皇帝の為に」が、「市民階級共同体の為に」にすり替わっただけである。 「全体」を基軸にして行動する人々の事を、「ハイブマインド」、「運命共同体」などと言い、「運命共同体」のようなものを形成する社会を構築すると、その中に取り込まれている個体を1人だけ取り外すと生存が不可能になる。(<関連>全体主義)

これが、日本のいじめが直接、自殺につながる原因である。 過度な組織性を持ったものの中に取り込まれている中から個体を1つだけ取り出すと生存が不可能になるという現象は、生物学の方の共生関係にある生物も同様に生存できず個体は死ぬ。当時、全体主義に危機感を覚えて、主に、フランスでは対立する概念の「個人主義」が成立したが、「個人主義」とは、各個人個人が自由に主張しあう中で結果として社会や全体を作っていく社会政策の考え方で、この場合には、「個人」の意思が尊重されるので、全体の中から個体を1つ取り出しても、「個」に内在された知性、知識や、その個体そのものが死滅する事はない。

教化(インドクトリネーション)が行われている社会を形成している場合には、教化(インドクトリネーション)で教えられた以外の行動を取った人物の事を「常識外れ」と呼ぶ行動を取る事が多く、そのような状態を形成する事を、「ハイブマインド」、「予定調和」と呼ぶ。(<関連>洗脳)

真に「自由な知識や知的行為を楽しむ」には、教化(インドクトリネーション)のある教育制度を何とかしなければいけない。

<日本語の「インテリ」という単語に関係する歴史背景>

日本語の「インテリ」という単語は、ロシア語の「インテリゲンチャ」という言葉の正確なニュアンスとは、ほど遠いので別の意味の単語と捉えた方がいい。 日本では、昭和の軍国主義時代の戦中には、国民の自由はほとんど無く、帝政ロシア時代に似たような社会体制を持っていた。(<関連>日独伊三国同盟)

戦後になって、シベリア抑留などの影響で、ロシアの文化人と接する日本人も増えて、日本の左翼活動家が、「自由な国民の知的活動を確保する」といった運動の中で、ロシア語の「インテリゲンチャ」という単語を使ったことで、日本でも知られるようになった。 その後、歴史背景はあまり理解されないまま、日本語では、単に、「インテリ」は「知識人」の事を意味するだけに留まる事となった。

関連語

インテリジェントビル情報化に対応して、通信電力などのインフラを重点的に整備されたビル)の省略形としてインテリビルと呼ぶ場合も見られる。中で働いている人間が主にインテリだから、こう呼ばれる訳ではない。

ヤクザの中にもインテリヤクザと呼ばれる系統がある。

Intelligentsiaは内面を表す英語のインテリアと同じ語源で(英語のインテリア・デコレーションのことを日本語ではインテリアと言う)、内側の面を意味する言葉であり、インテリは外面ではなく人間の心理の内面や内面から自発的に現れる道徳観・知性・人間の心の認知構造などの内面の働きに用いられることも多く、他にも学問を修める状態にあることを表すことにも多く用いられる。

アルフレート・ヴェーバー造語知識社会学カール・マンハイムが積極的に論じた(自由に浮動するインテリゲンチャドイツ語版)といった言葉があり、社会学など学問の世界で術語として用いられている。

置き換え

似たようなイメージを持つ概念としては選民思想にも絡むが、[独自研究?]特に1990年代以降ではインテリが死語(廃語)にもなってきているため、置き換えも見られる。

ハイソ[独自研究?]
ハイソサエティ(=上流階級)の略だが既に死語になりつつある。インテリを含む上流社会に属する人々の層を指す。日本では近年、大衆は各々の生活において「中の上」であると考えており、大衆とは無縁とされていた家系に付属する身分―門閥・閨閥の階級は否定的に扱われる事もあるため、上流社会という社会的階層の存在も否定的に扱われるケースも見られる。
セレブ[独自研究?]
セレブリティの略で、直訳では「著名人」だが、本来の意味はマスメディアへの露出が高く社会的注目度が格別高い人々を指す。「空き樽は音が高い」という慣用句もあるが、目立つこととインテリジェントかは関係がない。[独自研究?]

日本国内における動向

日本では明治時代以降の、学問が広く大衆に開かれたものとなっていく過程において、労働者階級の対比語として略語のインテリが用いられるようになっていった。太平洋戦争以後は学問の大衆化が更に加速し、かつては高等教育として一般大衆には無縁と考えられていた大学大学院で、多くの人が学問を修めるようになり、次第にインテリ層の拡大が起こっている(駅弁大学を参照)。

ただ、更に時代を下がって1970年代以降に、学問が単なる就職のための踏み台として利用されるようになり、他方では知識を持っている事と選民思想が連携して、知識の無い層を否定的に扱うような風潮が出始めた辺りから、世相の上でインテリの在り様に対する否定的な見解が現れはじめた感は否めない。

1980年代に入るとこの就職のための大学という位置付けはますます加速し、同時に学問を修める過程でその理解の度合いを計測するための試験が、試験のためだけに学習する、言い換えれば学問を修めるのではなく、大学の教育課程を通過するために学習するという逆転現象が発生するに至り、学徒(学問の習熟過程にある存在)としての学生は減り、単に大学に在籍しカリキュラムを消化するだけの「大学生」の増殖によって、その学習意欲面での質の低下も懸念された。

1970年代以前より、いわゆるインテリが、その学問をもって他をおとしめるようなネガティブな印象は存在したが、学歴差別に見るような、修めた学歴を一つの指標として優位性の誇示を行う人間の存在が、なおもインテリの失墜を招いている。[独自研究?]また他方では、インテリが専門分野でのみ優れた知識を有し、それ以外では常識にも欠ける者も見られた事から、オタクとの同一視も発生している。[独自研究?]

学問を真面目に修めている側が、「ガリ勉」などとして揶揄されるケースもあり、学問の習熟を妨げる事態も発生している模様である。

関連項目